永遠の輪

空‐kuu‐

プロローグ 夢の跡

 夜の帳が降りた古の神殿。石畳の床は月光を受けて仄かに輝く。長い年月の果てに風化した壁画が、その静謐な空間に歴史の栄華を物語る。天井を支える巨大な石柱は、不規則な影を落とし、時の流れそのものを閉じ込めようとするかのように聳え立っている。


 この場所こそ、人類が時間の理を超越しようとした夢の残骸、『永遠の輪』を巡る禁断の研究が行われた場所であった。かつて、この神殿には数多の錬金術師たちが集い、時の支配者となるべくその秘奥に挑み続けた。しかし、彼らの探求は尽く虚しく、栄光を掴むことなくその命を燃やし尽くしたのだった。


 その歴史の中で、最も永遠の輪に迫ったとされるのが、錬金術師ヘルメス。ただ一人、その心理に触れた者だ。


 彼は生涯をかけて研究を重ね、ついに時間の流れを操る術を手にした。しかし、その力は彼の想像をはるかに超えていた。時間を制するということは、すなわち人の運命をも左右すること。どれほど計算し、緻密に理論を組み上げたとしても、時間とは人知の及ばぬ領域。わずかな誤差が、想定を超えた歪みを生む。


 彼は、その代償を知っていた。


 それでも、彼は求めずにはいられなかった。過去を変えることを。たった一つの誤ちを、取り戻すことを。


 粛然たる薄闇の書斎。蝋燭の炎がかすかに揺れ、積み上げられた古文書の影を歪ませる。ヘルメスは震える指で羊皮紙をめくった。かすれたインクの文字を辿る。長年探し求めた知識の集積。時間に関する禁忌の研究。存在すら公にされていない、伝説のアルケミストたちが残した最後の遺産だ。


 彼の目は、書の中央に描かれた幾何学的な円環へと吸い寄せられた。人智を超えた法則がそこに刻まれている。ためらいがちに、円環の中心に指を伸ばす。


「これで、本当にやり直せるのか?」


 その呟きは震えていた。焦燥と、僅かな希望。それらがない交ぜになった声音に、彼自身が驚くほどだった。彼はすでに何度も過去へ手を伸ばし、その度にすべてを狂わせてきた。それでも、最後の可能性が目の前にあるのなら手を伸ばさずにはいられない。


 指先が円環の中心に触れた瞬間、冷たい霧のような感覚が肌を這う。心臓が強く脈打ち、空気が震えた。


「お願いだ……今度こそ」


 世界が軋む音を立てた。


 書斎を包む静寂が弾け、時間の流れが歪み始める。宙を舞う羊皮紙、狂ったように燃え上がる蝋燭の炎。ヘルメスの身体は突如として押し流されるように揺らぎ、視界が崩壊していく。


 過去が、書き換わる。


 それが本当に望んだ結末をもたらすものなのか。彼には、もはや確信が持てなかった。


 世界が反転する感覚に、ヘルメスは思わず息を呑んだ。


 彼の周囲にあった書斎の景色は、歪み、千々に砕け、闇に溶けて消えていく。時を超える度に繰り返される感覚。肉体がばらばらに引き裂かれ、精神のみが過去へと投げ出されるような錯覚。彼は、幾度となくこの苦痛を味わってきた。過去を正し、最愛の人を救うために。


 意識が闇に沈む寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、一度も救えなかった最愛の者の姿だった。


「ヘルメス、あなたの言う正しさは、本当に……未来を救うの?」


 淡く微笑んだ彼女の指先が、そっと彼の頬に触れる。彼女の唇が、何かを告げようとする。


「ああ、エリス。君を取り戻せるのなら俺は……」


 そして、彼は再び時の狭間へと堕ちていった。


 意識が徐々にはっきりしてくる。その刹那、全身が強烈な衝撃に包まれた。手足の感覚が戻ると同時に、荒い呼吸をつく。冷たい石床の感触が、まだ自分が現実の中にいることを実感させた。


 ヘルメスがゆっくりと顔を上げると、そこには見覚えのある光景が広がっている。


 かつて彼が研究を行った、あの神殿の内部。しかし、何かが違う。彼の記憶にある神殿は、風化し、崩れかけた廃墟のような場所だった。だが今、目の前にあるのはまるで現役の研究施設のように整然とし、無数の錬金術の器具が並んでいる。


