隠されたスキル ~底辺魔族の逆襲~

すぎやま よういち

第1話 勇者パーティと聖女

「何の才能もないのか。お前は、魔族の恥だ」

父の冷たい視線が刺さる。魔族の集落「ヤミノ村」の片側にある簡素な家で、私は父から毎日のように聞かされる言葉だった。


私の名前はクロム。15歳になった今日、魔神様の加護によって全ての魔族に与えられるスキルの儀式を終えたばかりだった。

魔族の世界では、15歳になると魔神様の加護で必ず1つはスキルを授かる。炎を操るもの、風を呼ぶもの、鋼の肌をもつもの。。。 様々だ。そしてそのスキルの強さが、魔族社会での地位を決める。

「何も変わらねぇじゃないか」

村の広場から帰る道すがら、幼馴染のグリムが肩を叩いた。彼は今日、「鉄腕」という力強いスキルを得て、既に腕力だけでヤミノ村の若者たちの中でも一目置かれる存在になっていた。

「ああ。。。何も変わらない」

確かに何も変わっていなかった。少なくとも見た目は。だが、私の内側で何か目覚めたのは確かだった。

私が得たスキルは「略奪」。殺した相手のスキルを奪うという物だった。

だが、それを証明するには誰かを殺さねばならない。非力な私にそんなことが出来るはずもなく、結果として「無能」のレッテルを張られたまま生きていく事になった。


それから3年が経った。

私は村の中で最底辺の仕事、ゴブリンの飼育係をしていた。ゴブリンは魔族の中でも最下層の存在で、他の魔族の雑用をこなす奴隷のような扱いを受けていた。そんな彼らの面倒を見るのが私の仕事だった。

「オレ、人間、怖い」

ゴブリンの一人、シオンが震える手で私の服を引っ張った。

「大丈夫だ、シオン。人間はここまで来ないさ」

私は優しく彼の頭を撫でた。実は最近、人間の騎士団が魔族の領域に侵攻してきているという噂が流れていた。だが、ここは魔界の最深部。人間がここまで来る事はないだろうと、誰もが高をくくっていた。

それが、間違いだった事に気づくのは、その日の夕暮れだった。

「敵襲だ!人間が攻めてきた!」

突然の叫び声が村中に響き渡った。広場の見張り塔から煙の合図が上がり、魔族たちが一斉に武器を手に取る。

「どうやって人間どもがここまで?」「裏切り者がいたに違いない」

パニックに陥る魔族たちの中、私はゴブリン小屋に駆け込んだ。

「みんな、隠れるんだ!」

ゴブリン達を安全な場所に隠した後、私は村の様子を見に行った。

それは地獄絵図だった。

人間達は、予想以上に強かった。彼らは「聖なる力」という魔族に対して特に効果のある力をもっていた。魔族の多くは人間たちの攻撃の前に倒れていき、村は炎に包まれていた。

そして、私の目の前で父が人間の騎士に囲まれていた。

「魔物め、この世から消え去れ!」

騎士の剣が振り下ろされ、父の体を貫いた。

「父さん!」

叫ぶ間もなく、父は地面に倒れた。私は父の元へ駆け寄ろうとしたが、突然、別の騎士が私の前に立ちはだかった。

「次はお前だ、魔物!」

剣が振り下ろされる。避けようとしたが、非力な私には無理だった。

「終わりか。。。」

目を閉じた瞬間、不思議な事が起きた。

体の奥から湧き上がる力。まるで本能が目覚めたかのような感覚。

私は咄嗟に手をのばして、騎士の腕をつかんだ。

「な、何だ?」

騎士が驚いた表情を浮かべる。

私の手から黒い霧のようなものが騎士の体に吸い込まれていく。そして、騎士の体から光が失われ、干からびるように倒れた。

一方で、私の体は力に満ち溢れていた。

「これが。。。私のスキル。。。」

殺した相手からスキルを奪う「略奪」の力だった。そして、私は騎士から「聖なる盾」というスキルを奪っていた。

騎士たちが恐怖の表情で私を見つめている。

「あいつ。。。仲間の力を吸い取った」「なんてことだ。。。魔物のくせに聖なる力を。。。」

人間の騎士達は、逃げていった。

次の日、私は長老から呼ばれた。

長老は、厳しい表情で迎えた。

「クロム、聞いたぞ。お前、【聖なる盾】を使ったそうだな。」

私は黙って頷いた。


「聖なる力と闇の力を同時に持つもの。。。古い予言にあったのう」

長老の言葉に、私は驚いて顔を上げた。

「予言?」

「そうじゃ。【闇と光の力を併せもつ者、二つの世界のかけ橋となり長きにわたる争いに終止符を打つであろう】。。。」

長老は遠い目をして続けた。

「お前の母親は人間だったことを、知っておるか?」

衝撃の事実に、私は言葉を失った。

これが、私の旅の始まり。魔族と人間の血を引く私が、両者の間に立ち、真実を探る物語が今、幕を開けた。


「人間の母と魔族の父。。。」

長老から真実を聞かされた私は、自分の部屋に戻り、手のひらを見つめていた。薄く紫がかった肌には細かな鱗のような模様があり、明らかに人間のそれとは異なる。だが、他の魔族と比べれば、確かに私の肌は淡く、角も小さい。

