第三十話
【悪魔の傷痕(あくまのきずあと)】
帰路の車中、誰ひとりとして言葉を発さなかった。
くすんだ黄昏は、まるで煙に染められた黒布のように空を覆い、車列の進む道を包んでいた。エンジンの低い唸りが車内に響き、その震動のたびに、彼らが目にしたばかりの惨劇を思い出させた。
今回の作戦では死者こそ出なかったが、車内に漂う空気は、どの戦闘後よりも重苦しかった。
ゼロは窓にもたれ、肘を膝に乗せた姿勢で、静かに後ろへと遠ざかる森を見つめていた。脳裏に浮かぶのは、あの少女たちの眼差し——それは単なる恐怖ではなかった。声なき救いを求める目。誰も、何も信じられないという絶望の色。
マルコはうつむき、両手をぎゅっと組み合わせていた。あの隠し扉が開いた瞬間の空気の変化、そして心臓が強く締め付けられた感覚は、今もはっきりと覚えている。もしゼロが気づかなければ……その先を想像するのも恐ろしかった。
レックスは最前列に座り、再び仮面をつけていた。背筋はまっすぐ伸び、一切動かない。その姿からは、言葉こそ発せられぬものの、内に燃える怒りが今なおくすぶり続けているのが感じられた。
何時間も、彼らは一言も交わさず、闇に包まれた山道を進み続けた。やがて、夜の帳が完全に降りる頃、ヘッドライトの光が一筋の孤独な光柱となり、ようやく見覚えのある城壁を照らし出した。
皇都——まだ灯りは瞬いているが、もはや安らぎなど残っていない場所——が、ついに目の前に現れた。
城門がゆっくりと開かれると、それまで喧騒に満ちていた軍営が、突如として静まり返った。
車列がゆっくりと中へ入っていく。鉄のタイヤが地面をこする音は重く耳に残り、それはまるで、何かを背負って帰ってきたことを告げるようだった。
これは勝者の凱旋ではない。
沈黙と真実を運び帰る道程であり、胸に刻まれる屈辱と痛みの始まりだった。
車が停まるとすぐに、ソフィアと支援隊のメンバーたちが駆け寄ってきた。
「戻ってきた……!」
歓声とも驚きともつかぬ声が上がる中、負傷者を乗せた車の扉が開かれる。
次々と兵士たちが車から降りてくる。その表情には疲労が色濃く、身体には傷が残っていたが、目だけは妙に澄んでいた。
久々に顔を合わせた仲間を見て、抱きしめる者、言葉少なに挨拶を交わす者、無言で肩を叩くだけの者もいた。
ジョナサン、ジェニー、エリアスたちもすでに現場に到着しており、車のそばで彼らを出迎えていた。
「……よかった、全員無事で……」
ジェニーが小さく呟きながら皆を見渡す。そしてレックスとZeroの姿を見た瞬間、その目が止まる。
ふたりの顔色は尋常ではなかった。特にレックスは、一言も発せぬまま車を降りたが、その身には乾ききらぬ血がまだ残っていた。
「君たち……怪我でもしたのか?」
ジョナサンが眉をひそめて尋ねる。
レックスはすぐには答えず、ただ身を翻して後方に手を振った。
その合図と共に、後部車両から次々と捕虜が引き出された。
彼らの姿を見た瞬間、誰もが思わず息を呑む。
捕虜たちは傷だらけで、顔には痣が浮かび、指の関節が歪んでいたり、完全に折れていたり、中には体を震わせて立つのもやっとな者もいた。
「これ……これは……?」
エリアスが息を潜めて尋ねる。
ゼロは隣に立ったまま何も言わず、ただ地面を見つめていた。
そのとき、レックスが車両の最後の一段を降り、ゆっくりと皆の前に歩み出る。
彼はまだ仮面をつけていたが、その仮面はひどく損傷しており、片側は砕け落ち、その下から冷たい眼差しがのぞいていた。
それは怒りでも、悲しみでもなかった。ただ極限まで抑え込まれた感情が、今にも爆発しそうに震えている、息苦しさを覚えるほどの気配だった。
レックスは捕虜の脇を通り過ぎ、仲間たちの元へと歩く。
その背後では、毛布を身体に巻いた数人の若い女性たちが、兵士たちに支えられながら車から降ろされていた。
彼女たちはうつむき、虚ろな目をしていた。まるで、まだ地獄から戻ってきていないかのようだった。
その場にいた全員が、言葉を失って立ち尽くしていた。
誰も何も言わなくても、あの発見と真実はすでに語るまでもなかった。
「……レックス……これは……」
レックスは答えなかった。ただ手を伸ばし、弱々しい捕虜――ポールを無理やり引き起こした。
「うあっ!」
ポールは苦痛の声を上げたが、体勢を整える間もなく、レックスの一蹴によって地面に叩きつけられた。
土埃が舞い上がり、ポールの顔は泥に押しつけられ、全身が震えていた。
その前に立つレックスの声は冷ややかだった。
