2.陽炎


 ──来た。また、あの夢。


 仕事をした日に必ず見る夢。



 音もなく開いた障子戸から、背の高い男が闇に紛れてやってくる。暗闇で顔は見えないのに、不思議と恐ろしいとは感じない。


 布団を敷いて眠る蓮華の掛布を捲り上げ、男の手が寝間着の腰紐を解いていく。

 夜毎素肌を滑る手は蓮華を知り尽くし、男の唇は秘められた恥部を暴いて狂わせる。


 目を開いて男の顔を見ても、目覚めると忘れてしまう。

 卑猥で乱暴な言葉を耳元で囁かれても、どんな声だったか覚えていられない。


 毎晩のように男の熱を穿たれても、朝になればすべて夢だったのだと、曖昧な記憶を辿るだけ。


 最初こそ抵抗していた夢の中の蓮華も、今では熱心な男の執着に絆され、男を受け入れてしまっている。

 手に入るはずがないと諦めていたものが、手に入ったときのような高揚感。


 ──この瞬間を望んでいたのは誰なのか。


 微かな疑問も理性もかなぐり捨てて、何もかも男に委ねてしまえば、心地よい快楽だけが待っている。

 夢ならいっそ、醒めなければいいとさえ思えてしまう自分が恐ろしかった。




 障子越しに差し込む淡い光に目覚めると、まだ微かに燃える残り火が身体の中心で燻っていた。


 蓮華は気怠い身体を起こして、ぼんやりと周囲を見渡す。

 床の間には昨日花瓶に生けたばかりの花が飾られており、それ以外特に目に付くものはない。いつも通りの蓮華の寝室だった。


 昨日は仕事を一件こなしたきり、疲れてずっと部屋に篭っていた。憑依はどれだけ慣れていても、精神と体力を消耗する。強い怨念を身体に入れたので、相当疲れていたようだ。

 客の女性は、一体どうしてあんなに恨まれていたのか。もう少し来るのが遅ければ、怨念によって命を落としていたことだろう。


「お嬢、お目覚めですか?」


 縁側の障子に、陽炎の影が現れた。

 蓮華が目覚めた完璧なタイミングで声をかけてくるのは、世話係である陽炎の日課だ。

 なぜ起きたと分かるのだろう? という疑問を抱くのは、妖の彼を前にしては無駄なことだ。


 おはようと返事をしようとして、蓮華ははっとした。少し乱れた寝間着の合わせを慌てて直し、障子に向かって叫ぶ。


「陽炎、入って来ないで!」


「ええ? やだなぁ、許可もなく入りませんよ。朝食をお持ちしましょうか?」


「……先にシャワーを浴びたいの」


「分かりました。では一時間後にお持ちしますね」


 それだけ言うと、障子に映っていた陽炎の姿は消えてしまった。


 陽炎の気配がなくなると、蓮華はほっと息をついた。脚の間に感じる湿り気に、瞬く間に頬が熱くなる。


「もう……どうしてなの……」


 このどうしようもない夢の余韻に、両手で顔を覆った。

 毎夜淫靡な夢を見ているなど、陽炎には気付かれたくなかった。

 顔も知らない、声も分からない男に身体を開き、あられもなく乱れる自分がいることを、陽炎だけには知られたくない。



 蓮華がシャワーを浴びて居間に行くと、すでに陽炎が朝食を用意して待っていた。

 離れには居間と寝室、台所や風呂もあり、ここだけで生活のすべてを完結できるようになっている。食事は三食とも母屋の方から陽炎が運んで来てくれるので、用がなければ蓮華が離れから出ることはあまりない。


「お嬢、おはようございます。ちょうど今運んできたところです」


「おはよう、陽炎。相変わらず完璧ね」


「そりゃあもう、お嬢のことなら何でも分かりますから」


 得意気に笑う陽炎を見て肩を竦めると、蓮華は畳の上に座った。食事の邪魔にならないよう、さっと後ろで髪を結ぶ。

 蓮華は家にいる時は基本的に着物を着て過ごしている。寝る時は軽く帯を巻くだけの浴衣を寝間着とし、今は楽に動ける部屋着用の着物姿だ。和服は慣れてしまえば着付けも一人でできるし、何より幼い頃からずっと着ているので、この格好が一番落ち着ける。季節に合わせて柄を選ぶのも楽しくて好きだった。


 長方形の木製テーブルの向かいには、黒のスーツの上着を脱いだ陽炎が楽な姿勢で座っていた。ネクタイは食事に付かないようポケットに入れ、ワイシャツの袖を捲ってすでに箸を手にし、蓮華の合図を待っている。


