第三十八話
【叛徒と忠誠】
敵はまだ到達していない。この一瞬の静寂が、彼らにとって貴重な息継ぎの時間となっていた。
レックスたちが「青龍大橋」と呼ばれる戦略拠点に到着したとき、彼らはすぐさま臨時の防衛線の構築に取り掛かった。
廃棄された車両、崩れた壁、散らばった鉄筋や木材──ありとあらゆるものを利用し、大橋をまるで鋼鉄の壁のように作り変えていった。
激しい戦いの中で、当初七百余名いた兵士は、今や四百名余りにまで減っていた。死傷者は甚大だった。
兵士たちはすでに疲労困憊し、顔には土埃と血がこびりついていたが、誰一人として手を止める者はいなかった。
なぜなら、ここが最後の防衛線だと、彼らは知っていたからだ。
「こちらジョナサン。応答願います……繰り返す、こちらジョナサン。応答願います」
ジョナサンは繰り返し皇都本部との通信を試みていたが、耳に届くのは雑音と沈黙だけだった。
「まだ通信は繋がらないの?」
ジェニーが不安げに声をかける。
「もう丸一日、何の返答もない」
ジョナサンは首を振り、眉間に深い皺を刻んだ。
「まさか……敵がもう皇都に侵入したとか?」
エリアスの言葉に、場の空気が凍りついた。
しかしゼロが即座に否定する。
「それは考えにくい。敵が皇都に入るには、まずこの橋を通らなければならない。俺たちが来てからここは一度も動きがない」
「空から降下して、後方から迂回してる可能性は?」
ルカが別の可能性を挙げた。
「でも戦争が始まった初期以降、敵の空挺部隊はほとんど姿を消している」
エリアスが補足する。
ジョナサンも頷いた。
「ああ、空挺部隊は基本的に偵察や潜入任務向けだ。大規模な空挺作戦をやれば、空中で撃ち落とされるのがオチだ。敵もそれは分かっているはず」
しばしの沈黙が辺りを包む。
「くそっ……この人数で、本当に敵の主力を止められるのかよ……」
マルコが低くつぶやく。抑えきれない焦燥が滲んでいた。
「もし皇都と連絡が取れれば、国防軍に支援を頼めるかもしれないのに……」
そう言いかけたマルコは、すぐに言葉を継いだ。
「そういえば、国防軍の総兵力ってどのくらいなんだ?」
ジョナサンは少し考えた後、答える。
「おおよそ四万人だ。国防軍は皇都防衛を目的とした精鋭部隊だから、敵が皇都の城門に迫るような状況でない限り、そう簡単には動かない」
「おい、マルコ、何やってるんだ?」
ジェニーが眉をひそめて訊ねる。マルコは通信機を片手に、大橋の端を行ったり来たりしていた。
「電波を拾える場所を探してるんだ。橋の鋼鉄構造が、何かしらの反射を生んでくれるかもしれないと思って……」
マルコは呟くように言いながら、わずかな希望に縋るような目をしていた。
ジェニーはため息をついた。
「やめときなよ、そんなの意味ないって。この場所じゃ通信なんて……」
そのとき、通信機から微かな雑音が響き、次いで断続的な声が聞こえてきた。
「……都……通…部……受信……信号……」
マルコはその場にぴたりと足を止め、目を見開いた。
「受信した! 本当に電波を拾ったんだ!」
「なにっ?!」
全員が驚いて一斉に振り向いた。まるで耳を疑うように。
「本当にか?」
ゼロが驚愕の目を見開き、マルコのもとへ駆け寄った。
次の瞬間、皆がマルコの周囲に殺到する。それはまるで夜明けの光を見つけたかのようだった。
ジョナサンはすぐさま通信機を手に取り、興奮を抑えながら、切迫した声で叫んだ。
「こちらジョナサン! 皇都への接続を要請する、繰り返す、至急、皇都との接続を!」
短い雑音の後、ようやく応答があった。通信機の向こうから、はっきりした男性の声が聞こえる。
「こちら皇都通信部、ジョナサン少将の信号を受信しました。現在の状況を報告願います」
「皇女ヘレナと話したい! 彼女のチャンネルに今すぐ繋いでくれ!」
通信機の向こうで、数秒の沈黙が流れる。その無言が、何よりも不安をかき立てた。
やがて、相手は慎重な口調で言葉を発した。
「ジョナサン少将……大変申し上げにくいのですが、ヘレナ殿下は反逆罪の容疑により、臨時政務委員会の命で拘禁されています。現在、皇宮内にて軟禁状態にあり、外部との接触は禁じられています」
橋の上は、静まり返った。全員がその言葉に凍りついた。
