君の隣、いいかな?
華周夏
プロローグ《last & first》
山にきのこを採りに来た。ハナイグチという、針葉樹林で採れるきのこだ。この辺の人は言う。家族も言う。
『山菜が採れる所は教えっけど、キノコだけは教えらんねなあ』
俺も教えられない。この場所には、いたるとこにきのこがはえている。
誰かが言っていた。このきのこは、死体があるところにはえるって。
雨が降ってきた。
舌打ちして、自分で建てた山小屋まで歩く。山の雨は変幻自在だ。
大粒、霧雨、雷のおまけ付き。しかし思えば急に雲が裂けて青空が見えるときもあった。
今は霧雨。いや霧だ。
前も見えない。しばらく用心して進むとセンスのいいロッジがあった。指が冷えてきた。お湯をもらえたら。人がいたら。
『すみません。すみませーん』
音の無い白に近い視界中の山ルックの若い男。怪しいと自分でも解る。
『どちら様ですか?』
『きのこ採りをしていたんですが、迷って』
実際迷ってしまった。そして、インターフォンの向こうの声がこんなに若いとは思わなかった。男の人に言うのも何だが耳に心地いい声だ。
そして、なんでこんな山奥に、こんな若い男の人が独りでいるんだろうと不思議に思った。霧で前髪が固まるように濡れていく。寒い。
『今開けます』
カチャリと音をたててドアから出てきたのは整った顔をした青年だった。
『災難でしたね。暖房いれますね。紅茶はいかがです?』
俺は暖かいなら何でもいいと言うように少し横柄な態度でその人を見た。
その人は俺を懐かしむように見るからだと思う。愛想笑いの一つもできなかったのは、雨で冷えきっていたせいだ。そんな自分が嫌になる。
しばらく歓談し、
どうしてこんな山奥に住んでいるのか訊いた。
『待っているんです。待って《いた》かな。愛したひとがいました。優しい人で、街に憧れが強かった。街に行けば、全てが終わって新しい世界があると信じていました………必ず迎えにくると、あの人は言ったのに。けれど、僕には無理でした。僕はあの人を信じきれなかった。弱かった。………でも』
僕は忘れられてしまいました。
今はもう、誰も僕を知らない。
何を、しているのかも。
生きているのかさえも。
紅茶を頂き、ここにいることは一分が一日ではないかと思えた。シナモンの香りがするビスケット。不思議な時間だった。凛太郎と名乗った男は、やさしい、寂しい瞳をしていた。
『では、行きますね、霧も張れました。あなたも外の空気を吸うといい。凛太郎さん。俺は博雅、佐々木博雅と言います。
私の手作りの小屋へ案内しますよ。一緒に行きましょう。未々キノコが生えています。
一緒に取りましょう』
手を伸ばして、柔和な笑顔が似合う凛太郎と名乗ったはっきりとした二重の男性の手を掴もうとすると、彼は泣いていた。
『どの人も、僕をお礼だけ言って僕をここに置いていったけど、やっぱり君だけだね。僕と一緒に外に行こうって言ってくれたのは。やっと迎えに来てくれたんだね。ありがとう。ひろ、博雅。初めて君の名前を呼べた。嬉しいよ。博雅、か。良い名前だね』
ああ、やっと『本当に』死ねる。やっと君にもう一度会えた。いつか名前を、君の名前を目を見て呼びたかったんだ────。
懐かしい日々は、幸せだけど寂しいんだ、特に独りには。
もう長く、時間の狭間で待ちすぎたよ。身体は常世。だから『もたない』んだ。でも、会えた。君は歳を重ねて素敵な大人になったんだね。
良かった。博雅、君は今幸せ?僕は幸せだよ。また君に会えたんだから。
さよなら。ありがとう。ごめんね、
凛太郎がそう言うと、パサッと音がしてさらさらと白い粉に姿を変え凛太郎は消えた。
凛太郎に下処理を頼んだ、籠に入れたハナイグチもあちこち飛び散った。
骨、死体………。ハナイグチ。昔、自分が凛太郎に得意気に教えた、ぬめりがある美味しいきのこだった。
服だけになってしまった凛太郎。
『凛太郎、凛太郎!』
俺は凛太郎のシャツを抱きしめた。
思い出す、俺のいつかの記憶。凛太郎がいなくなって、あんなに泣いたのに、悔やんだのに。
凛太郎のことはずっと憶えていた。命日にはお墓参りに花を持っていった。
どうして、今まで、このロッジを思い出せなかったんだろう。凛太郎に関する記憶が霧がかかったみたいに。
初めて話した時、凛太郎は図書室で顔を紅く染めて言っていた。
『ぼ、僕、葉山凛太郎って言います。気持ち悪いかもしれないけど、いつも、図書室で本を読む君を……見て、ました。いつも、物静かで、憧れて、す、好き、なんです』
『あ、うん。知ってたよ。別に好き嫌いなんて本人の自由じゃないか?あ、本好きなの?』
『好きだよ。って、え?本、あ、本、大好きです。ごめっ………君は、僕を知ってるよね……?僕のこと、気持ち、悪くない?』
『べつに。気持ち悪くなんか無い。恋愛なんて、自由じゃないか?』
凛太郎の声は潤んでいて、今にもこぼれそうな瞳をしていた。
『じゃあ、明日この図書室で、待ってていい?君の好きな本、見せてくれる?忘れないで、くれる?僕、凛太郎っていうよ。あのさ、君の、と、隣、いいかな?』
『構わないよ。案外俺が、先に来てるかもな、図書室』
────────
忘れないで欲しかった。
だから僕は君を忘れないでいた。
ほんの小さな思い出にも出来事にも、
僕には博雅、君がいる。
『凛太郎』って僕を呼ぶ君の声も、僕はしっかり憶えているよ。
僕の心には、君が棲んでる。
『──君を忘れられたら、僕の心は苦しいものではなかったのかな』
昔そう博雅に僕は言ったけど、あれは強がりなんだ。君を忘れてしまったら、どんなに楽で、どんなに悲しいか。
かつて好きだった人すら思い出せない悲しみなんて、考えたくない。
博雅、君のこと『ヒロ』って少し仲良くなったときに君を呼んだことなんて、気づかなかったよね。僕は緊張して、苦しくて、たまらなかった。君は解らなかったでしょ?
そう言えば、すべての始まりは図書室だったね。
『あ、しおり落としたよ』
可愛い、きのこと小人の絵。
『あ、ありがとう』
照れ臭そうに、君はしおりを受け取った。
『きのこの本?』
『以外に面白いんだよ。俺、本買っちゃった』
屈託の無い君の笑顔。綺麗な歯並び。思い出は綺麗で、あの時、君だけは優しくて、泣きたくなったんだ。
あんなことが始まりなんて、
人は悲しくて、哀れで可愛い生き物なんだね。
昔案内してくれたね。ハナイグチがある所って、死体があるかもしれないって。あんなに美味しいきのこなのに。君がご馳走してくれた料理。
手を握ることもない。ただ、隣で本を一緒に読むことだけを許された存在。
君と過ごした、短い過ごしたかった時間。哀しいくらい君で溢れていた。
それでも良かった。
幸せだったよ。好きだったよ。
また、先に行って待ってる。
博雅はゆっくり来て。
また、いつか。
いつか会いに行くよ。
そのときは君の隣の席、いいかな?
また、きのこの本を見せて。
────────プロローグ《FIN》
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