今思えば、子供の頃、時折村の子供たちから「半端者」と呼ばれた事があった。当時は単に見た目が少し違うだけだと思っていたが。。。

「クロム、入るぞ」

ドアが開き、ダルクが顔を覗かせた。幼い頃から親友だった彼は、私の出生の秘密を知っていたのだろうか。

「お前、知っていたのか?俺の事。。。」

ダルクは少し困ったように頭をかいた。「うん、薄々は。でも、それが何だっていうんだ?お前はお前だ。生まれがどうであれ、俺たちの仲間だ」

彼の言葉に、少し軽くなった。

「それより」ダルクは声を低くした。「北の森で見知らぬ魔族の痕跡が見つかったらしい。恐らく、人間の子供を攫ったという連中だ」

私は身を乗り出した。「詳しく教えてくれ」

「足跡や、使った魔法の痕跡から、氷の魔族の集団らしい。だが、彼らがなぜ人間の子供を攫うのか、その目的は不明だ」

氷の魔族¦我々のようなヤミノ魔族とは異なる種族だ。寒冷地に住み、孤独を好む種族と聞いていた。

「明朝、調査に行く。お前も来るか?」

ダルクの問いに、私は頷いた。自分の中に目覚めた新たな力「聖なる盾」の正体も知りたかった。

夜、私は不思議な夢を見た。

白い髪の女性が私に向かって手を伸ばしている。その表情は悲しげで、何かを訴えかけているようだった。彼女の背後には、燃え盛る村と逃げ惑う人々の姿。

「守りなさい。。。あなたの力で。。。」

女性の声が聞こえた瞬間、私の体から光が放たれ、目が覚めた。

額には冷や汗が滲み、心臓が激しく鼓動していた。

「母さん。。。?」

そう、きっとあれは私の母親だったのだろう。

私が生まれた直後に亡くなったと聞かされていた彼女の姿を、私は見た事がなかった。なぜ今、夢に現れたのか。

窓の外は、まだ暗い。しかし、東の空がわずかに明るくんなり始めていた。

私は立ち上がり、準備を始めた。北の森へ向かう時が来たのだ。

「出発するぞ、クロム」

早朝、村の出口でダルクと数人の魔族戦士が待っていた。彼らは皆、私の混血の出自を知っているはずだが、特に態度を変えることもなく、普段通りに接してくれた。

私たちは、北へと足を進めた。

森に入ると、徐々に気温が下がり始めた。通常、この季節のヤミノ周辺はかなり温暖なはずだが、明らかに不自然な寒さだ。

「氷の魔族の気配を感じる」

先頭を行く偵察役のナイトが言った。「でも、妙だな。。。」

「何が?」

「通常、氷の魔族は五感を鋭敏にする術を使って身を隠す。だが、ここでは露骨に気配を残している。まるで。。。」

「まるで、誰かを誘っているようだな」

私が言葉を継いだ。

一行は警戒を強め、さらに進んだ。やがて、森の奥にある小さな谷間に辿り着いた。そこには、氷で作られたような建造物があり、周囲には不自然な霧が立ち込めていた。

「あれは。。。」

ダルクが指した先に、いくつかの檻が見えた。中には人間の子供たちが震えながら閉じ込められている。

「見つけたぞ。だが、罠の可能性もある。慎重に」

ナイトの言葉が終わらないうちに、周囲から十数体の氷の魔族が姿を現した。彼らの体は透明な氷のように輝き、目は冷たい青い光を放っていた。

「よく来たな。ヤミノの魔族たちよ」

一人の大柄な氷の魔族が前に出て来た。その姿は他のものより一回り大きく、明らかに首領格だった。

「私の名はフロスト。何故我々の領域に踏み込んだのかな?」

ダルクが一歩前に出た。「人間の子供たちを解放しろ。お前たちのせいで、我々の村が攻撃されたんだ」

フロストは不適な笑みを浮かべた。「ほう、そうか。人間どもが間違った相手を攻撃したか。まあ、彼らにとっては『魔族は皆同じ』なのだろうな」

「なぜ子供たちを攫った?」彼の態度に怒りを覚えつつも、私は冷静に尋ねた。

フロストは私をじっと見つめた。「お前。。。面白い魔力を持っているな。闇と。。。光?」


彼は目を細めた。「子供たちは生贄だ。大いなる氷の女王の復活の為にな」

「生贄だと?」

「そうだ。純粋な魂を持つ子供たちの命は、強力な力の源となる。それを使って、我々の女王を千年の眠りから覚醒させるのだ」

フロストの言葉に、私たちは戦慄した。命を犠牲にする儀式など、ヤミノの魔族では絶対に禁じられていることだった。

「許さない。。。」

略奪のスキルが反応し、内側から何かが湧き上がってくる。

「クロム。。。?」

ダルクが心配そうに私を見た。

「子供たちを解放しろ。さもなければ。。。」

私の言葉に、フロストは高らかに笑った。

「何ができる?半端者が!」

その声が引き金となった。私の中で眠っていた力が一気に解放される。

「聖なる盾!」

私の前に巨大な盾が出現し、同時に体から光が放たれた。だが、今回は前回と違い、盾から光の矢が放たれ、周囲の氷の魔族に向かって飛んでいく。

「なっ。。。!」

フロストが驚きの声を上げる。

光の矢に当たった氷の魔族たちは、凍り付いたように動きを止め、やがて氷の彫像のようになっていった。

フロストは怒りに満ちた表情で私を睨みつけた。「貴様、何者だ!魔族が聖なる力を使うなど。。。」

彼は大きく息を吸い込み、強力な氷の息を吐き出した。

私は咄嗟に盾を構えた。氷の息が盾にぶつかると、盾が白熱し、氷を蒸発させていく。

「クロム!子供たちを助ける!」

ダルクの声に応じ、私はフロストに向かって突進した。

「聖なる力と闇の力。。。両方を持つ者。。。」フロストの表情が一瞬、恐怖に変わった。「まさか、予言の。。。」

私の盾がフロストの胸に突き刺さると、彼の体が光に包まれ、悲鳴と共に氷の粒子となって消えていった。

周囲の氷の魔族たちは、首領を失い、混乱に陥った。私たちはその隙に子供たちの檻を開け、全員を解放した。

「ありがとう。。。怖かった。。。」

一人の少女が涙ながらに言った。彼女の瞳には恐怖と共に、不思議なことに私を見る目に嫌悪感はなかった。

「大丈夫だ。もう安全だよ」

私は彼女の頭を優しくなでた。

子供たちを連れ、私たちはヤミノ村に戻った。

ヤミノ村の近くには、騎士たちがテントを張っていた。

私は、子供たちを連れて騎士に見つからないようにテントの近くまで来て子供たちと別れた。

人間の騎士たちは、攫われた子供たちがかえってきた事に驚いて、それと共にクロム達ヤミノ村の魔族が氷の魔族から解放してくれた事を聞き驚いている。

そして、次の日には子供達を王国に戻る為に人間の騎士達は帰っていった。

クロムは、フロストとの戦いで新しいスキル「氷の息」を習得していた。

一旦、クロム達はヤミノ村の長老に氷の魔族とその首領フロストの事を話すと長老は目を閉じしばらくして「何かが、起こる前触れかもしれん。あのおとなしい氷の魔族が人間を攫って生贄にするなどとても考えられん。」と言った。