「……どういうことだ?」
ジェニーが眉をひそめ、怒りに震える声で問い詰める。
「まさか……ヘレナ殿下が囚われたっていうの?」
通信の向こうの人物は、少しの間ためらった後、意を決したように口を開いた。
「はい。政務委員会の決定により、ヘレナ殿下は警務部隊と国防軍の強制的な動員を行い、越権行為および無断の軍事指揮を理由に、昨日正式に拘束されました」
「前線部隊を救うために、国家を守るために、自ら行動を起こした皇女が……反逆者として処罰されたっていうのか?」
ジョナサンは低く、怒りを滲ませながらそう呟いた。
「私たちは……政令に従っているだけです」
その返答には、どこか自信のない、怯えたような響きがあった。
「命令だと?それがあんたたちの命令か?仲間が戦場で血を流しているのを見殺しにして、助けようとした者を監禁する?あんたたちは臆病者だ。敵軍には膝をついて降伏するくせに、真実と向き合う勇気もない政治家の飼い犬だ!」
ジョナサンは怒声をあげ、橋の上の空気を震わせるほどに咆哮した。
叫び終えるや否や、彼は脇にあった金属製のガードレールを拳で殴りつけた。「ガンッ!」と鈍い音が響き、拳の甲が裂けて血が滴り落ちる。
「どうか冷静に、少将……あなたの報告は政務委員会に届けます。通信を維持して――」
「くたばれ、政務委員会め!」
ジョナサンは怒鳴りながら通信機を地面に叩きつけ、一蹴りで蹴飛ばした。金属の筐体がコンクリートの上を跳ねるたびに、澄んだ音を何度も響かせる。
誰もが黙り込み、その場の空気は一気に張り詰め、息苦しいほどに重くなった。
「ダメだ、俺が助けに行く!」
ジョナサンは歯を食いしばり、目に怒りと決意を浮かべて言った。「彼女は、この国を救おうと心から願っている、ただ一人の人間だ!」
「落ち着け、ジョナサン!」
ルカがすぐに駆け寄り、彼の腕を掴んだ。
「今の状況じゃ、兵を割く余裕なんてない。お前もわかってるだろ、敵軍の動きは完全に不明だ。連中がこの橋に迫ってきていてもおかしくない。戦力がさらに削られれば、全滅だ。」
「ルカの言う通りだ。」
ゼロの声は冷静だったが、その中には抑えきれない怒りも含まれていた。「今ここで動揺して陣形を崩せば、俺たちは死ぬ。皇女も救えない。」
膠着した空気が漂う中、低く、だが確かな声が響いた。
「俺が行く。」
レックスが一歩前に出た。語調は静かだったが、その意志は鋼のように強かった。
皆が彼の方を振り向き、目を見開いた。
「レックス、正気じゃないの?」
ジェニーが思わず叫んだ。
「だからこそ、俺が行くんだ。」
レックスの声は穏やかだったが、その眼差しは鋭く研ぎ澄まされていた。「今の俺たちは完全に孤立している。皇都は兵を動かすつもりもない。ならば――俺たちの存在を、無視できないようにしてやる。」
「何をするつもりだ?」
桜井が眉をひそめて問う。
「皇都に戻る。ヘレナ殿下に忠誠を誓う士官や内通者と接触して、前線で何が起きているのかを知らせる。戦争は終わっていない。この国も、まだ終わってなんかいない。」
レックスの言葉はまるで鋼鉄の槍のように貫くようで、「俺が救いたいのは、彼女一人じゃない。この国のために戦おうとする、すべての者のためだ。」
皆が沈黙する。風の音と、遠くで時折鳴る爆発音だけが、夜の闇に響いていた。
マルコはしばし俯き、思案したのちに口を開いた。
「本気で行くつもりなら……俺たちで突破口を作らなきゃな。敵はいつ来てもおかしくない。お前一人で抜けようとしても……たぶん無理だ。」
ジョナサンも深く息を吸い込み、燃えるようだった瞳に理性を取り戻して言った。
「……お前が行くなら、可能性はあるかもしれない。」
「死にに行くようなものだって、わかってるだろうな?」
ゼロがレックスを見据える。目は一切逸らさない。
レックスは静かに笑った。
「この橋に足を踏み入れた時から、命なんてとうに賭けてるさ。」
その言葉は、全員の胸に重くのしかかった。
そして――
桜井がレックスの隣に立ち、はっきりとした口調で言った。
「なら……俺も行く。」
「君まで何を言い出すの?」
ジェニーが戸惑いの表情を見せる。
桜井はすぐには答えず、ただ遠くを見つめた。
