第20話 美の喪失※アマリリス視点

 ……痛い。


 意識が戻ってくるとともに、全身から痛みが押し寄せてきた。けれども、その痛みこそが私がまだ生きていることの証拠。思えば、崖から転落したのだから生きていること自体が奇跡だ。


 私は、ゆっくりと目を開いた。


「顔は……大丈夫?」


 それが私の最初の心配だった。痛みを押して、無意識に両手で自分の顔に触れる。何も感じない。いえ、感覚がある。だから問題ないはず。


 視界がはっきりしてくると、目に入ってきたのは見知らぬ天井。粗末な木の梁が何本も横切り、所々からワラが覗いている。ここは……どこ?


 私は横になっていた寝台から起き上がろうとした。だけど、体中から鋭い痛みが走り、呻き声が漏れた。それでも私は歯を食いしばって体を起こす。今の状況を把握しておきたい。自分が、どうなったのか。


 見回すと、やはりそこは粗末な小屋だった。壁の木材は所々朽ちかけ、風がすき間から入り込んでいる。寝かされていたのは壊れかけの寝台で、被さっていた毛布からは嫌なニオイがした。吐き気が込み上げてくる。こんな場所で眠っていたなんて、信じられない。


「こんなところ、早く出なくちゃ」


 私は痛みをこらえながら立ち上がる。すると、自分の身に着けているものが普段の衣装と違うことに気付いた。粗末な麻の服。明らかに平民のもの。私の高価なドレスはどこへ?


 何なの、この状況は。


 化粧道具がない。私のメイクアップ道具はリーゼが持っていたけれど、彼女のことは置いてきてしまった。思い返せば愚かな行動だったかもしれない。でも仕方ない。自分の命が一番大事だったから。助けようとしたら捕まっていた。


「目を覚ましたのかい?」


 突然、声がした。振り返ると、一人の老婆が戸口に立っていた。腰は曲がり、手には薪が抱えられている。その姿を見て、私はほっとした。出てきたのが男性でなくて良かった。男性だったら、私の今の無防備な姿を見られるのは耐えられない。


「おばあさま、あなたが私を助けてくださったの?」


 私は丁寧に尋ねた。見た目からして明らかに平民だけど、今は彼女に頼らざるを得ない。


「そうだよ。森で倒れていたところを見つけてね。気分はどうだい?」

「大丈夫です」


 全然大丈夫じゃない。体中が痛むし、頭も重い。だけど私は最も魅力的な笑顔を作り、無事をアピールした。


「ここは、どこなのでしょうか?」

「ん? ここはシルワ村だよ」


 シルワ村? 聞いたこともない。王都から、かなり離れられたのだろうか。協力者の男たちは、どうなったのだろうか。あの戦いで死んだのか。捕まって、まだ生きているのか。どちらにしろ、もう会えないでしょうね。


 孤立無援な状況に気づき、一瞬だけ不安が胸をよぎった。


「あんたは崖から落ちて、顔を強く打ったようだね」

「え?」


 老婆の言葉に、私は思わず息を飲んだ。


「顔を? でも、大したことないでしょう?」


 私は慌てて尋ねた。顔に怪我があるなんて。でも、きっと軽傷に違いない。そうでなければ……。


「まあ、回復するまで好きに過ごしな。無理はしないことだ」


 老婆はそう言って、私に優しく微笑んだ。だが、その目には何か——哀れみのようなものが浮かんでいるように見えた。それに私は、とてつもない不安を覚えた。


「おばあさま、鏡はありませんか?」

「鏡? そんな高価なものは、この村にはないよ」

「それなら、磨かれた金属板とか」

「ないよ。そんなことより、まずは体を休めることだね」


 私は不満を感じた。どうして自分の姿を確認できないの? 私の美しさを確かめることができないなんて。でも言われた通り、まずは体力を回復させることが優先なのかしら。


 老婆は部屋を出て行った。一人になった私は、これからどうするべきか考え始めた。


 王国から脱出しないといけない。バーミリオン家の兵士も近くにいるかもしれない。ザイン王からの追手も来るだろう。


「私の美しさがあれば大丈夫」


 この美貌があれば、どんな男性でも虜にできる。それで王妃にまでなれたのだ。今回だって、この美しさを使えば簡単に助かるはず。きっとこの村にも若い男性がいるだろう。彼らを味方につければ、村を出て国境まで連れて行ってもらうことも可能。


 そう考えていると、部屋の隅に水の入った木桶が目に入った。そうだ、これで顔を確認できる。私は急いで桶に近づき、水面を覗き込んだ。


 水面に映るものを凝視する。これは、なに? 誰?


 水面に映っていたのは、見知らぬ女の顔だった。左頬から額にかけて深い切り傷が走り、唇は裂け、鼻は歪んでいる。


「違う……これは違う……」


 私は震える手で自分の頬に触れた。水面の映像も同じように動く。そんなはずない。これは私じゃない。私はクリムゾン伯爵家の一人娘で、その美しさはグランツライヒ王国でも一番。王子が婚約者を捨ててまで求めた女性。そんな私が、こんな醜い姿のはずがない。


「嘘よ、こんなの嘘!」


 焦りと恐怖で、私は痛みも忘れて部屋を飛び出した。老婆の呼ぶ声も無視して、私は村の外れに見えた小川に向かって走った。


 流れの緩やかな川面は鏡のように周囲の景色を映している。私はおそる恐る覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、先ほどの桶で見た顔と同じだった。左頬から額にかけての傷は、もはや切り傷というより裂傷だった。髪は所々抜け落ち、不揃いになっている。


 かつての美しさの欠片もない。


「そんな……そんなはずない……」


 私の膝から力が抜け、川辺に崩れ落ちた。受け入れられない。美しさこそが私の全て。それが私の武器であり、誇りであり、存在価値そのものだったのに。


「一時的なものよ。きっと治る」


 私は必死に自分に言い聞かせた。高名な治療師を頼れば元に戻る。そうよ、お金さえあれば何でもできる。


 だけど、心の奥では既に分かっていた。この傷は決して元には戻らないということを。私の美しい顔は、永遠に失われたのだと。


「いいえ、私はまだ美しい。私は美しいの!」


 私は叫んだ。それは現実から逃れるための最後の抵抗だった。


「アマリリス・クリムゾン。王妃になった私が、こんな顔になるはずがないわ。これは悪い夢。ただの夢なの」


 そうして私は川辺に座り込んだまま、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。現実を受け入れることができなかったのだ。




 それから数日が経った。アマリリスは正気を失った。シルワ村の住人たちは彼女のことを気の毒に思い、面倒を見続けた。彼女が王妃だったことなど、誰も知らなかった。ただの不幸な娘として扱われた。


 アマリリスは毎日、自分が美しい姫だと思い込み、村の者たちを従者に見立てて過ごしていた。時折「私を王妃と呼びなさい」と村人に要求することもあったが、皆は彼女の気を悪くさせないよう「はい、王妃様」と答えていた。


 数ヶ月後、王都からの行商人がもたらしたニュースによれば、ザイン王は謀反の罪で処刑されたという。バーミリオン家が中心となって王都を奪還し、ガーランド王が復権した。そして王位は、第二王子だったリーオンに継承されていく。


 その話を聞いたアマリリスは、何も理解できないまま微笑んだ。


「私の夫は王様よ。だから私は王妃なの。美しい王妃」


 そう言って彼女は自分の傷だらけの顔を両手で撫で、不気味な笑みを浮かべた。彼女が正気を取り戻すことは、二度となかった。

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