クロムは、「長老様、これは何者かが仕向けた可能性が高いと思います。どうか、私に調査する為に旅に出る事を許可して頂けないでしょうか。」

と言うと、長老も「これも運命かもしれん。クロム、世界は限りなく広い。しっかりと世界を見て原因を突き止めてもらえないか。」と言ったので「このクロム、全身全霊をかけてこれらを引き起こした原因を突き止めてみせます。」と言った。

長老から魔族が住んでいる国の地図を貰い、親友のダルクには村の事を頼んできた。

明日からは、ヤミノ村を出てどこに行こうかと長老様から貰った地図を眺めた。

ここから、近い大きな街はゼスト様が治めているクリミアか

そう思いながら静かに眠った。

次の日、村が騒がしくて目が覚めた。

外を見ると、ヤミノ村の魔族が総出で私の住んでいる家に集まっていた。



ヤミノ村からクリミアに行く街道を歩いていた。

魔族は、魔神様からの加護でスキルを授かるよな。

人間は、どうやってスキルを得るのかな

そんな事を考えながら歩いていた。

道中、人間の商人の馬車を見かけたら商人もこちらを見てすぐに走り去って行った。

おかげで、食べ物には困らなかった。

夜は、馬車の中で眠る事にした。

馬車で移動中にどうしても暇になるので馬車の中にある書物を読んで見た。

どうやら、人間も魔族と同じく人間の神からスキルを授かるようだった。

そして、魔族が授かるスキルと人間が授かるスキルでは中には魔族のみ授かるスキルや人間のみ授かるスキルがある事が分かった。

私が、手に入れた【聖なる盾】は人間だけが授けられるスキルだった。

クリミアに到着すると、まず武器と防具の準備が必要だと判断した。鍛冶屋を訪れたクロムは、すぐに原料の問題に直面する。鍛冶屋は渋い顔で言った。

「原料がなければ、武器も防具も作れんよ」

仕方なく地元の酒場で情報を集める事にした。酒場は、旅人や冒険者たちの情報交換の場。そこで彼は、北にある洞窟にミスリルがある事を知る。

しかし、その情報を得た直後、一人の魔族が近寄ってきた。

「その洞窟は危険だ。一緒に行こう」

半ば強引に仲間になったその魔族と共に、クロムは洞窟へと向かった。洞窟の中は、再生のスキルを持つオーガの巣窟だった。戦いは激しく、彼の仲間は瀕死の状態に陥る。

その時、クロムは冷酷な決断を下した。仲間を犠牲にし、【魔神斬り】のスキルを獲得する。オーガ達は次々と倒れていき、最終的に彼は再生のスキルも手に入れた。

ミスリルを鞄いっぱいに詰め込み、鍛冶屋で新たな武器と防具を作らせる。その後、酒場で更なる情報を集めると、近くに廃墟となった人間の街があることを知った。

その街の神殿で、クロムは祈りを捧げた。人間の血を引く母親の記憶が、彼の中でよみがえる。そこで彼は、新たなスキル【スキル付与】を獲得した。

剣と防具に【再生】のスキルを付与した。

最低限度の生活が出来るまで、クリミアを拠点としよう。

クリミアの近くに毒カエルがいたので倒して【毒】のスキルを手に入れた。

次に私の剣に【毒】のスキルも付与して、敵が傷を負って逃げても毒で死んだら私のスキルで死んだ事になるのでスキルを手に入れるのに都合がよかった。

魔物を倒して、落としてくれる物をクリミアに行って売っていくと次第に顔なじみのお客さんが出来てしまった。

そして、次第に魔法の道具や珍しい素材の取引から、商売の基盤を築き始めた。彼の鋭い交渉力と、魔族特有の洞察力が、徐々に街の商人たちの間で噂されるようになる。

最初の数年は厳しかった。偏見と不信の目に晒されながらも、クロムは決して諦めなかった。彼の商売は、徐々に拡大し、その評判は街中に広がっていった。

そして5年後。

クロムは、クリミア最大の商社の一つを築きあげていた。豪華な屋敷は、彼の成功の象徴であった。

黒曜石通りに面した、豪壮な商館の扉が開く。執事が膨大な数の求婚の書簡がくる。それらは銀や金の封蝋で封じられ、魔族の高貴な家柄の紋章が輝いていた。

クロムは、深い紫壇の大きな机に座り、冷静な目で書簡の山を見つめていた。彼の成功は、単なる商才を超えていた。クリミア最大の商社を築き上げた魔族。その富と影響力は、多くの家柄にとって魅力的な縁故となっていた。

執事が慎重に書簡を並べ始める。「若様、本日も数多くの求婚の書簡が届いております。」

クロムは冷ややかに笑った。「興味深いな」

最初の書簡。紺色の封蠟、武芸の家柄の紋章。クリスという名の娘からだ。武芸に秀でた戦士の血筋。次の書簡は、深紅の封蠟。魔王様と親戚関係のあるダミアンの家柄からのものだった。

