異邦の禍祓い探偵
鋏池穏美
忌み山
青森の奥地にそびえるその山は、あまりにも静かすぎた。
奥森。
地元の人間はそう呼ぶ。だが誰一人として、その名を好んで口にする者はいない。幼い頃から耳にしてきたはずのその名は、風習や伝承といった緩やかなものを飛び越え、忌避すべき穢れのように扱われていた。
──忌み山である奥森には近づくな。
それ以上は誰も語ろうとはしない。だからこそ僕は、この足でその山を歩き、この目で観測すると決めた。知らないまま恐れるなんて馬鹿げてる。非論理の中の論理性を確定し、不確定の怖れに形を成す。
物心ついた頃から隣にありながら、誰にも語られることのなかったその場所。封じられた空白にこそ、真実は宿るのだと僕は思う。大学で民俗学を専攻しているのも、こうした思考回路に支配されている証左だろう。
それにしても、だ。やはり忌み山と呼ばれるだけあって空気が重い。山へと至る獣道、木々が鬱蒼と枝を伸ばし、早朝の光さえ届かない朧気な薄闇。道の両脇には来訪者を拒むように、異様な数の地蔵が並んでいた。それはまるで整然と整列した墓標のようで、風化し、苔むしている。首を落としたものもあれば、倒れ伏したまま朽ち果てたものも。
その多くは赤い前掛けを纏っていた。布の端は腐食して破れ、ふわりと風に揺れている。すでに祈りすら忘れられた存在たちは、沈黙の中に何かを訴えているように見えた。
(やはり異質な空気ですね……)
眼鏡を指で押し上げ、かちゃりと音が鳴る。ひとまず足元を確かめながら獣道を進んだ。奥へと立ち入るほどに、肌に纒わる空気の質が変わる。森の匂いに混じり、どこか濡れた布のような、あるいは土中で長く眠った紙のような臭気が鼻をかすめる。風も吹かず、鳥も鳴かず、虫すら声を潜めているような静けさ。時が止まってでもいるのだろうか。
(異界……、と言っても差し支えないですね、これは)
そう思った瞬間だった。ぞくり、と悪寒が走る。背後、あるいは視界の端、正確な所在は分からないが、確かに「何か」の気配を感じた。
何かが見ている。
誰かがそこにいる。
理屈ではない、感覚の問題。
「……誰か、いるのですか?」
声を出してみるが返事はない。だが気配は明らかに近づいている気がする。気付けば無意識のうちにその「何か」を追っていた。
笹薮を割り、傾いた木の間を縫うように進む。打ち捨てられた地蔵がこちらを見つめ、嘲笑っているかのように木々や草花が揺れる。深い霧がどこからともなく立ち込めてきた。吐息の白が宙で揺れる。ここはそれほど寒かっただろうか。初夏でこの吐息の白さは非論理的現象ではないだろうか。そうして吐く吐息の向こう、何かが揺れた。
白い影。
人影のように見えた。小さく、細い、子供のような──
「……ま、待ってくださ──」
言葉の続きを紡ぐことなく、足元の地面が抜けた。崖際だったのだ。ひゅっと喉がなり、どこかを掴もうと手を伸ばすがすでに手遅れ。無数の枯葉や小石が宙に舞い、視界がぐるりと反転した。咄嗟に掴んだ枝が折れ、背中が岩に打ちつけられた瞬間、意識は暗闇へと沈み込んだ。
―――
微かに、風が頬を撫でていた。
耳に届いたのは、知らぬ虫の声と木々のざわめき。痛みを堪えながら身体を起こし、眼鏡をかちゃりと押し上げる。
(これは……?)