「こいつが、俺たちが捕えた情報源だ。」
その声音は低く、しかし抗えない圧力を帯びていた。
「どう処分するかは……お前たちが決めろ。」
それだけ言って、彼は背を向けて歩き出した。
誰も彼を止めようとはせず、言葉を発する者もいなかった。
ただ、彼の背中がまっすぐに、無言で営地奥のテントへ向かって歩いていく。
その足元からは、血が一滴一滴と地面に落ちていき、まるで沈黙の生存者たちの叫びがそこに滲み出ているかのようだった。
ソフィアは担架で運ばれてくる若い女性たちの姿を見た瞬間、顔色を真っ青にした。
「すぐに医療棟へ!全身を消毒して、怪我がないか念入りに確認して……それと……」
彼女の声はかすかに震えていた。
「毛布をしっかり掛けてあげて。これ以上、寒さすら感じさせないであげて。」
彼女たちのほとんどは意識が混濁しており、小さく震えながらすすり泣いていた。
ソフィアはそのうちの一人の冷たい手を握りしめ、目に涙を浮かべた。
「もう大丈夫よ……これからは、私がそばにいる。誰にも、もうあなたたちを傷つけさせない。」
彼女は医療班に指示を出しながらも、奥歯を噛み締めていた。
胸の奥で怒りと悲しみが、圧力鍋のように煮えたぎっていた。
「こんなこと……許されるはずがない……!」
一方、ジョナサンは冷静に高級士官たちを招集していた。
「……あの捕虜、あのまま死なせるわけにはいかない。」
無表情な声。だがその語調には、珍しく冷たい響きがあった。
「彼が握っている情報は重要だ。兵力の配置だけじゃない。戦略、潜入部隊の展開……
我々は、彼がどこまで喋れるのか、把握する必要がある。」
副官の一人が耐えきれずに口を開いた。
「ですが、彼はすでに協力を拒否しており、あの女兵士たちにしたことは到底許されるものでは……!」
「分かっている。」
ジョナサンは目を閉じて、深く息を吐いた。
「だが、だからこそ……あいつを楽に死なせるわけにはいかない。
彼は証拠となり、そして目の当たりにするんだ。自分たちの帝国が、いかにして崩壊していくのかを。」
誰も言葉を発さなかったが、全員の目が、同じ決意と怒りに燃えていた。
レックスは宿舎に戻ると、音もなく扉を閉めた。
血にまみれたマスクを外し、次に軍服の外套を引き裂くように脱ぎ捨てる。
血痕に染まった軍靴が床を踏みつけ、濡れた血が入口から部屋の奥へと筋を引きながら染み込んでいく。
まるでその赤が、部屋全体に重苦しい静寂を押し広げていくかのようだった。
レックスはただ黙って、部屋の中央でうつむいたまま立ち尽くしていた。
その沈黙に、世界が全て沈み込んでいくようだった。
ちょうどその時、櫻井が廊下を通りかかった。
彼は元々、撤退準備の確認に来ただけだったが、ふと見えた――
わずかに開いた扉の隙間から――
レックスが部屋の中で、顔を手で覆い、わずかに肩を震わせているのが見えた。
それは疲労でも、怒りでもなかった。
――あれは……
櫻井は一瞬だけ立ち止まり、だが部屋には入らなかった。声もかけなかった。
彼はただ静かにその姿を見つめ、そして黙って踵を返した。
分かっていた。
今回の救出作戦が、レックスにとって、言葉では語れない痛みとなったことを。
一方で、負傷兵たちは中央の医療塔に収容され、ソフィアが自ら指揮を取り治療と看護にあたっていた。多くの心身ともに深く傷ついた女性兵たちは、病床の隅に身を縮め、声を出すこともなくすすり泣いていた。
ソフィアは何も言わず、ただ静かに毛布を掛けてやり、そっと看護師に耳打ちした。
「見知らぬ人を近づけないで……絶対に。」
その手は時おり震えていたが、彼女の顔には一切の動揺がなかった。彼女には分かっていた。目の前にあるこの痛みは、ほんの始まりに過ぎないということを。この傷は、薬では癒せないのだと。
ゼロは医療区画の外れの片隅に隠れるように座り、黙って行き交う兵士や医療スタッフを見つめていた。目は赤く、手にはあの密室で拾った小さなネックレスが握られている。それは、ある女性兵が落としたものだった。
彼は報告にも戻らず、テントで休むこともなく、まるで夜の見張りのように、そこに座ったまま動かなかった。
ジェニーはずっとレックスのそばを離れなかった。まるで、彼がまた何か狂気じみたことをしないかと恐れているかのように。レックスは尋問室を出てから一言も発していなかった。
「もう、休んで……」ジェニーがついに言った。
彼は答えず、ただ静かに周囲の人々を見ていた。