「面白い」クロムは独りごちる。「それぞれに価値がある」

彼の目は、書簡を戦略的に分析していく。単なる結婚相手の選択ではない。魔族社会における、より大きな戦略的な駒の配置。政治、商業、権力、全てを計算に入れた冷徹な判断。

魔法の才能で有名なマナの家柄。武芸と魔法の両方に長けたミラの家柄。そして、魔族最大の商社、カミュのミランダ。

クロムは5つの書簡を最終的に選びだした。それぞれの家柄、それぞれの才能。彼は彼女らを招くことを決意する。

「全ては、始まったばかりだ」

魔族の求婚の季節。表面上は伝統的な儀式。しかし、クロムの心の中では、これは彼の壮大な戦略の序章に過ぎなかった。

クロムの商館は、魔族の儀式的な美しさと近代的な洗練さが融合した空間だった。五つの家柄から選ばれた求婚者たちが、それぞれ異なる特徴と緊張感を携えて集められていた。


最初に入って来たのは、クリス。彼女の歩き方は、武芸に磨かれた戦士そのもの。鍛え抜かれた肉体は、動くたびに凛とした美しさを放っていた。彼女の目は、部屋を鋭く見渡し、全てを分析している。

次に入ってきたのは、ダミアンの娘。魔王と親戚関係がある事を感じさせる、優雅で威圧的な存在感。彼女の背後には、権力の影が漂っていた。

マナは魔法の粒子をまとうように入室。彼女の周りには、微かな魔力の波動が揺らめいていた。魔法では敵なしと言われるだけのことはある。

ミラは、武芸と魔法を兼ね備えた稀な存在。彼女の動きは、戦士と魔法使いの境界を曖昧にするほど滑らかだった。

最後にカミュの商社の娘、ミランダ。彼女の目は、商取引の鋭さそのもの。富と交渉の才能が、彼女の全身から滲み出ていた。

クロムは、それぞれが座る席を指示した。部屋の中央には、儀式的な紋章が描かれた円卓。魔族の伝統と、クロムの戦略的な意図が交錯する空間。

「お集まりいただき、ありがとう」クロムの声は、氷のように冷たく、しかし磁力のある響きを持っていた。「私がなぜ、あなたがたを招いたのか。それは単純です」

彼は一瞬、それぞれの求婚者の顔を見回した。

「私の人生における次の戦略を決めるために」

部屋の空気が、緊張で凍り付いた。誰もが、クロムの次の言葉を、命運を左右するかのように待ち構えていた。

五人の求婚者は、それぞれ異なる表情で彼を見つめていた。

ダミアンの娘は、わずかに唇の端を上げた。魔王と親戚関係のある彼女は、すでに権力の味を知っていた。クリスは身体を微かに前傾させ、戦士としての直感を研ぎ澄ませている。マナは魔法の力を抑えきれず、指先にわずかな魔力の光が踊っていた。ミラは両手を膝の上に静かに置き、武芸と魔法の両方で培った冷静さを見せつけていた。ミランダは、商社の娘らしく、冷静に状況を分析する目つきを向けていた。

クロムは円卓の上に、五つの異なる色の紋章の印象を置いた。青、紫、緑、赤、金色。それぞれが求婚者の家柄を象徴している。

「私は、戦略的パートナーを必要としている」

クロムは静かに言った。「単なる結婚相手ではない。」

一瞬の静寂。

突然、部屋の外で激しい爆発音が響いた。魔法の結界が揺らめき、遠くで悲鳴が聞こえる。

クリスは即座に立ち上がり、短剣に手をかけた。ミラは魔法の防御結界を展開し始めている。マナは魔力を集中させ、攻撃の準備を整えた。

クロムは動じない。むしろ、薄く冷ややかに笑みを浮かべていた。

「興味深い」彼は独りごった。「テストの始まりだな」

求婚者たちは、今まさに自分たちの真価を証明しようとしていた。そして、クロムはすでに最終的な選択を心に決めていた。

クロムは彼女達には目もくれず、別の部屋に向かっていた。彼の目的は、幽閉されたサキュバス。その魅惑のスキルを奪うためにクロムの略奪のスキル、それは殺した相手のスキルを奪う特殊な能力。今日、彼は魅惑のスキルを手に入れようとしていた。


数日前の事。

「クロム様、準備が整いました。」

執務室のドアが開き、忠実な副官グラークが報告した。青灰色の肌と鋭い爪を持つ彼は、クロムの右腕として長年使えてきた。

クロムは書類から目を上げ、満足気に頷いた。

「よし。作戦の最終確認だ」

彼は、立ち上がり、中央に設置された大きな魔法地図台へと歩み寄った。地図には「迷いの森」と呼ばれる危険地帯が映し出されていた。

「彼らが追うサキュバス、ミリアは、この森の奥地に棲んでいるという情報だ。

「彼女は数多くの魔族や人間を魅了し、力を奪ってきた。その強力な魅惑のスキルは、目を合わせただけで発動する」

グラークは厳しい表情で頷きながら、「それゆえ、弓隊には目を狙うよう指示しております」と答えた。

「完璧だ」クロムは微笑んだ。その笑みには冷酷さが混じっていた。「一度目を潰せば、魅惑のスキルは使えなくなる。そして待機している部隊が特製の鎖で彼女を拘束する」

執務室の壁に掛けられた鎖が、不気味な青い光を放った。この鎖は魔力を封じる特殊な金属で作られており、サキュバスの能力を完全に無効化できる代物だった。

「さぁ、出発の時間だ」クロムは背を向け、壁に掛けられた黒い鎧を手に取った。

迷いの森は、その名の通り、多くの者が道に迷い二度と戻ってこれない危険な場所だった。常に紫がかった霧が立ち込め、奇怪な形をした木々が空を覆い隠していた。

クロムは通りすぐりの部隊を率いて森の中を進んでいた。彼の背後には、ガーゴイルの翼をもつ弓兵隊と、重装備の戦士達が続いていた。全員が特殊な目隠しを装備しており、サキュバスの魅惑に対する最初の防御線となっていた。

