トンネルの中 二

「どうして、戻るって言ったの?」

 暗闇の中、二人の靴音だけが響いている。足元を照らす四本から二本に減った懐中電灯の光は、トンネルの闇に負けてしまいそうでどこか心許ない。

「願い、お前にもあったでしょ?」

 之治はゆるりと首を傾げてこちらを覗き込む。人よりもずっと背が高い之治にこうして覗き込まれると、なんだか全部見通されているような気がしてしまう。 

「俺の願いは、皆んなほど強いものじゃないよ」

 親は元々居なかったから、望んではいない。之治がずっとそばに居たから、家族が居ない寂しさなんてものもあまり感じたことがない。

 だから、俺の願いなんてのは、どこにでもあるようなありふれた願いだ。

「ふうん」

「それに戻って探すって言ったのは、心配もあるけど、罪悪感みたいなのがあったから。自己満足みたいな感じ」

「ああ、足音が減ってるのに気づいていたけど、みたいな?」

「うんそう」

「本当に気づいてたの?」

「気づいていたって言うか、なんだろうそんな気がしてたんだ。なんか足音減ってないかなって。でも、場所が場所で、言い出せなかった。そんな事ないって思い込んでたのもあるとは思うけど。違和感持った時に言っとけば良かった」

 もう随分引き返している。それでも幸子の姿はない。

「之治は」

「うん?」

「之治はお願い、良かったのか? こっちに来てくれて」

「俺の願いは半分はもう叶ってるから」

「叶ってるのか?」

「そう、叶ってる。半分だけどね」

 にんまりと之治が笑う。穏やかな笑みは、場所に似つかわしくない。

「お前の願いが叶ってるなら良かった」

「良かったって思ってくれる?」

「うん? うん」

 よく分からない問いは、けれども確かに良かったと思っているから頷けば、之治は朗らかに笑った。やはり場所を考えると酷く似つかわしくない。


「なあ」

 暗闇を進む。一本道、ただ一本道のトンネルは時間の間隔を狂わせる。それにしたって。

「どうした?」

「なんか、長くないか?」

「トンネルが?」

「こんなに歩いたっけ」

 入ってきた時進んだ道よりもずっと長く歩いているような気がする。

 それなのに、入り口は見えない。ずっと、ずっと視界の先までトンネルの暗闇が続いている。

 トンネルに入ってきたのは朝だった。入る時間なんて指定されていないから、ならば、明るい方が森の中を進むにもいいだろうとやってきた。で、あるならば、来てからそう何時間も経っていないはずだ。長くて二時間。トンネルの中では感覚が狂うが、それでもそんなに長くはいないはずなのだ。

 入り口付近は日の明かりが入り込んでいた。近くなれば日の光が見えるはずなのに、日が差し込んでいるような様子は微塵もなく、暗闇だけが続いている。

 引き返せば、元いた場所には戻れない。

 思い浮かんだ一文が、背を逆撫でる。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かった。

「之治」

「もう少し進んでみよう」

 見上げた之治の顔に恐怖の色はない。それで少しだけ肩の力が抜けた。


 多分、引き返してから今まで歩いて来ただけの距離は歩いただろう頃、やはり入り口は見えない。

「之治、やっぱり変だ」

 トンネルは未だ続いている。

 ライトで道先を照らせば、暗い洞穴がずっと、ずっと先まで続いていた。

「之治」

 嫌な汗が背筋を伝う。

 隣の名を呼べば、人差し指がついと掲げられた。

「あそこ」

 指差す先にはぽっかりと口を開けた暗闇があるだけだ。

「あそこ?」

「今、居た」

 ぞわり、と肌が粟立つ。居た。居たというのは。

 一度に脳に熱が集まる。考えていた言葉も、尋ねようとしていた言葉も全部呑み込まれてしまう。

「幸子」

 けれど次いでの言葉に、脳に集まった熱が下がっていく。

「さ、ちこ」

 呟いて、之治が指差した方に倣って明かりを当てる。一度では姿を見つけられずに、明かりを左右に振れば、床に体を投げ打った幸子の姿があった。

「幸子っ」 

 駆け寄る。

 駆け寄って、幸子まであと何歩かの所で足が止まった。

 赤だ。ライトに照らされて赤色が見えた。ぬらぬらとどす黒い赤が、異様に光っている。

 こちらにはうつ伏せで背中しか見えない幸子の身体。彼女の正面に広がっている赤色は、どう見ても、人が流すにはあまりにも多い。

 唾がうまく飲み込めなくて喉が変な音を立てた。

「っ」

 それでも、確かめなければならない。

 生きているのならば、この出口の見えぬトンネルを出て、助けを呼ばねばならない。

「俺が見て来ようか?」

 いつまでも固まっている俺に、之治が言う。それに無言で首を振って、幸子の元まで歩み始めた。口を開けば、弱音が出て、任せてしまいそうな気がした。

 

