第21話「少年と太陽とイカロスの再挑戦」
時間はあっという間に過ぎた。
朝、学校に行く前と、放課後には飛行場でストライドを飛ばした。コースデータを何回もなぞって、飛び方の修正と機体の微調整を繰り返す。休日は朝から晩までずっと、カズキと共にテスト飛行を続けた。ヒナタは何回か顔を見せたが、長居はしなかった。バイトを始めて忙しいようだ。
中間テストもあった。正直、勉強をしていられる気分ではなかったが、ストライドがうるさいので、渋々と机に向かうことになった。まだパーツ代の支払いは残っていたが、大会が終わるまで、バイトと爺さん達の手伝いは休ませてもらった。
そして、大会当日の朝を迎えた。まだ街が静けさを残している時間、空には雲一つない快晴が広がっていた。淡い陽光の下、ハルトは店先に停まったバンの脇で、運転席の店長へと頭を下げる。
「車、出してもらっちゃって、すみません」
「構わん。これぐれえの世話は、してやるさ」
海の上で行うレースだけあって、会場は市内の海岸だ。そこまでの移動に、店長が運転を買って出てくれたのである。
「……これ、着てけ」
店長は助手席に置いてあった上着を取り、ハルトへと差し出した。手渡されたのは、黒地のフライトジャケットだった。胸元には、クラブの名前と、白い五弁花を描いたエンブレムが刺繍されている。
「これ……」
「昔、クラブで作ったやつが残っててな。サイズはちょっとデカいかもしれねぇが……」
そこで少し言い淀んでから、店長は言葉を続ける。
「……お前の、爺さんの分だ。出来上がる前に入院しちまって、渡しそびれてよ」
祖父が着るはずだったジャケット。何年も前に作られて、まだ一度も袖を通されないまま残されていたそれを、ハルトは両手で丁寧に受け取る。
「……ありがとう、店長」
「礼なんざいらん」
短く返すと、店長はぶっきらぼうに言って、視線をハルトから外した。
「バイト」
その代わりと言わんばかりに、車内から小さな機体――メッサンがダッシュボードから、ハルトを見上げる。
「アタシも応援してやるからなー。喜べー」
「嬉しいけど……店番は良いのか?」
「良いんだよ。今日は誰も来ない。ほれ、あれ見な」
言って、メッサンが通りを指さす。
「おーい、ハル坊!」
クラクションの音に振り向くと、ワゴン車の窓から顔を出す神崎の爺さんが姿を見せた。続くように、何台かの車が店の前に列を作って停まる。降りてきたのは、クラブの古株たちだ。みな揃いの、ハルトが受け取ったのと同じフライトジャケットを着ていた。
「ワシらも応援に行くぞ!」
「ちゃんとビールも用意してあるぞ!」
「ツマミもばっちりだ!」
「酒の肴にする気じゃねーか……」
それどころか、既に飲んでる者たちもいる。後部座席でビールの缶を掲げる老人たちに、ハルトは肩を落とす。
「若いもんが頑張ってるのを見ながら飲む酒は美味いんだよ。ジジイの特権だぞ」
爺さん達はそう言って笑う。それを見た店長が呆れたように鼻を鳴らし、口を開く。
「ぼちぼち時間だ。行くぞ」
「いや……カズキの奴が、まだ」
まだ来ない友人の姿を探し、周囲を見渡した、その時。
「ごめん、遅くなった!」
響いた声に振り向いた先、歩道の向こうから姿を現したカズキが、手を振りながら近づいてくる。その横にはもう一人――見慣れた姿が並んでいた。
「おはようございます」
カズキと共に姿を現したのは、朝倉ヒナタだった。制服とは違う私服に身を包み、どこか緊張した様子で、頭を下げる。
「すいません、お待たせしてしまって」
「……なんで朝倉が?」
確かにレースに出ることは伝えた。けれど、わざわざ観に来るなんて思ってなかった。
見知らぬ少女の登場に、クラブの爺さんたちが車の窓から顔を覗かせる。
「おお、こりゃまた可愛らしいお嬢さんじゃねえか」
「なんだ、ハル坊の彼女か?」
「違うって……!」
ハルトは思わず声を上げ、視線を逸らした。その先で、ヒナタが困ったような、でもどこか楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「僕が呼んだんだ」
困惑するハルトに、カズキが言う。
「なにしてんだおめー」
ハルトの恨みがましい視線に、カズキは口元を吊り上げた。
「馬鹿だね、ハルちゃん。せっかく、女の子のために格好つけるんだろ?
「そんなんじゃねぇって」
「じゃあ、何なのさ」
被せるようにカズキが言う。ハルトは手にしたフライトジャケットを見つめた。
「……俺はただ、証明したいんだよ」
ハルトの言葉に、カズキが首をかしげる。
「証明って、何を?」
ハルトは、ゆっくりとジャケットの袖に腕を通しながら、答える。
「手を伸ばせば、届くってこと」
イカロスは落ちた。だが、もし彼に次があったなら――もう一度、空を目指したに違いない。
今度は、太陽に手を届かせるために。
「行くぞ」
バンに乗り込む。店長の言葉と共に、エンジンが唸りを上げ、車体が滑るように動き出した。
イカロスの再挑戦が、始まろうとしていた。
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