ゆい 第三十五話
そう言って私を見たリナさんは、息を飲むほどきれいだった。
凛として、前を向いていた。
みんながこの人に憧れ、心を寄せるのがわかる気がした。
「悠馬、今日、ワールドツアーから3ヶ月ぶりに帰ってくるわ。
…さよなら」
向けられた背中。風に揺れる髪。
すっきりと長い脚。遠のくヒールの音。
目をそらすことができなかった。
リナさんは林さんと言葉を交わし、林さんが振り返って私に会釈すると、2人は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
タクシーが住宅街を滑るように走り抜けていく。
茶封筒の中には、離婚届が見えた。
リナさんの署名と捺印がある。悠馬の字もある。
文字が涙でにじむ。
愛しさと切なさといろいろな感情がごちゃ混ぜになって、声が出なかった。
だけど、この胸にこみ上げるのは。
「…お役御免か」
いつの間にか稜さんと祐が隣に並んでいた。
「稜さん、私…」
稜さんを見ると、微笑んでうなずいてくれた。
「私、行かなきゃ…」
祐も力強くうなずいてくれた。
その瞬間、私は走り出していた。
悠馬。
私、ずっと悠馬を待ってた。
ずっとずっと待ってた。
でももう待ちたくない。
悠馬のもとへ行きたい。
地味で平凡で、真面目にコツコツがモットーで。
成績は中位、容姿は人並み、趣味も特技も特になし。
面白みがなくてつまらない。
そんな人生だと思ってた。
でも。
あなたが私を見つけてくれたから。
私はたった一人の特別な自分になれた。
伝えたい。
このこみ上げる想い。
ずっと変わらない想い。
寝起きの翔を連れて、取るものもとりあえず、航空機に乗った。
稜さんが一緒に付いて来てくれた。
『just A minute』 EXZ
作詞・作曲 Yuma 編曲 EXZ
この一瞬がとても愛しい
少しずつ 少しずつ
君に近づいていくから
地下鉄の階段は2段ずつ駆け上がれ
空港の人混みをすり抜けて走れ
なんでこんな遠いんだろう
君がいる街
ちょっとどうしようもないくらい
急いでるんだけど!
午前4時 まだ眠る街
大声で叫びたい
今 君に会いに行く
もし同じ気持ちで 今 僕を待ってるなら
誰よりも 何よりも 早くたどり着くから
この一瞬がとても愛しい
少しずつ 少しずつ
君に近づいていく
――――――――
悠馬が何時の航空機で、どこの国から帰ってくるのかわからない。
空港は人が大勢すぎて、どこを探せばいいのかもわからない。
もうとっくに到着して、空港を後にしているかもしれない。
そもそも、この空港じゃないかもしれない。
でも。どうしても。
会いたくて。伝えたくて。
どのくらい立っていたのかわからない。
翔も稜さんも巻き込んで、衝動的なことをした自分に落ち込む。
後悔の嵐に引き込まれそうになった、時。
どうしてだろう。
私の目と脳は、悠馬を感じる。
空港の雑踏の中、悠馬の姿だけ、すぐに分かった。
悠馬だけは、どんなに遠くからでも、人ごみに紛れていても、見つけられる。
ゆうま。
ありがとう。大好き。
声が出ない。胸が詰まる。
急に、周りの視線が気になって、悠馬がすごく遠い人のように感じて、ひるんだ。
その時。
「パパ―――…!」
到着ロビー内に、翔の声が響いた。
時が止まったみたいに、周りの喧騒が全てなくなり、スローモーションのように、悠馬がゆっくりと振り向いた。
目が合った、と思った時。
唇に、稜さんの唇がかすめて、
「ゆいっ…!」
悠馬の声が聞こえた。
稜さんの唇が離れた時には、翔と一緒に悠馬の腕に強く強く、抱きしめられていた。
「ち、ちゃんと待ってなくて、…ごめんなさい。リナ、さんが、これを届けてくれて、どうしても悠馬に、会い、たく…」
「ゆい」
気ばかり焦って、何を言っているのか分からなくなった私の耳に、悠馬が唇を寄せた。
一瞬で私をとらえて、どこまでも落とした、甘くて深い、魂をそっと包み込むような悠馬の声が、私の耳元で告げた。
「…愛してる」
いつも。いつでも。
私の中は悠馬だけで。
悠馬だけでいっぱいで。
私が生まれてきた意味は。
今日まであった全ての意味は。
ここにあったんだ。
言葉の代わりに涙が溢れそうになる私に、悠馬はちょっと困ったようなそぶりで、
「ごめん。ちょっと、我慢な」
翔を抱え直すと、いたずらな笑みを浮かべて、
「逃げるぞ」
私の手をつないで、走り出した。
今まで聞こえなかった歓声が一気に襲いかかる。
悠馬が道を開けてくれるけど、大勢に詰め寄られて揉みくちゃにされる。
だけど、悠馬は爽快に笑っていた。
悠馬が笑ってくれるなら。
私は何だってできる。
…大好き。
「離すなよ…!」
遠くから、稜さんの声が聞こえた気がした。
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