「クロム様、前方に気配があります。」先頭を歩く斥侯が低い声で報告した。

クロムは手を上げ、部隊を止めた。「位置を特定しろ」

斥侯は目を閉じ、鼻を鳴らした。魔族の鋭敏な嗅覚で、彼はサキュバスの甘美な香りを捉えていた。「あの空き地です。木々の間の小さな湖の傍に」

クロムは満足気に頷き、静かに命令を下した。

「弓兵隊、周囲の木に登れ。目を狙え。決して彼女の顔を直接見るな」

弓兵たちは羽ばたき、音もなく周囲の高い木々に散らばっていった。残りの戦士たちも素早く陣形を組み、サキュバスが逃げられないよう森の出口を封鎖した。

クロムは自ら先頭に立ち、何度も再生するミスリルで作られた剣を抜いていた。彼はゆっくりと前進し、空き地の端に到達した。

そこには、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。

小さな湖の水面は、まるで鏡のように周囲を映し出していた。その中央に浮かぶ岩の上に、一人の女性が佇んでいた。長い銀色の髪、完璧な曲線を描く肢体、そして背中から生える小さな翼。紛れもなくサキュバス、ミリアだった。

「今だ」クロムは囁いた。

次の瞬間、空気を切り裂く音と共に、複数の矢が放たれた。ミリアは危険を感じ取り、素早く身をひるがえしたが、一本の矢が彼女の右目を掠った。

「ぎゃああああ!」

悲鳴が森中に響き渡った。ミリアは両手で顔を覆い、激しい痛みに悶えながら湖の水に落ちた。

「行け!」クロムは命じた。

準備していた戦士たちが一斉に湖へと飛び込み、傷ついたサキュバスに襲いかかった。ミリアは必至に抵抗したが、目を負傷し、周囲を取り囲まれては勝ち目はなかった。

戦士たちは苦戦しながらも、ついに彼女の四肢に特殊な鎖を巻きつける事に成功した。鎖が青く光り、ミリアの体から魔力が球速に失われていくのが感じられた。

「やめて。。。お願い。。。」彼女は弱弱しく懇願した。かつての魅惑的な声は、今や恐怖に満ちた嘆願に変わっていた。

クロムはゆっくりと湖の縁まで歩み、捕らえられたサキュバスを見下ろした。彼の瞳には、勝利の喜びと何か別の、もっと暗いものが宿っていた。

「ミリア・ナイトシェイド。お前の噂は聞いていたよ」クロムは冷たく言った。「数百年にわたり、多くの魔族や人間を破滅させてきたな」

「あなたは。。。クロム」ミリアは震える声でいった。「なぜ私を。。。?」

「お前の魅惑のスキルは素晴らしい。私の将来の核心となる」

彼は手を上げ、待機していた戦士たちに合図した。彼らは素早くミリアを担架に乗せ、鎖でしっかりと縛りつけた。

「クリミアへ戻るぞ」クロムは命令した。今夜は祝宴だ。」

彼の部隊は整然と森を後にした。捕らえられたサキュバスを中央に、勝利に満ちた表情で彼らは行進した。

クロムは、サキュバスを捕らえた時の事を思い返していた。

そして、ついにあのサキュバス・ミリアが必要な時が来たと実感した。

彼の目標は、明確だった。ダミアンとの政略結婚に決まっている。しかし、他の四人の才能も利用したい。魅惑のスキルを使い、彼女たち全員を自らの意のままにする。

サキュバスの部屋は、魔力を抑制する特殊な鎖で囲まれていた。鉄格子の向こうで、美しく危険な生き物が座っていた。彼女の瞳は、深い緑色の炎のように燃えていた。

「来たわね。クロム」サキュバスは冷ややかに笑った。「あなたの略奪のスキルを、私は知っている。」

クロムは一歩も引かなかった。「あなたの魅惑の力が欲しい」

爆発の音は、まだ館の中に響いていた。招かれた五人の娘たちは、それぞれの方法で警戒を続けていた。

クリスは、部屋の出入り口を監視していた。彼女の武芸は代々の武家で鍛えられ、戦いの神髄を体現していた。動きは流れるような美しさと、獣のような敏捷さをもっていた。

ダミアンは魔王の血を引く者として、静かに魔力を蓄えていた。彼女の魔力は、抑制された火山のように、いつ噴火してもおかしくない状態だった。

ミラは両手に武器と魔法の力を用意し、どちらにでも対応できる構えだった。彼女の柔軟性では、戦いにおける最大の武器だった。

ミランダは、商家の娘らしい冷静さで状況を分析していた。彼女の目は、全てを計算している。

サキュバスとクロムの対峙は、静かだが凄まじい緊張に満ちていた。

「魅惑のスキルは、簡単に渡さない」サキュバスは囁くように言った。「代償を払うがいい」

クロムはほほ笑んだ。彼の略奪のスキルは、相手を殺すことで力を奪う。今、彼の目は獲物を捉えた獣のように輝いていた。

「代償?」クロムは反問した。「代償など払う必要はない」

瞬間、クロムの右手から漆黒の力が噴出した。

漆黒の力がサキュバスに襲い掛かる。クロムの略奪のスキルは、まるで闇そのものが相手の魂を引き裂くかのような凄まじい威力だった。

サキュバスは悲鳴をあげた。彼女の魅惑の力が、クロムの略奪のスキルによって徐々に吸い取られていく。美しい紫の瞳が、恐怖と怒りに歪んでいく。

「これが、私の力だ」クロムは冷然と言った。