 

 赤。異常なほどの赤色。それを流す身体に触れる。

「幸子」

 身体は寒がりな彼女の厚い服の上からでも分かるほど、冷たくなっていた。

「っ、さ、ちこ」

 覗く首筋は土気色だ。暗さのせいで血色悪く見えているわけではないだろう。

 之治が赤色を踏むのも気にせずに正面に屈んだ。じ、と幸子のこちらからは未だ見えぬ顔を見て、こちらへと視線をあげる。

「駄目だ」

 ただ一言、駄目だと言う彼の言葉が、途端に頭の中で反芻する。

「見ないままでいいよ」

 之治は幸子に触れる俺の手を取って、立ち上がらせようとしてくれる。

「でも、俺も、見なきゃ」

 それでも、俺は首を振って、幸子の体を反転させた。

 ひゅ、と喉が鳴った。

 うまく飲み込めなかった空気が、細切れに吐き出されていく。

 幸子は、顔が無かった。 

 どろり、と泥濘のような赤色が、反転させた体から、卵の黄身みたいに流れ落ちる。

「……こ、れ」

 口の中が酸っぱいような気がする。

 うまく息が出来ているのか、よく分からなくて、頭がぼうっとする。

「ゆ、きじ」

「もう、いいよ」

 思わず傍の名を呼べば、彼の冷たい手が目を覆った。

 暗闇に包まれた視界に、幸子の顔が焼き付いている。

「……ぉ、ぇ」

「吐いてもいいよ」

 首を横に振る。えずきを必死に堪えて、唾を飲み込む。口の中はカラカラなのに、唾液が次から次へと出てくる。

 呼吸がうまく出来ない。鼻に鉄錆た匂いが染み付いているようで、けれど口で息をしても鉄錆た味が口内に広がるようで、呼吸の度に喉に胃液が込み上げようとする。

「……」

「之治?」

「ん」

 暗い視界の中、どこか遠くで雫が落ちる音が嫌に耳についた。 

 そうして、外される手。

 目を開けた視界の中には、幸子の死体が無かった。

「え?」 

 感触は確かに手に残っていた。

 けれども、最初からそこに無かったみたいに、彼女の身体も、あれだけ流れ出ていた赤色も無くなっている。

「消えた」

 答えはすぐに傍からもたらされた。

「消え、た?」

「ああ、消えた」

 異常だった。

 幸子の死体があったのも、ぬるついた赤色が床一面に広がっていたのも、幸子の顔が削ぎ取られたみたいに無かったのも、それが全部、全部消えたのも。

 生きていたのに。少し前まで彼女は生きて、話していたのに。

 ぞっとした。つい少し前まで生きていたものが、無惨に死んでいた事実に、体が遅れて震える。

 だって、とか、でも、とか、無意味な接続詞だけが頭に浮かんで、それよりも先は何も考えられない。

「どうする?」

 問われて顔を上げる。視線が合えば、もう一度、どうするか尋ねられる。落ち着いた声が思考を落ち着かせてくれる。

 どうするか。

 そうだ、柳介達のところに行かねば。

「柳介達を追いかけなきゃ」

 幸子が死んだ。このトンネルの噂は、おそらく本当なのだ。

 ならば、柳介達は大丈夫だろうか。引き返してはいないはずだ。それでも、この異様なトンネルの中でいて、無事でいられる保証もない。

「戻ることも出来るかもよ」

 このまま進めば、と之治は言う。

「いや、進む。仮に出口が見つかっていたとしても、柳介達と合流すると約束したから」

 そう、と之治の目が細まる。違和感があった。

 けれど、違和感の正体は見えないまま、行こうと差し出された手に思考は塗り潰された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る