 食事はいつも陽炎と一緒だ。家族と食事をした記憶は、幼い頃で止まっている。


「食べましょう」


 両手を合わせていただきますと呟けば、向かいで陽炎が同じように声をあげた。

 温かい味噌汁に白米、焼き鮭に大根と白菜の漬け物。蓮華が自分で漬けた梅干しも添えて、慣れ親しんだ食事を陽炎と一緒に食べるのが一日のはじまりだ。


「お嬢、今日は午後から一件仕事が入っていますよ」


「また悪いものでも憑いてるの?」


「いやぁ、なんでも最近身内が事故や病気と不幸が続いているようで。憑き物落としを依頼しているようです」


「それは神社にお願いすればいいじゃない」


「奥様の懇意にしているお客様だそうです」


 はあ、と溜め息が漏れた。

 秋月家の当主は母親の菊乃きくのだ。秋月の血を引いているのが母であり、父は婿養子なのだ。祓い屋の仕事は人伝の紹介のみの裏稼業なのに対して、父は旅館を経営しているためほとんど家にはいない。

 同業の家の息子だった父と母は政略結婚し、二人の間に愛など存在しなかった。


 秋月家の血を絶やさないため、蓮華も近いうちに決められた相手と結婚することになっている。

 いくつかある分家のうちの息子だ。秋月の血を引いているが、かなり薄い血筋の相手だった。


「気が進まないわ。憑き物落としぐらいお母様が受ければいいのに」


「次期当主として、お嬢に期待しているのでしょう」


「嘘よ。どうせ朝霧あさぎりと上手くいっていないんだわ」


 朝霧は秋月家に仕える妖狐だ。主に母である菊乃と行動を共にしているが、あくまで契約の範疇でしか言うことを聞かない。最近ではあまり見かけないので、屋敷の外で自由にしているのだろう。


 妖狐と秋月家は表裏一体であり、古くに先祖が結んだ契約が今もなお受け継がれ、秋月の血を引く者にだけ妖狐は力を貸してくれる。


 蓮華にとっても、陽炎の存在はなくてはならない。憑依体質は一方通行だ。憑依をさせることはできても、自分より強い力の悪霊や妖怪を身体から追い出すことができない。


 身体を奪われることは、死を意味する。

 だからこそそれらを食糧にしてしまえる妖狐の存在が必要不可欠なのだ。

 陽炎が傍にいてくれることで、蓮華は普通の生活を送れている。


「その点私たちは仲良しですね、お嬢」


 切れ長な二重瞼を細めて笑う陽炎に、蓮華はぷっと吹き出した。


「そうね、貴方は狐というより犬みたいだわ」


「いやいや、立派な狐ですよ! なります? もふもふの狐に」


「毛が飛ぶからやめてちょうだい」


「酷いじゃないですか! 私はお嬢を癒すためならいつでも愛玩動物になりますよ!」


「そう? それじゃあ最近肌寒くなってきたから、狐の陽炎に添い寝でも頼もうかしら」


「いや、それは是非このままの姿で」


 生真面目な顔でふざけたことを言うので、蓮華は呆れるしかなかった。

 お調子者ではあるが、陽炎の明るい性格にはいつも助けられている。


「陽炎、それは自分で運ぶわ」


 食事を終えて二人分のお盆を片付けようとした陽炎を制すと、蓮華は髪をほどいて自分のお盆を手に立ち上がった。


「仕事は午後でしょう? 少し散歩に行かない?」


「いいですね。おやつ買ってください」


「はいはい、貴方って時々子どもみたいね」


 蓮華がくすくす笑うと、すぐ横に立った陽炎がこちらを覗き込むように顔を近付けてきた。


「お嬢よりずっと大人ですよ。ついでに男です」


 不敵な笑みを浮かべる陽炎の漆黒の瞳を見返し、蓮華は息を詰めた。染みひとつない端正な顔を目の前にして、心臓が鼓動を速める。

 すると蓮華の気持ちを知ってか知らずか、陽炎は蓮華の髪を耳にかけ、そっと耳打ちした。


「どきどきしました?」


 低い声で囁いて悪戯に笑う陽炎の姿に、蓮華の頬は一気に熱を帯びた。


「もう! 陽炎! 揶揄わないで!」


 思いきり肩を叩くと、陽炎は楽しそうに笑い声をあげる。

 膨れっ面で陽炎を見上げた蓮華は、思わぬ既視感に動きを止めた。


 今までどうして気付かなかったのかと疑問に思うことが、突然頭に浮かんできたのだ。


 ──背が高い。


 夢の中で何度も蓮華を抱く男と、陽炎の背丈は同じぐらいだった。


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