静寂の後で

ゆずちゃ

第1話

夜勤のフロアは、ほとんど無音だった。


唯一聞こえるのは、機械の音。規則正しく空気を送り込む人工呼吸器のリズム。それに合わせて、まるで生きているように胸が上下する利用者が数人、並ぶようにベッドに横たわっている。


山岸結月(やまぎしゆづき)、31歳。介護士歴9年目。もはや、仕事の大半は「生きているかどうかの確認」だった。


今夜も、301号室の大川ユメノさんの様子を見に行く。94歳。数年前に脳梗塞で倒れ、今では意識もほとんどなく、鼻と口にチューブ、排泄も食事もすべて他人の手に委ねている。


「生きている」——その事実だけがここに残されている。


何が残っているのだろう、この人に。意識のない人を「看取る」とは、いったい何を看て、何を取っているのだろう。


結月は、毎晩自問していた。問いの形さえ、最近は曖昧になっている。



ユメノさんが入所したのは、結月がまだ新人だった頃だった。


当時はまだ会話もできて、笑うこともあった。家族は「できるだけ長く、ここで」と口を揃えていた。けれど、面会に来たのは数回だけで、そのうち誰も来なくなった。病状が悪化していくなか、延命治療は「お願いします」との一点張りだった。


「どうして?」と聞きたかった。でも聞くことは許されなかった。介護士は“ケアする”だけ。何かを選ぶ立場にはいない。選ぶのは、いつも他人。



「生きてるって、なんなんだろうね?」


それをぽつりと言ったのは、数ヶ月前、夜勤中に一緒だった看護師の三宅だった。


その言葉がずっと頭から離れない。生きているとは。命とは。このチューブの先にあるものが、命なのか。


そして気づけば、結月の中で一つの感情が形を持ち始めていた。


——これって、本当に“生かされてる”って言えるの?



冬の夜、呼吸器の警告音が鳴った。


302号室。ユメノさんだ。駆けつけて、機械のモニターを確認する。酸素濃度が不安定になっていた。通常なら、すぐにナースを呼び、指示を仰ぐ。


でもその夜、結月はふと、ほんの一瞬だけ“考える時間”を取った。


手は機械に触れたまま、止まっていた。


(やめれば、たぶん……苦しまずに、眠るように……)


頭の中で、思考が静かに重く、沈んでいく。


この人に、何か“してあげられる”とすれば、それは何なのか。


答えは出なかった。ただ、静かに、心の奥で何かが壊れる音がした。


そして次の瞬間、チューブを抜いていた。



「ユメノさんが……亡くなりました」


そう報告したときの自分の声は、驚くほど冷静だった。誰も異変に気づかなかった。医師も、家族も、「寿命だったのだろう」と言った。


罪悪感も、後悔も、不思議なほどなかった。ただ、心に深い静寂が広がっていた。


それが、最初だった。



その後、何人かの「重度の要介護者」が、結月の夜勤中に亡くなった。


「偶然」と誰もが思った。だが結月の中には、確かな“意志”があった。


その“意志”を誰にも言わなかった。ただ、彼女は「苦しむ命」を「見届ける」のではなく、「そっと閉じる」ことを選び続けた。


「ありがとう」と誰かに言われるたび、胸の奥が空洞になっていく。


その空洞が、結月にとって唯一の「真実」だった。



——命とは、何かを選ぶこともできないまま、ただ延びていく糸のようなものなのか。


もしその糸を、誰かがそっと切ることが「優しさ」だったとしたら。


その行為を、人は「罪」と呼べるのか。

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