空は硝煙に染まり、旗は破れ、土埃が風に乗って舞っていた。
低く、だが確かに、彼は言った。
「俺たちは相棒だからな。」
レックスは驚きの表情を浮かべたが、やがて理解の色を見せ、久しぶりに微笑んだ。
言葉はいらない。ただ一度の頷きで、すべてが通じ合った。
これは二人にとって初めての任務ではない。だが、もしかすると最後かもしれない。
二人とも理解していた。これは、ただヘレナのために行くのではない。この戦争の未来のため、信じるもののために進むのだ。
「マルコ、地図を貸してくれ。」
レックスが言った。
マルコはすぐに背中のリュックから、くしゃくしゃで破れかけた紙の地図を取り出し、鉄板の上に広げた。
レックスと桜井は身をかがめて、現在位置、迂回可能なルート、敵の配置を素早く確認した。
「ここに旧工業用の道路がある。狭いが、通れるはずだ。主戦区を回り込み、南の貨物トンネルを使えば、皇都の主要通路へ入れる。」
桜井が地図を指しながら言う。
「ここは俺たちが死守する。敵を一歩たりとも通させない。」
ジョナサンが歩み寄り、レックスの肩を力強く叩いた。「誰が来ようと、俺たちは耐え抜いて、お前たちの帰りを待ってる。」
「感謝するよ、少将。」
レックスは深く頷き、桜井とともに車両が集められた一角へ駆け出した。
そこはもともと臨時の集結ポイントだった。
簡単な探索で、なんとか始動できそうな古い軍用ジープを見つけ出す。車体は銃痕と錆に覆われ、窓の一部は砕けていたが、エンジンはかろうじて生きており、燃料も半分ほど残っていた。
桜井は素早く運転席の扉を開け、座席下のツールボックスを確認――予備マガジン2本、ナイフ1本、壊れた懐中電灯1本を発見。
レックスは後部の収納スペースを探り、小型の軍用ケースを見つけた。中には三日分の野戦食、浄水器、簡易救急キットが入っていた。
「準備完了だ。」
桜井はライフルを助手席の横に固定し、すっと副操縦席に乗り込んだ。
「待って、ここにマガジンが二つある。」ゼロが駆け寄り、装備をレックスに手渡した。「敵と遭遇したときに、役に立つかもしれない。」
「でも……」レックスはわずかに躊躇った。
「俺たちは持ちこたえる。お前たちが戻ってくるまで、絶対に。」ゼロは力強く頷き、断固たる口調で言った。
レックスはもう何も言わず、マガジンを受け取り、しっかりと握りしめた。
彼は運転席に乗り込み、キーを回すと、車のエンジンが静寂の中に低く鋭い音を響かせて始動した。窓の外を見れば、青龍大橋がまだ夜の闇と風雪の中に佇んでいる。そしてその橋の上には——未来のために共に戦うことを選んだ仲間たちが、風の中で静かに彼らの背中を見送っていた。
ヘッドライトが灯り、ジープは橋頭をゆっくりと離れ、未知と危機に満ちた道へと走り出す。
誰一人として振り返らなかったが、胸の奥には確かな約束が残されていた——必ず戻る、と。
「……頼んだぞ。」ジョナサンが低く呟いた。去りゆく背中を見つめながら、その声は風に飲み込まれるほど小さかった。
一方その頃——
薄暗い監獄の廊下に、ひとつの人影が静かに現れた。壁に取り付けられたタングステンランプがかすかな黄色い光を放ち、軍服の肩章に刻まれた痕を照らしていた。
「ヘレナ様……ヘレナ様。」男は声を低くして鉄格子へ近づいた。
牢の中のヘレナが目を開ける。疲れをにじませながらも、その瞳にはいまだに芯の強さが宿っていた。男の顔を見た瞬間、彼女は一瞬驚いたように目を見開く。「カーン?どうしてここに……?」
鉄格子の外に立っていたのは、防衛軍第四連隊の指揮官、カーン。かつてヘレナが最も信頼していた参謀の一人であった。
「声を抑えて、誰にも気づかれるな。」カーンはすばやく左右の廊下を確認し、誰もいないことを確かめると、小声で言った。「俺が殿下をここから出す。」
彼は軍服の内側から小型のロックブレーカーを取り出し、低く囁いた。「何人かの昔の部下とも連絡が取れた。みんな、協力する気だ。すぐに動けるよう準備を——殿下。」
「カチャリ」という小さな音と共に、錠前が強引に外された。ヘレナは彼を見つめ、瞳に久しぶりの希望の光を浮かべた。
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