ゆい 第二十五話

冬の間、ずっと稜さんのマンションから外を見ていた。


悠馬がくれたCDを携帯に落としてもらって、何度も聴いた。

悠馬が私を想ってくれていると錯覚して、何度も何度も聴いた。


雪が舞った日は、本当に悠馬の声が聴こえた気がした。


悠馬からの連絡はなかった。

わかっているのに、何度も何度も携帯電話を確かめてしまう。

番号のメモを渡したことを、忘れてしまえればいいと思うほどに。


リナさんは命を懸けて悠馬を想っているというのに、

愚かな私はまだ悠馬を待っていた。


3月になったある日。


稜さんのマンションに、私宛の荷物が届いた。

開けてみると、私の眼鏡だった。


『じゃ、取ろうか?』


再会したときにいたずらに笑って、悠馬が取り上げた私の眼鏡。

その後、優しいキスをしてくれた。

震えながら、キスをした。


これは。

もう、会えないってこと?

もう、会わないってこと?


眼鏡を手にしたら、涙が落ちた。

殴打されるより蹴られるより、痛かった。


『ごめん』って、痛々しく揺れる悠馬の瞳。

苦しいほど、抱きしめてくれた悠馬の腕。

私と翔を丸ごと包んでくれた悠馬の広い胸の中。

何も言わずに満たしてくれた最後のキス。


『待ってて』って言ったのに。


悠馬。


離さないでほしかった。

連れていってほしかった。


悠馬。


ふてくされた口調も。むっとした物言いも。

無茶な行動も。照れた表情も。触れる時の優しい指も。

全部全部、大好き。


悠馬。


もっと、

悠馬を待っていたかった。


ずっと、

悠馬を待っていたかった。


ただ、悠馬が好きで。それだけだった。

だけど、それだけじゃ、どうにもならない。


こんな風に、終わるのかな。

みんな、どうにもできない気持ちを抱えて、

恋を終わりにするのかな。




「久しぶりね」


翔の妊娠を告げて以来、4年ぶりに会う母は、どことなく小さくなったように感じた。


母が、稜さんのマンションを訪ねてきたのは、3月も終わりの桜が咲き始めた頃だった。一連の報道を見て、上京し、病院に訪ねてきたところを、稜さんが連れてきてくれたのだ。


「ゆい、ごめんね…」


警戒した翔を抱いたままの私に、母が腕を回す。


「もう、いいわ。もう、いいのよ…」


私の肩に顔を埋めたまま、母は涙声で細い肩を震わせた。

親を泣かせることなんて、しないと思っていた。

ずっと、地味で真面目で平凡な、「イイコ」だった。


なのに、大人になって思い出すのは、母の泣き顔ばかり。

それでも、私は。

今でもやっぱり、あの日の自分を後悔しない。

あれは私の平凡な人生に訪れた奇跡の夜だった。


「ゆい。よく頑張ったね」


ひとしきり泣いた母は、リビングで少し照れたように翔を撫でた。


「お父さんが、迎えに行って来いって言うの。…もう、充分だって。

私たちまでゆいを責めなくて、いいんじゃないかって」


母が涙に濡れた目で、私を見た。


「本当に一人で頑張るとは思ってなかったわ。

一人で子どもを育てるなんて大変だから、私もお父さんも、そのうち根を上げて帰ってくると思ってた。なのに、毎月、学費まで振り込んで、本当に…」


軽く首を振ると、寂しそうに笑った。


「こんなことになって、…あなた、本当に彼が好きなのね」


母の言葉は、行き場を求めてさまよっている私の気持ちを揺らし、

また、泣きそうになって、慌てて唇を噛んだ。


私の中はまだ悠馬でいっぱいで、ほんの少しでも揺らされたら

想いが涙になって溢れてしまう。


母はともかく、一度実家に戻ってくるように言って

翔を抱きしめ、帰って行った。


それがいいのかもしれない。

いつまでも、稜さんに甘えて、マンションに閉じこもっているわけにはいかない。


杏子師長からも、別の職場を世話してくれると言われている。


「秋田か。…遠いな」


実家に帰ろうと思っていると告げると、

稜さんは私を抱きしめてうなった。


「確かに、一度東京を離れたほうがいいかもしれないけど…」


稜さんの腕に力がこもる。


「会いに行くよ」


稜さんは思案するように私の髪をなでて、


「ゆい。もしも…」


聞こえないくらい小さく息を吐き、額にキスしてくれた。

その先を言わないのは、多分稜さんの優しさなんだと思う。

マリカちゃんも言っていた。


いつも、私を励ましてくれた広くて温かい稜さんの腕の中。

寂しさも切なさも悲しさも、包んでくれた大きな腕。


私は一人じゃない。


稜さん、杏子師長、マリカちゃん、…

みんなが支えてくれたから翔と歩いてこれた。


だから大丈夫。

これからも、きっと大丈夫。


桜の花が満開に咲いた日、

私は翔と共に、悠馬と出会った東京を後にした。

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