「成功、したのか?」


 喉がかすれるほどの小さな呟きが、しんとした空間に響く。


 だが、その安堵は長くは続かなかった。


 突如、近くの扉が開く音がした。ヘルメスは反射的に壁の陰に身を潜める。足音が響く。複数の人物が、この空間に足を踏み入れてきたようだ。


「報告書を確認したのだが、最近記録にない人物が神殿内に出入りしているようだ」


 男の声に、ヘルメスの鼓動が跳ね上がる。


「記録にないだと?」


「ああ。長官の指示で調査を進めているが、奇妙なことに、姿を見たという者がいるのに、記録魔道具には痕跡が残っていないらしい」


 ヘルメスは息を殺し、身じろぎもしなかった。


 彼のいた時代には、この神殿に長官などという肩書の人物は存在しなかった。彼は確かに過去へと飛んだようだ。しかし、そこは彼が知る過去ではない。いや、もしかすると……。


「おい、誰だ!」


 突然の怒声が響く。ヘルメスははっとして顔を上げた。ひとりの男が彼の隠れていた場所を見つめている。目が合った瞬間、その男は腰の短剣に手をかける。


「まずいな……」


 ヘルメスはすぐさま身を翻した。躊躇している時間はない。神殿の構造は知り尽くしている。逃げ道は、ある。


 男が叫び声を上げ、後方の仲間に指示を出す。だが、ヘルメスはその瞬間にはすでに石柱の陰を駆け抜け、廊下へと飛び出していた。


 足音が追ってくる。だが、彼の脳裏には別の疑問がこびりついていた。


 ここは、本当に過去なのか?


「くそっ、またか。まさか、今回はここまでとは……」


 彼が望んだ過去とは、異なる現実。時間は、彼をどこへ導いたのか。


 背後で魔術が発動する音がする。止まってはいけない。答えを見つけるために、彼は走り続けた。


 黄昏に染まる街並みは記憶の中のものと変わらない。夕陽が長い影を落とし、行き交う人々の笑い声が穏やかに響く。遠くでは楽師たちが奏でる音楽が、心地よく流れていた。


 それでも、どこかが違う。何かが欠けている。


 不安を押し殺しながら、ヘルメスは足を踏み出した。目指すのは、彼女がいるはずの場所。彼は確かに過去を改変し、彼女を救ったはずだ。この世界では、彼女は生きているはずなのだ。


 角を曲がり、馴染み深い路地へ入る。煉瓦造りの建物の壁には夕陽が反射し、温かみのある橙色の光を放っていた。その一角に、小さな花屋があった。


 扉を押すと、乾いた鈴の音が響く。店内は淡い花の香りで満たされていた。カウンターの奥に佇む女性の姿を見つけた瞬間、ヘルメスの胸が強く高鳴る。


 彼女は、間違いなくそこにいた。


「……エリス」


 女性が顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべる。しかし、その表情に一瞬の戸惑いが走った。


「すみません、お客様……。どこかでお会いしましたか?」


 その言葉に、ヘルメスの心臓が凍りつく。


「何……だと?」


 彼女は微笑みを崩さずに続ける。


「どなたかに似ているような気はするのですが……。でも、私の勘違いかもしれませんね」


 目の前の彼女は、確かにエリスだった。しかし、彼を知らない。


 頭の奥に鈍い痛みが走る。脳の奥底を何かが揺さぶるような感覚。ヘルメスは動揺を隠しながら、なんとか口を開いた。


「いや、こっちの勘違いだったかもしれない。失礼した」


 そう言って、彼は店を後にした。外の空気が肌に冷たく突き刺さる。


 彼女は生きている。しかし、それは彼が知るエリスではなかった。


 彼は過去を変えた。その結果、この世界における彼の存在もまた、変質してしまったのではないか。


 胸の内に広がる焦燥感を振り払うように、ヘルメスは額を押さえながら歩き出す。しかし、歩くほどに違和感は増していった。


 すれ違う人々の顔、見たことがあるはずの風景。すべてが不自然だ。


 自分は、何をしようとしていたのか。何のために、ここにいるのか。


 彼は確かに、誰かを救うために過去を変えたはずだった。しかし、その誰かの名前が、輪郭が、少しずつ霞んでいく。


 胸を締め付ける恐怖を抱えながら、ヘルメスは立ち止まる。


 (待て。俺は、本当にヘルメスだったのか?)