ジョナサンは通信指令部に戻るとすぐに皇女ヘレナに連絡を取り、作戦の概要を報告した。彼は報告の中で、女性兵たちが囚われていた詳細はあえて伏せ、「敵軍が秘密の収容所を設置していた痕跡があり、現在さらなる拠点の有無を調査中」とだけ述べた。
彼には分かっていた。この事実はあまりにも重すぎる。もし公にされれば、皇都中が混乱と恐慌に陥るだろうと。
通信を終えると、彼は椅子の背にもたれ、疲れ切った眼差しで空を見つめた。その目はまるで魂が抜け落ちたように虚ろだった。
エリアスと彼の部隊は、捕虜や持ち帰った装備の整理を担当していた。敵軍の残した物資、通信装置、地図などを一つひとつ精査し、次の襲撃が来る前に備えを固めようとしていた。
彼は多くを語らず、ただ一言、重く静かに言った。
「……この犠牲を無駄にするわけにはいかない。」
ソフィアの医療班は救護所の外に臨時の支援拠点を設け、病院に入りきれない傷病者たちに応急処置を施していた。ルカは補給部隊を各地に派遣し、皇都のあらゆる場所に薬品や物資を運び、後方支援の安定を図っていた。
だが皇都の夜は、彼らの帰還によって静まることはなかった。
むしろ、言葉にできない感情、地下密室で目にした光景、自責と無力感が、夜気とともに押し寄せていた。
誰もが分かっていた。この夜の傷は、永久に消えることはない。
深夜が近づいていた。
レックスは一人、隅の椅子に腰掛け、静かに煙草を一本灯した。
煙がゆっくりと宙を漂い、灯りが彼の険しい顔に淡い陰影を落としていた。
近くでは兵たちが静かに話したり、眠りについたりしていたが、彼だけはそこに馴染まないように見えた。
そのとき、ジョナサンがやって来た。
何も言わず、ただ彼の隣に腰を下ろし、懐から煙草を取り出して火をつけた。
二人は肩を並べて座り、無言のまま、夜の静けさに身を委ねた。
しばらくして、レックスがぽつりと口を開いた。
「……分からないんだ……」
その声は低く、掠れていた。
「……あの兵士たちの姿を見たとき、自分が昔の自分に戻った気がして……ただ、あいつを殺したくて仕方なかった……」
「指を斬り落としたときも、体にナイフで傷を刻んだときも……自分でも信じられないくらい、気持ちよかった……」
声は微かに震えながらも、抑えきれない激情がにじんでいた。
「もしかして……本当に俺は、悪魔なのかもしれない。……お前は変わったって言ってくれたけど……たぶん俺は何も変わってないんだ……ただの、血に染まった人間なんだよ……」
ジョナサンはすぐには答えず、ただ黙って彼の言葉に耳を傾けていた。
煙草の灰を軽くはたき、吸い終わった煙をゆっくりと灰皿に押し込む。煙が静かに立ち上り、空に消えていく。
レックスは言葉を続けた。
「……あいつに、ゆっくりと苦痛を与えたかった。……どうすれば、もっと深く絶望を刻めるか、ずっと考えてた……」
「……自分は、やるべきことをやっただけだと、あいつは言った。……じゃあ、あの女たちをあんなふうに傷つけたのも、『任務』ってことかよ……?」
長い沈黙のあと、ジョナサンはついに口を開いた。
「それは……お前のせいじゃない。あいつ一人のせいでもない。」
声は平坦だったが、どこか重く、深い響きがあった。
「……戦争が、全てを変えるんだ。」
「確かに、あいつの罪は許されるものじゃない。でも、俺たちも……この数年間、何人の人間を殺したか分からない。勇敢な者も、臆病な者も、無実の者も……」
「戦争は善悪を分けない。かつては善良な教師だった人間を、冷酷な殺人者に変えてしまう……」
「それが……戦争だ。」
レックスは煙草の火を消し、何も言わず、夜風に身を晒しながら、ただそこに座り続けていた。
キャンプの外に広がる森は夜の闇に飲まれ、遠くから時折鳥の鳴き声が聞こえる。山林を渡る風が、彼の額の濡れた髪を撫で、心の奥に沈殿した想いを揺り動かす。
彼は空を見上げた。黒雲に覆われた星々は、何も語らず、まるで沈黙を選んだかのように、光を失っていた。
何本吸ったか分からない煙草。だが、煙を吐くたびに思い出すのは、あの少女たちの怯えた瞳だった。
彼女たちは兵士じゃない。ただ、国のために何かをしたかっただけの、若く、まっすぐな心を持った少女たちだった。
それなのに――終わりは、あんなにも無惨だった。
夜風は吹き続ける。塵を巻き上げながら、レックスの心の奥底まで、静かに、確かに、吹き抜けていった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます