第26話 霧の中

 早朝の永嗣の部屋。


 空は白み始めたばかりの時間。目覚ましが鳴ったと同時に止めた永嗣は隣で丸まっている毛玉を起こす。


「毛玉、朝だぞ」

「うにゅ……ん」


 寺に居た時から永嗣はいつもこの時間に起きていたため、今でも自然に目が覚めてしまう。目覚ましが鳴る前に起きてはいるものの、一応音が鳴るまでは布団の中に居ることにしていた。


 一方毛玉は、起きている間は元気に動き回っているものの、食後や夜はすぐに眠くなるらしい。珠貴によれば昼寝も毎日している。

 それが元からそうだったのか、幼女の姿に引っ張られているのかは本人にもよく分っていないようだ。


 起きたらまず永嗣と毛玉は一緒に洗面所へ行き顔を洗う。その後それぞれの部屋へ戻って着替える。毛玉は寝る時は永嗣と一緒だったが、着替える時は自分の部屋に戻っていた。服は毎日珠貴が事前に用意して置いてある。


「毛玉、おはよう」

「おはよー、ミアコ」


 毛玉が着替え終わって出てくると、丁度美亜子と鉢合わせる。美亜子は毛玉の服の乱れを丁寧に直してやると一緒に永嗣の部屋へ入る。


 それから永嗣は机に置いてある小さな仏像の前で正座をし、お経を唱える。美亜子と毛玉も一緒に後ろに正座して手を合わせているが、さすがにお経は覚えていなかった。


 それが終わると玄関から外へ。

 少し明るくなり始めた下宿の庭、門の辺りに黒い猫が座っている。


「おはようクロベェ。朝の散歩か?」

「おはよう。まぁそんなところだ。ぬしらは今日もジョギングとやらか」

「ああ。クロベェも行くか?」

「いや、我は遠慮しておこう」


 クロベェに手を降って別れ、永嗣達3人はジョギングへ。これも毎朝の事だ。


 下宿の門を出たらまず裏手の神社へ。そこでお参りを済ませ、道路へ出る。

 周囲は林になっており、そこから出れば辺りはほとんど田んぼだ。その間を農道が走っており、抜ければ住宅が見えてくる。


 そこから少し大きめの道路へ出ると、その後は気分で行く方向を変える。街中へ向えば住宅地を抜け、2車線のさらに大きな道路へ出る。もちろん歩道を走るのだが、そもそも歩道を歩いている人は昼間でも少ない。この辺りの住人は自家用車での移動が主で、次いで自転車が多い。もっとも、この時間帯なら車もほとんどいないが。


 反対へ行けば大きな建物はほとんどなくなり、周りは森や林。猫の集会を探した河畔公園の方へ向う道だ。


 今日は大通りの方へ行く


 ガソリンスタンド、コンビニ、電気屋や携帯ショップ、回転寿司に弁当屋や服屋と、大通りに面して多くの量販店が立ち並び、林や田畑はほとんど見られない。

 自然に囲まれて育った永嗣にとっては憧れた都会のように見えるが、こういった建物が密集しているところはごくごく一部で、田舎の地方都市といった程度である。

 ビル等の高い建物もなく、量販店も広い駐車場が併設されていて圧迫感も無いため、見る者によっては田舎らしい風景とも取れるのだが、あいにく永嗣は都市部には縁が無く比べようも無かった。


 それから大回りで駅前通りから河畔公園の前を抜けて下宿へ戻って来る。河畔公園内もそれなりに広いため、ジョギングしている人はそちらの方が多いのだが、今日は街中を通ってきたので中には入らない。だいたい1時間程度のルートになるよう、体感で走るルートを決めているからだ。


 そして下宿へ戻ってくると、丁度摩耶が起きてきたところだった。3人はそれぞれ摩耶に挨拶する。


「おお、おはよう。皆、朝から精が出るのう」


 摩耶は来てから日が浅いが、ジョギングには参加せず3人が戻って来る頃まで寝ている。時間的には十分早起きと言えるのだが。


 この時間には珠貴が朝食の準備を始める。最近は美亜子もそれを手伝い、料理を覚え始めている。どうも喫茶店での手伝いから家事を覚えようと始めたようだ。

 その間永嗣と毛玉、摩耶も加わって下宿の庭や周りを掃除する。朝の掃除も永嗣は寺で修行としてやらされていて身に付いている。むしろやらないとなんだか物足りなく感じるくらいには日課としていた。


 もちろんクロベェは猫の姿でのんびりしている。


 そして朝食後、永嗣は学校へ行く。彼の朝のルーティーンはだいたいこんな感じだ。

 永嗣を見送りながら、毛玉は隣の珠貴を見上げる。


「なぁ、オイラって役に立ってるのかなぁ?」


 ぽつりとそんなことを言った毛玉に珠貴は笑顔で答える。


「大丈夫よ。毛玉ちゃんはちゃんと毎日お手伝いしてくれて偉いわ。それに永嗣君が最初に式にしたのはあなたでしょう?一番永嗣君の手伝いをしてきたのもあなただわ」

「うん。でも、オイラみんなみたいに特別出来る事とかないし。もっと役に立ちたいんだ」

「毛玉ちゃんは良い子ね。そんなに焦らなくっても大丈夫だけど。そうねぇ、それじゃあ今度相談しに行ってみるといいわ」

「相談?」


 ニコニコとそんなことを言った珠貴に、毛玉は首を傾げたのだった。


§


 次の休日。

 永嗣達は朝一番で駅前からバスに乗り、山の上にある史跡へやって来ていた。


 狭い急な坂の上にある観光協会前のバス停から、大きな神社の鳥居前を過ぎ、少し下って草の生えていない石ばかりの史跡前へ行く。入口は駐車場とトイレ、看板が立っている。


 ブレザー制服の高校生男子に未就学の幼女、大学生くらいのアスリート体型の女子にゴスロリと和ロリの少女。端から見れば謎の集団だが、観光シーズンが始まる前の早朝であるため他の人間は居なかった。


「なんか臭いぞ」

「ああ、硫黄の匂いだな。温泉地だし」


 毛玉の言う通り辺りには独特の匂いが漂っており、史跡の反対側には温泉街が広がっている。この辺りの泉質は硫黄泉で、正確には硫化水素の匂いだ。永嗣の実家より標高は上で、場所的には摩耶を仲間にしたツツジの群生地に近い。


「それで、今日会いに行くってお方はこんな所に居るのか?」


 美亜子の言葉に永嗣は頷く。


「この史跡が居場所というかなんというか……、まぁ行けば分かる」

「ふむ。まぁ話は聞いたことがあるが、百聞は一見に如かずじゃな」

「それならさっさと行くとしよう」


 永嗣を先頭に史跡へ入る。

 木製の橋を渡ると草の生えていない岩だらけの所に橋と同じ木製の歩道が走っている。硫化水素ガスで植物が生えず、時には虫や動物が死んでいるという場所。ガスが濃ければ人でも危険なので立ち入り禁止になることもある。


