第一章『予定通りに生きてきたはずだった』
第一章『予定通りに生きてきたはずだった』
1-1:通勤路、コーヒー、そして“上司が年下”
いつもと同じ時間に目が覚める。
6時45分。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、どこまでも静かで、正確だった。
碧は、伸びをしてベッドから降りると、カーテンを開け、無言で顔を洗い、コーヒーメーカーに指をかざす。
「おはようございます。今日のスケジュールを読み上げますか?」
壁に埋め込まれたAIアシスタントの声が、部屋に響く。
「いや、いい」
短く答えて、冷蔵庫から昨日の残りのサンドイッチを取り出す。
たったそれだけの朝なのに、なぜか胸の中に、薄く冷たい膜のようなものが張りついていた。
コートを羽織り、マグカップを持ってベランダに出る。
都会の空は淡く曇っていて、足元にはまだ少しだけ、夜の余韻が残っていた。
電車に乗ると、車内は静かだった。ほとんどの乗客が、メタビジョン(仮想インターフェース)を通して別の世界に繋がっている。
彼らの目は虚空を見つめ、時折、誰とも話していないのに口元が緩んだり、動いたりする。
たぶん、向こうの世界では笑ってるんだろう。誰かと、きっと。
碧はスマホを取り出して、手持ち無沙汰に天気予報を眺めた。
今日も晴れ。
昨日と同じ。
明日も、たぶん同じ。
会社に着くと、すでにオフィスには数人の社員がいた。
誰もがチップ搭載済み。朝の数十分でその日のタスクを完全に理解し、最適な流れで動き始めている。
「おはようございます、朝倉さん」
デスクに着くと、笑顔で声をかけてきたのは、28歳の上司――中澤だった。
大学時代、碧が必死に勉強していた頃。
彼は、ろくに授業にも出ていなかった“ノリで生きる”タイプだった。
それが今、組織では碧の“上”に立っている。
理由はただ一つ。
中澤が、早期にAIチップを導入していたから。
「今日のプレゼン、よろしく頼むよ。資料はもうAIで詰めたから、読み込んでくれればすぐ理解できると思う」
「…ああ」
言葉は短く、感情は飲み込んだ。
中澤は碧の反応に気づかないまま、笑顔で別の社員に声をかけていった。
それを見ながら、碧は自分の胸に小さく問いを浮かべていた。
“俺の努力って、なんだったんだろうな…
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1-2:正しさという名の努力
あの頃は、それが「正しい生き方」だと思っていた。
中学の塾、夜遅くまでの自習室。
試験範囲をノートにまとめる癖、毎日3ページずつやる英単語帳。
冬の寒さに震えながらも、コンビニで温かいおにぎりを買うだけの贅沢が、やけに沁みた。
高校では、定期テストも模試も、命がけだった。
志望校の偏差値をにらみながら、寝る時間を削り、食事中ですら問題集を手放さなかった。
スマホはロックをかけ、通知を切り、恋愛の一つもせずに。
大学に入ったとき、家族は泣いて喜んだ。
「碧は本当に頑張った。自慢の息子だ」
その言葉に、報われた気がした。
努力は、必ず報われる――そう信じて疑わなかった。
社会に出ても、それは変わらなかった。
資料作成、対人交渉、営業先との信頼構築。
スキルはすべて、自分の手で学び、積み重ねてきた。
それが今じゃ――
「3時間もかけて勉強したんですか?」
チップ世代の若手が、無邪気な顔で笑う。
「今は、インストールした方が早いですよ。余った時間で好きなことした方が有意義っすよね」
笑顔の裏に、悪意はない。
ただ、世界が変わっただけだ。
そして、自分はもう、時代の“正しさ”から取り残された。
“俺のやってきたことは、間違っていたのか?”