別の部屋では、五人の娘たちが緊張の中にいた。爆発音の正体が何なのか、誰も分かっていない。

クリスが最初に動いた。「おかしい」彼女は剣を握りしめながら言った。「この館全体が、何かに仕掛けられている。」

ダミアンは魔力を集中させ、館全体の魔力の流れを感知しようとした。「クロム様の計画の一部?」彼女は呟いた。

ミラは両手に武器と魔法の力を構えたまま、窓の外を警戒していた。ミランダは冷静に周囲の状況を分析していた。

サキュバスとの戦いは、クロムの完全な勝利に向かっていた。サキュバスの魅惑のスキルは、クロムの略奪のスキルによって、徐々に奪い取られていく。

「最後の力も、私のものになる」クロムは静かに言った。

その瞬間、館全体が震え始めた。。。

館の振動は、まるで生き物の苦悶のようだった。

サキュバスの最後の力が、クロムの略奪のスキルによって消し去られる。彼女の美しい紫の瞳が、灰色に変色していく。

「完了だ」クロムは冷淡に呟いた。

別の部屋では、五人の娘たちが緊迫の中にいた。

クリスが最初に気づいた。「魔力の連鎖反応だ!」彼女は叫んだ。「誰かが、この館全体を魔法陣として使っている!」

ダミアンは魔王の血を引く者として、魔力の異変を鋭く感知していた。「これは、クロム様の計画の一部だ」

クロムは、サキュバスから奪った魅惑のスキルを手に、ゆっくりと部屋を出た。彼の目的は、五人の娘たちを完全に自分の意のままにすることだった。

魅惑のスキルは、相手の心を操る恐ろしい力。クロムは、この力を使って五人の才能を自分の物にしようとしていた。

館の振動が、更に激しくなる。。。

大広間に戻ったクロムの目は、すでに計算し尽くされていた。

ダミアンとの結婚は最初から決まっていた。魔王と親戚の関係を持つ彼女は、政治的にも戦略的にも最高の選択しだった。しかし、他の四人も簡単に手放せない。

魅惑のスキルを駆使し、彼女らを思い通りに操る。それが、クロムの真の目的だった。

「ミランダ」クロムは、商社の女性に向かって言った。「事業の拡大を任せる」「クリス、ミラ、マナ」彼は続けた。「私の力を鍛えて欲しい」

ダミアンと二人きりになったとき、彼は計画を明かした。

「魔王の側近と関係を築く。そして私自身が更に強くなる」

ダミアンは微笑んだ。二人の目には、同じ野望が輝いていた。

魅惑のスキルは、まるで見えない糸のように5人を操っていく。それぞれが自分の意思で動いていると信じながら、実際は完全にクロムの意のままだった。

クリスは武の指南を、マナは魔法の奥義を、ミラは両方の技を教える。ミランダは事業を拡大し、クロムの富と影響力を増幅させていく。

ダミアンは、魔王の側近との交渉を任され、二人の関係を深めていった。

クロムの野望は、単なる結婚相手を選ぶことではない。権力、知識、力を集積する。サキュバスから奪った魅惑のスキルは、その野望を実現する為の鍵となる。

ダミアンのおかげで、魔王からも一目置かれ魔族発展の為に軍団長の任を任せられる。

クロムは、自分の直属の配下にクリスやマナ、ミラを置いた。

魔族と人間の争いは、まだ続いている。

クロムは、変身のスキルが欲しくなった。変身のスキルは、伝説の魔物である妖狐が持っている。そして、妖狐のすみかは、知っていた。

クロムは、クリスやマナ、ミラに命じて一緒に妖狐を退治しに行く事にした。

古びた神殿の中央広間に立つ九尾の妖狐は、その姿を変えた。かつて美しい女性の姿をしていた妖狐は今や巨大な白銀の狐へと変貌し、九本の尾が空気を切り裂いていた。その瞳は血のように赤く、千年の時を生きた魔物の威厳を放っていた。

「我が真の姿を見るのは千年ぶりだ。誇りに思うがいい、魔族どもよ」

クロムは黒い魔力を纏った拳を握りしめ、自らの部下たちに視線を送った。

「皆、作戦通りに」クロムの声は低く、しかし確かな意思を持っていた。

武芸の達人クリスが最初に動いた。彼女の双剣が空気を切り裂き、閃光のような速さで妖狐に迫る。妖狐の尾が防御の壁となって立ちはだかるが、クリスの建議はその隙間を纏うように進み、白銀の毛皮に傷をつけた。

「なかなかやるな、小娘」妖狐は笑みを浮かべたが、その表情に一瞬の苦痛が走った。

次に魔法の天才マナが詠唱を始めた。彼女の周りには無数の光の粒子が集まり、神秘的な輝きを放つ魔法陣が形成される。

「『氷の氷結』!」

マナの詠唱が完了すると同時に、神殿の床から巨大な氷柱が突き上げ、妖狐の動きを制限した。しかし、伝説の魔物はその力で氷を砕き、解放される。

「凍らせるには、百年早いわ」

妖狐は尾を振るい、衝撃波を放った。その一撃でマナは吹き飛ばされそうになったが、ミラがその身を庇って受け止める。

武芸と魔法の両方に秀でたミラは片手で魔法の盾を展開し、もう片方の手には輝く短剣を握っていた。

「私たちの連携を甘く見ないで」

ミラは短剣を地面に突き刺し、「『大地の束縛』」と唱えた。刹那、妖狐の足元から無数の魔力の鎖が現れ、その動きを束縛する。クリスがその隙に再び接近し、妖狐の脇腹に深手を負わせた。