見上げた空が、世界のすべてを塗り替えていた。
深い青を背景に、異様な月が二つ。
一つは血の色が如き紅。滲むような明滅を繰り返しながら、空を汚すかのように光っている。もう一つは氷の如き蒼。その冷たさは、視る者の思考さえ凍らせるようだった。
(二つの月……? いや、これはもはや月ではないですね)
困惑する状況に眼鏡をかちゃりと持ち上げ、何度も瞬きをしてみる。だが双月はその存在を誇示するかのように、紅く、蒼く輝いていた。
──ぎゃりゅぅ。
唐突に濁った声が頭上を裂く。見上げてみれば見慣れぬ飛翔体。霧の合間をうねるように滑空していく。
(嘘……、ですよね……?)
猿の頭、虎の脚、狸の胴、蛇の尾。声は鳥とも獣ともつかぬ混成音。伝説上の生物、「
「……これは、夢ではないようですね……」
思わず声を漏らしてしまう。崖下へと転落したはずなのに、今いる場所は山の頂に近い場所のように見える。落ちて上るなんて、そんな馬鹿なことがあるわけがない。そのうえ頭上には
(黙っていても埒が明きませんからね)
膝をつき、地を睨む。大地があるのなら、歩けばいい。事象として顕現したならば、それは論理として解き明かすことができるのが道理。
山を下る。
それが最善だと考え立ち上がった。
―――
道なき道を踏み分け、数時間が過ぎた頃。霧が薄れ、開けた谷の先に一つの町が姿を現した。
古い町並み。瓦屋根と木造の古びた民家。手描きの看板には日本語。白熱灯のような光が明滅する。まるで昭和の日本を思わせる風景。だが圧倒的な違和感に足を止め、眼鏡をかちゃりと上げて見入ってしまう。
(仮装……、というわけではなさそうですね)
歩く人々の姿。彼らは人の形をしている。だが頭からは角が、あるいは獣のような耳が、臀部からは尻尾が生えていた。耳に届く言葉の数々は、方言交じりながらも紛れもない日本語。ではここは日本なのか?
違う、と言わざるを得ない。
非現実の只中で、見知った言語が響く。その光景は異様としか言いようがなく、町に足を踏み入れるべきか躊躇ってしまう。
「こんにちは」
不意に背後から声をかけられ、振り返る。そこには一人の女性が立っていた。
和装姿の、落ち着いた雰囲気の女性。茶褐色の胸元まである髪を三つ編みし、歳の頃は二十代半ばくらいだろうか。顔立ちは可愛らしく、目元にかすかな憂い。頭上に狸のように丸くふさふさした耳が生え、着物を纏った姿は見慣れたものと少し違う。柄も、生地も、どこか幻想的で異国を思わせる。視線が合った瞬間、彼女は微笑んだ。
「こんにちは……と言うべきかどうか、正直悩んでいるところです」
眼鏡をかちゃりと上げ、ひとまず様子を伺う。
「あなたは……、迷い人さんかな? ちょっと違う気配がするもの」
「……迷い、人?」
「ときおりあなたみたいに迷い込む人がいるの。こことは違う世界から。流行りの
聞き慣れない言葉のオンパレードだが、なんとか思考を巡らせる。目の前の彼女は僕のことを違う世界からの迷い人と言っているが、たしかに双月や鵺、道行く人々の容姿を見れば、ここが元いた世界とは違うのだろうと察しはつく。日本語などの類似点も見受けられはするが、ここは──
(異世界……ということでしょうか)
ひとまず彼女が言った言葉を考える。「私もよく読むの」という言葉から、
「異界渡り……という言葉を使っていいなら、そうなのでしょうね。これは夢ではなく、あなたも幻ではないという仮定での話ですが」
彼女はくすりと笑い、「なんだか理屈っぽい人ですね」と目を細めた。
「私は
「
「佐伯さん? 鷹臣さん? どちらがいいでしょうか」
「どちらでもかまいませんよ」
「では鷹臣さん、少しお話ししませんか? ここがどんな場所か、教えられるかもしれません」
「ありがとうございます。正直、困っていたので助かります」
思考の霧が晴れぬままに始まった、この異界での出会い。こうして僕は、鈴と名乗る狸耳の女性と共に、見知らぬ世界の奥へと歩き始めた。
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