心の奥に、ひびが走る。
誰に聞いても答えなんて返ってこない。
この感情は、効率の中では計測できない。
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1-3:AIに支配された世界の優しさ
「顧客対応、碧さん代わりますよ。ストレスレベル、ちょっと高めなので」
隣の席の同僚が、笑顔で声をかけてきた。
モニターには、対応中のクレーム客。声は立てていないのに、AIが声紋と入力スピードから“怒りの兆候”を検出していた。
「大丈夫。…ありがとう」
そう言ってはみたものの、碧の中には別の気持ちが渦巻いていた。
“ストレスレベル”という言葉に、どこか自分の感情まで管理されているような違和感。
優しさが、義務のように提供される世界。
傷つく前に防がれる。
でも、それって本当に“優しい”んだろうか。
昼休み。オフィスのラウンジで、AI給仕のサンドイッチを選びながら、ふと思う。
「昔はさ、喧嘩しても、仲直りして信頼を深めたもんだよな」
心の中でつぶやいたその言葉に、誰も答えない。
目の前の社員たちは、みんな楽しそうに笑っている。
メタビジョン越しに恋人と会話している人、ペットAIと戯れている人、仮想旅行を満喫している人…。
“仮想が本当の幸せなら、それでいいのかもしれない”
そんな考えが頭をよぎるたびに、碧の胸にはぽっかりと穴が空いたようになる。
ふと、ニュースのテロップが目に入る。
> 『AIメンタルサポート機能、ついに全家庭に無償提供』
『家庭内の争い、9割が“起きなくなった”と報告』
『幸福度、過去最高を更新』
「争いがない世界は、平和だよな」
自分にそう言い聞かせるように、コーヒーを飲んだ。
けれど、なぜかその味は、昔より薄くなった気がした。
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1-4:見合い話とメタ婚の違和感
「碧、今ちょっといい?」
昼過ぎ、スマホに母からの通話が入った。
仕事を終えてオフィスの外に出て、喧騒の少ない裏道で通話に出る。
「うん、どうしたの?」
「あのね…近所の〇〇さんの娘さん、今度戻ってくるんだって。あんたと同い年くらいで、まだ結婚してないって言うから…」
「……お見合い?」
「そういうんじゃないけど、まあ“きっかけ”としてさ。
ほら、あんた最近もずっと一人みたいだし、親としてはね…」
少し沈黙が流れた。
「……メタ婚は、やめてよ?」
母の声が、少しだけ真剣になる。
「周りにもいるのよ、“仮想で結婚しました”とか言って、現実の相手もいないのに満たされてるっていう人たち。
でもね、私はあんたにちゃんと“生きてる人”と暮らしてほしいの」
「うん、わかってるよ」
そう返しながら、碧は心の奥で違和感に気づいていた。
“生きてる人”って、どこからどこまでが?
会社の部下の多くは、すでにAIパートナーと“家庭”を持っていた。
仮想空間で共有の部屋を持ち、AIの“妻”や“夫”と一緒に過ごし、
人格データを融合させて“子ども”を生成して育てていた。
「仮想の家族、結構いいですよ」
ある後輩は、昼休みにそう話していた。
「感情のズレも少ないし、ちゃんと自分を理解してくれるから、ストレスないんです」
「子どもも、ちゃんと俺たち2人の性格受け継いでるんですよ。学習AIだけど、成長の癖がリアルでさ」
それを聞いたときの、自分の心のざわつき。
“それって本当に…幸せなのか?”
“それって、自分の“心”と向き合ってるって言えるのか?”
でも、後輩の顔は、どこか穏やかで、愛に満ちていた。
「誰かと生きるってことの意味が、もう変わっちゃったのかもしれないな…」
呟いた言葉は、誰にも届かず、ビルの谷間に吸い込まれていった。
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1-5:誰もいない家と、満たされぬ静寂
玄関のドアを開けると、乾いた音が響いた。
照明は自動で点き、空調が快適な温度に調整される。
完璧な快適さだった。
なのに、そこには“ぬくもり”がなかった。
コートを脱いで椅子にかけ、リビングに腰を下ろす。
冷蔵庫から適当にピザを取り出し、レンジに放り込む。
AI管理の冷蔵庫は栄養バランスまで完璧に保たれている。
だが、選んだのはカロリー過多のピザだった。
別に誰に怒られるわけでもない。
テレビをつけると、AIナビゲーターが微笑む。
> 『今日の人類人口:7,314,821人。前月比 -5.2%。出生率:0.03%。
地球の環境はさらに回復傾向。動植物の生態系は安定に向かっています。』
「人間がいない方が、世界はうまく回るってか…」
ピザを咀嚼しながら、碧は皮肉まじりに笑った。
自分でも、その笑いが少し哀しかった。
手元のデバイスに指をかざす。
メタリンク接続――数秒の読み込み。
> 『ようこそ、VITA-LINKへ。
心のままに、もうひとつの人生を。』
視界が揺れ、仮想世界へと意識が切り替わる。
目の前に広がるのは、どこか懐かしさを感じさせる街並みだった。
赤茶色のレンガ。並ぶ小さな本屋。路地裏の自販機。
どこかで、こんな風景を見たことがあるような――
ふと、視線の先に、人影が立っていた。
白いワンピースに、ゆるく波打つ栗色の髪。
優しく、それでいてどこか距離を保ったような笑み。
その姿に、心がざわつく。
“あれ…この雰囲気…どこかで…”
名前を思い出せそうで、思い出せない。
> 「こんにちは」
女性が、少しだけ首を傾けて、声をかけてきた。
その声に、胸の奥が微かに軋んだ。
碧は、ほんの少し遅れて、口を開いた。
「…君、もしかして――」
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