妖狐は怒りの咆哮を上げ、その姿を再び変える。今度は巨大な火の鳥となり、神殿の天井まで舞い上がった。

「この姿では触れる事すらできまい!」

炎の翼から降り注ぐ火の雨が三人を襲う。クリスとミラは回避に専念し、マナは氷の魔法で炎を相殺しようとするが、妖狐の炎は通常の火より遥かに強力だった。

クロムは静かに前に出た。彼の全身から黒い霧のような魔力が立ち昇る。

「お前は変身のスキルで千の姿を持つという。だが、その全ては幻にすぎない」

クロムの声には奇妙な響きがあった。まるで別の存在が彼の中から語りかけているかのようだ。

ダミアンから教えてもらった魔王の一族に伝わるスキル。

「真実視の魔眼」

クロムの瞳が紫色に輝き始める。炎の鳥となった妖狐の姿が揺らぎ、その本質が露わになる。

「お前の本当の姿が見えた。。。!」

クロムは両手に剣を突き出し、黒と紫の魔力を凝縮させる。それは、球体となり、次第に大きくなっていく。

「『虚空喰らい』」

放たれた魔力の球体は、まるで意思を持つかのように妖狐を追尾し、その胸部に命中した。妖狐は悲鳴を上げ、炎の姿から元の姿へと強制的に戻される。

チャンスとばかりに、クリス、マナ、ミラの三人が同時に攻撃を仕掛ける。クリスの剣が妖狐の右脚を深く切り裂き、マナの氷の槍が左肩を貫き、ミラの魔法と剣技の複合攻撃が胸部に大きな傷をつけた。

妖狐は膝をつき、血を吐きながらもなお諦めない表情で最後の変身を試みる。

しかし、クロムの魔眼の効果はまだ続いていた。

「終わりだ」それは漆黒でありながら、エメラルドのような輝きを内側に秘めていた。

「千年.。。久しく、強き敵と相見えること叶わざりき。。。」妖狐の声はかすれていた。

「汝の名を。。。教えよ。。。」

「クロム。新たな時代を築く者だ。」


妖狐は満足げな微笑みを浮かべた。

妖狐の体から立ち上がる煙が、ゆっくりとクロムの方へ漂っていった。煙は彼の体を包み込み、やがて肌の中へと浸透していった。クロムは身体の中に新たな力が宿るのを感じた。

「これが。。。変身のスキルか」

クロムは自分の両手を見つめた。見た目はかわらないが、確かに以前とは異なる魔力が体内を巡っているのを感じる。

「クロム様、ご無事ですか?」

マナが心配そうに近づいてきた。彼女の額から汗が流れ落ち、青い魔法のローブには裂け目ができていた。長時間の戦闘で彼女もかなり疲労していた。

「大丈夫だ、マナ。むしろ。。。」クロムは自分の体の中に流れる新たな力を意識した。「前よりもずっと良い」

ミラは倒れた妖狐の周りを慎重に歩き回り、警戒をとかない。彼女の双剣はまだ抜き身のまま、魔法の力を放っていた。

「完全に倒したのは確認できました。クロム様が変身のスキルを得られたのなら、この任務は成功です。」

クリスは少し離れた場所で、傷ついた腕を包帯で巻いていた。彼女は無口だが、そのまなざしにはクロムへの尊敬の念が宿っていた。

「帰りましょう。ダミアン様がお待ちです。」とミラが言った。

クロムは頷いた。ダミアン 魔王の親戚であり、今は彼女の夫。きっと彼らの帰りを心配して待っているだろう。


「変身のスキルを手に入れたと?」

ダミアンの声には驚きと喜びが混ざっていた。

彼女は美しい黒髪を後ろに流しながら、クロムの顔をじっと見つめた。

「そうだ。まだ完全には使いこなせてはいないが」クロムは答えた。

「それは素晴らしい!」ダミアンは立ち上がり、クロムに近づいた。「変身のスキルは非常に希少だ。伝説級の妖狐を倒したのも驚くべきことだが、そのスキルを継承できたというのは更に驚くべきことだよ」

「クロム様の才能は計り知れませんね」マナが言った。「変身のスキルを習得するには、通常は厳しい修行と才能が必要とされます。」

「修行は必要だろう」クロムは言った。「このスキルを完全に使いこなせるようになるまでは」

「それなら私たちが手伝います。」ミラが前に出た。「私は変身魔法についての知識があります。完全ではありませんが、基礎的なことは教えできるでしょう。」

クリスも黙って頷いた。彼女は言葉少ないが、その意思表示は明確だった。

「ありがとう、みんな」クロムは感謝の気持ちを込めて言った。

ダミアンは微笑んだ。「さて、これを祝わなければならないな。今夜は宴会を開こう」

翌日から、クロムの変身スキル習得の為の特訓が始まった。

朝はクリスと武芸の稽古。昼はマナと魔法の修行。夕方はミラと総合的な戦闘訓練。そして夜はダミアンとの時間 彼女は魔王の親戚として持つ知識で、クロムの変身スキルについての理論的な部分をサポートした。

「変身とは単なる外見の変化ではない。」ダミアンは説明した。「本質的な変化だ。変身する対象の特性を理解し、自分の中に取り込まなければならない」

訓練場には様々な生物の絵や模型が書かれていた。クロムはそれらを一つ一つ観察し、その特性を理解しようとした。

「まずは簡単なものから」マナが言った。「例えば、鳥への変身を試みましょう。」

クロムは目を閉じ、鳥の姿を思い浮かべた。翼、くちばし、軽い骨格、風を切る感覚。。。しかし、何も起こらなかった。

「焦らないで」ミラがアドバイスした。「変身のスキルは意識と体の一致が重要です。まずは部分的な変化から始めましょう。」

クロムは再び目を閉じ、今度は自分の腕が翼に代わる事だけを集中して想像した。

「っ!」

突然の痛みとともに、クロムの右腕が光に包まれた。その光が消えると、そこには翼のような何かが生えていた 完全な翼ではなく、腕と翼の中間のような奇妙な形だったが。

「素晴らしい!」マナが拍手した。「初めての試みにしては上出来です!」

クリスも珍しく笑顔を見せた。

「部分変身ができれば、全身変身も時間の問題だ」ダミアンが満足気に言った。

クロムは翼のような腕を見つめた。まだ使いこなせるものではなかったが、確かに変身の第一歩を踏み出したのだ。

修行は数週間続いた。クロムは日に日に変身の技術を向上させていった。最初は部分的な変身だけだったが、やがて小動物への完全変身が出来るようになり、そして徐々に大きな生物への変身も可能になっていった。