 その疑問が脳裏をよぎったとき、彼の中にあった記憶の断片が、一つ、また一つと剥がれ落ちていく気がした。


 無意識に唇を嚙みしめていたのか、喉の奥に鉄の味が広がる。


 ヘルメスは荒い呼吸で床に膝をつくと、空間の歪みを感じた。全身が冷たい汗に覆われ、指先が震る。時間跳躍の直後は、いつもこうだ。神経が焦げるような痛み、内臓がねじれるような違和感。だが、それよりも彼を苛むのは、何度繰り返しても結果が変わらないという絶望だった。


「くそっ、またダメか!」


 床に拳を叩きつける。そこは彼がよく知る神殿の書斎だった。しかし、部屋の調度品がわずかに異なっている。机の上にあったはずの古文書が消え、代わりに見覚えのない水晶の置物が置かれている。些細な違いだが、それが何よりも恐ろしかった。


「違う……。違うんだ……」


 ヘルメスはふらつきながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。そこにあるはずの記録を探す。しかし、ページをめくるごとに、書かれている内容が以前と異なることを実感する。見知ったはずの歴史が、別のものに書き換えられている。


 また、失敗したのか。


 彼は何度も過去へと遡り、エリスを救おうとしてきた。ある時は火事の前に駆けつけ、ある時は脅威から遠くへ逃がし、そしてある時は彼女自身に時間跳躍の術を教えた。


その度に何かが壊れていく。


 今回の跳躍では、彼女の命は確かに助かっていた。だが、ヘルメスという存在が彼女の記憶から消え去っていた。彼女はただの見知らぬ人となっていた。


「これが、代償なのか?」


 ヘルメスは鏡を見る。そこに映るはずの自分の顔が、ぼやけていた。


 輪郭が揺らぎ、目の色すら判然としない。彼は震える指で鏡に触れる。ひやりとした感触の中で、自分自身がどこにいるのか分からなくなっていくようだった。


 そしてある瞬間、彼は自分の名前を思い出せなくなった。


 ほんの一瞬、意識の端に浮かんだはずの自分という概念が、霧のように消えかけた。


「何が起こっている。分からん。俺は……俺はヘルメスだ!」


 声に出して確認する。だが、その言葉に確信が持てなかった。存在そのものが、崩壊しつつあるかのように。


 時間を操るということは、神の領域に足を踏み入れる行為だ。それは分かっていた。だが、ここまでの代償を払うことになるとは思っていなかった。


 彼はふと机に目をやった。そこには、時間跳躍の術式が記された書物がある。


 まだやれる。


 まだ、繰り返せる。


 しかし、それを繰り返した先に望んだ未来が待っている保証は、どこにもない。


「俺は、間違っているのか……?」


 ヘルメスは震える手で本を開いた。視界の端では、鏡に映る自分の姿がさらに薄れた気がした。


 世界が崩れ始める音がした。


 ヘルメスが繰り返した過去改変の余波が積み重なり、現実そのものが歪んでいく。空はひび割れ、街の建物は異なる時代の姿を同時に映し出していた。子供が遊んでいた広場は、ほんの一瞬で廃墟へと変貌し、また元に戻る。人々は自分の存在が揺らぐような感覚に襲われ、恐怖に悲鳴を上げた。


「俺は……。こんなはずでは……」


 ヘルメスは膝をついた。彼の身体もまた、この世界の崩壊に巻き込まれつつあった。指先が透けていく。次の瞬間には元に戻るが、その間隔はどんどん長くなっている。


 彼はただ、彼女を救おうとしただけなのだ。望んだ結末には辿り着くことは決してなかったというのに、世界そのものを危機に追いやっている。


「これは、神の領域なのだ……」


 声に出してようやく、彼は理解した。時間とは、人が操るべきものではない。たとえ、どれほどの知識を積み重ねても、それは手に余る力なのだ。


「やめなくては……」


 彼は立ち上がると、震える手で永遠の輪を取り出した。それは今までと違う光を放っている。どこまでも深く、闇のようにすら見える漆黒の輝き。円環の中心には、幾重にも絡まり合った無数の時間が渦巻いていた。


「すべてを、終わらせる」


 ヘルメスは決意した。永遠の輪は、もはや存在してはならない。


 彼はそれを両手で強く握りしめ、己の魔力を込めた。轟音と共に、永遠の輪は砕け散り、その破片は七つの光となって天へ舞い上がった。世界の各地へと散らばるそれらは、二度と一つに戻ることはないだろう。


 時の流れが収束していく。ひび割れていた空は元に戻り、異なる時代が混ざり合っていた街も、ひとつの現実に落ち着いた。


 ヘルメスは荒れ果てた神殿の壁に手をついた。最後の力を振り絞り、そこに言葉を刻む。


 ──永遠を求めるな。

 ──すべてを知ろうとするな。

 ──与えられた定めを……全うするのだ。


 彼は、静かに目を閉じた。


 その後、千年の時が流れ、人々はいつしかその警告を忘れ去った。


 そして、再び運命の歯車が回り始める。

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