 谷底になって居るその場所は朝霧が流れ込み、だんだんと視界が悪くなって来ていた。


「なんだか霧で見えづらくなってきたな。」

「時期によってはもっと濃い霧も出るからのう。麓から見れば雲の中みたいなもんじゃろう」

「湿気高いのは勘弁願いたいな」


 永嗣と毛玉の後ろを付いて歩いていた3人。だが、どうも様子がおかしい。


「む?大将!毛玉!」

「どうしたのじゃ美亜子」

「いや、2人の姿が見えない」

「霧のせいだろう」

「返事もないし気配も感じないぞ?」

「なんじゃと?」


 美亜子の慌てた声に前へ出る摩耶。


「馬鹿な。すぐ前を歩いておったはず」

「歩いていたのだ。すぐ離れるはずはないが……2人の気配も感じない。その代わり別な気配が近くに居るな」


 クロベェが辺りを警戒する。霧のせいで周囲は見えない上に硫黄の匂いで鼻も効かない。近くに居たはずの永嗣や毛玉の声や足音もまったく聞こえなくなっていた。


「ううむ。主殿あるじどのの知り合いが居る所と言う事だからおそらく大丈夫だとは思うが……。とにかく目的地まで行くしかないかのう」

「だが何も見えないぞ。どうする?」

「歩道を辿れば良いのではないのか?」


 美亜子の言葉にクロベェが足下を見る。


「だめじゃな。足下すら見えぬ。ただの霧ではあるまい」


 周囲も足下も白い霧でまったく見えない。ただ3人ともお互いの姿が見えるだけマシではあった。


「とりあえず上も確認してみるか。見渡せれば抜けるべき方向は分かるかもしれん」


 美亜子はそう言うと、クロベェと摩耶から少し離れその姿をどんどん大きくしていく。


「ほほう。これが美亜子殿の力か。とんでもない大きさじゃな」

「確かに大きいが、見た目だけなのだろう?」


 今のクロベェと摩耶には美亜子の足がぼんやり霧の中から見えているだけだ。そこから上は霧の中に隠れている。


「ダメだ。何にも見えぬ」


 程なくして小さくなる美亜子は首を振ってそう言う。


「手探り……も無理か」

「ああ。見た目だけで触ることは出来んからな。摩耶、近くの気配はどうだ?心を読んだり出来ないか?」


 美亜子に言われ、しばらくじっと動かなくなった摩耶だが、すぐに首を振る。


「ダメじゃな。何かの術か頭を空にしておるのか、まったく読めぬ」

「あとはクロベェ殿頼みか」


 美亜子と摩耶がクロベェを見る。しばらくキョロキョロと辺りを見回していたクロベェはおもむろに口を開く。


「うーむ。近くに居る気配とは別に、何やら大きな力を感じるな。ぬしと毛玉の気配は感じぬが……」

「その大きな力とやらが主殿あるじどのの知り合いかのう?」

「他に手掛かりもなし。行ってみるしかあるまい」

「そうだな。こっちだ」


 3人は頷き合い、クロベェを先頭に霧の中を歩き始めた。


§


 永嗣は歩き始め、霧で視界が悪くなった時すぐに振り向いた。


「まずったな。図書室で懲りたと思ってたのに」


 いつの間にか式達の姿が無い。ぼんやりと繋がりは感じるので近くには居るようだが、視界も通らず気配も感じない。


「悪戯か試されてるのか……。どっちにしろ進むしかなさそうだな」


 辺りの気配を探ると式達ではない何者かの気配を感じる。そちらに進むと霧の中にぼんやりと人影が浮かび上がってくる。しかも何体もだ。


「おっと……。こっちに近づいてたか」


 現れたのは沢山の地蔵だ。何体かは色褪せた赤い毛糸の帽子を被っており、先ほどの石ばかりの場所とちがって背の高い草の中に立っている。今は霧の中に数体が見えている地蔵は、胸の前で合唱している手だけが異様に大きかった。霧が出ていなければ更に先まで並んでいる姿が見えただろう。


「千体地蔵……だったか。たしか目的地へ向って左端だったから右の方へ行けば着くな」


 史跡の端にある地蔵群。

 中に1体柵で囲まれた少し高い位置の地蔵があり、大きな看板が近くに立っていた。


「教伝地獄か。何度も聞かされたっけな」


 永嗣の言う通り、看板には「教伝地獄」と書かれその名の由来となった物語が書かれている。内容を掻い摘むと「親不孝な教伝という僧が地獄に落ちた」という教訓めいた話だ。


「しかしどういうつもりなんだ?事前に連絡は入れてあるって珠貴さんは言ってたけど」


 並んでいる地蔵を頼りに歩を進める。やがて進行方向の霧の中にぼんやりとまた人影が浮かんで来る。


「おいおい……。俺、そんなに親不孝した覚えはないぞ」


 見えて来たのは永嗣の母の姿。しかもその手に幼い男の子を抱いている。


『……永嗣、ごめんね。母さん怒られちゃったの。でも、あなたは強い子だからきっと大丈夫……だって……』


 男の子へ話かける声。母の姿は今とまったく変わっていなかったが、おそらく抱かれている男の子は幼い頃の永嗣なのだろう。


「これは俺の記憶か?それとも何か伝えてるのか……。たしかに母さんも知り合いだろうけど。さすがに小さい頃の事なんて覚えてないしな」


 そんなことを言っているうちに、母親と幼い自分の姿は幻のように霧へ溶けて消えてしまう。


「ちょっ!」


 消えた辺りから何か白い物が飛んできて慌てて躱す永嗣。


「急になんだよ!俺何かしたか?」


 気配は永嗣から見えない霧の中を移動しながら白い何かを放ってくる。飛んできたそれはまた霧の中へ転がってしまって何か分からなかったが、気にせず当たって良いとは思えない。


「あー、はいはい。ボーッとしてないで早く行けってこと?おわっ!分かったって!」


 次々飛んで来る礫を避けながら永嗣は目的地に向かって霧の中を駆けだしたのだった。

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