「驚くべき上達速度です」ミラが感心した。

「通常、変身のスキルをここまで使いこなせるようになるには何年もかかるというのに」

クロムは謙虚に頷いた。「みんなの指導のおかげだ。」

しかし、彼女らは知らなかった。クロムが夜、一人で追加の修行をしている事を。彼は、自分の魔族としての潜在能力を最大限に引き出そうとしていた。

ある深夜、屋敷の裏にある秘密の訓練場で、クロムは集中していた。彼の体から紫の光が放たれ、その姿がゆっくり変化していく。

「ぐっ。。。。!」

痛みと共に、彼の体はクリスに変身をしていた。次はマナだ。そして、ミラ、ミランダと変身をしていった。

「ふぅ、これで私に結婚を申し込んだ部下たちへの変身は出来るようになったな。」

最後にこの変身が出来るようになっておこう。

痛みと共に、彼の体は膨張し、鱗に覆われていった。翼が背中から生え、尻尾が伸び、そして顔が変形していく。

数分後、そこには一匹の若いドラゴンが立っていた。

「できた。。。。」

クロムはドラゴンの姿で低く唸った。彼はこの姿を維持するのに多大な魔力を消費していることを感じたが、確かに変身は成功していた。

「ドラゴンへの変身を極めたか」

声に驚いたクロムは振り向いた。そこには、ダミアンが立っていた。彼女の表情は読み取れなかった。

「ダミアン。。。。」クロムは元の姿に戻りながら言った。「見ていたのか」

「最近、夜に魔力の波動を感じていたんだ」ダミアンは近づいてきた。「まさか、こんな修行をしていたとは」

「秘密にしていてすまない」クロムは謝った。

「皆を驚かせたかったんだ」

ダミアンは笑った。「驚いたよ、本当に。」


「クロム様、お待たせしました」

声の主は、クロムの夫人であるダミアンだった。

「ダミアン、来てくれたか」クロムは振り返り、微笑んだ。「他の者たちは?」

「全員揃っております」ダミアンは優雅に答えた。「応接室でお待ちしています」

クロムは満足げに頷いた。彼の成功は単なる幸運ではなかった。それは彼の持つ特殊なスキル「略奪」による、計画的で冷酷な野心の結実だった。敵を倒し、その能力を我が物とする。それが彼の力の源泉であり、財を成した秘訣でもあった。

応接室には四人の女性が待っていた。

まず目に入ったのは、クリスだった。彼女は妻ではなかったが、クロムの言葉に絶対的に従う存在だった。短く切りそろえた赤髪と鍛え抜かれた肉体を持つ彼女は、この地方で最も恐れられる剣の使い手だった。クロムの「魅惑」のスキルによって忠誠を誓わされているとはいえ、彼女自身はそれを認識していなかった。彼女にとって、クロムへの忠誠は自らの意志による選択だと信じていた。

次に青い長い髪を持つマナがいた。彼女は魔法の達人であり、五大元素を自在に操る能力を持っていた。知的で冷静、常に本を携え、新しい魔法の研究に余念がなかった。

そして、黒と金の装いをしたミラ。魔法と武芸の両方に通じた彼女は、小柄ながらも戦場では最も恐れられる存在の一人だった。彼女の二刀流の戦闘スタイルと迅速な魔法詠唱の組み合わせは、多くの敵を倒してきた。

最後に、商才に長けたミランダがいた。クロムの事業帝国の実質的な管理者である彼女は、ビジネスの才覚で知られていた。彼女のおかげで、クロムの資産は日々増大していった。

「皆、集まってくれてありがとう」クロムは部屋に入るとそう言った。「今日の話し合いは重要だ」

「何かあったのですか?」マナが静かに尋ねた。

クロムは窓の外を見た。「情報によると、人間の国から勇者パーティがこの地方に向かっているらしい」

部屋が静まり返った。人間と魔族の関係は常に緊張状態にあったが、最近は特に悪化していた。魔族の街であるクリミアは、人間の領土と魔族の領土の境界に位置し、常に緊張の中にあった。

「対処法はありますか?」ミランダが実務的に尋ねた。

「ああ」クロムは冷たく微笑んだ。「彼らが来るのなら、歓迎してやろう。そして、私の力を増強するための良い機会だ」

それは「略奪」のスキルを使用する機会を意味していた。誰も声に出して言わなかったが、皆理解していた。

クリミアの街は、魔族の住む町としては珍しく活気に満ちていた。それはクロムの経済政策によるものだった。彼は魔族だけでなく、人間や半魔、さらには他の種族も受け入れる開放的な政策をとっていた。

しかし、この日は街に緊張が走っていた。クロムの情報網が捉えた噂によると、人間の国の勇者パーティがクリミアに向かっているという。その目的は不明だったが、善意の訪問でないことは明らかだった。

クロムの屋敷の戦略室では、緊急会議が開かれていた。

「勇者パーティは五人構成です」ミラが地図の上に小さな駒を置きながら説明した。「剣士のレイ、聖職者のセラ、魔法使いのガルス、盗賊のリン、そして弓使いのエドワードです」

「彼らの能力は?」クロムが尋ねた。

「レイは聖剣を持ち、魔族に対して特に強力な力を持ちます」クリスが答えた。彼女は戦士として、敵の戦力を分析することに長けていた。「セラは回復と光の魔法を使い、ガルスは主に攻撃魔法に特化しています。リンは情報収集と罠の設置が得意で、エドワードは遠距離攻撃のスペシャリストです」

クロムは思慮深く頷いた。「彼らの目的は?」

「不明です」マナが答えた。「しかし、最近この地域で失踪している人間の調査に来た可能性があります」

クロムは冷笑した。確かに、彼の命令で一部の人間が拉致されていたが、それは彼の実験のためだった。彼は肩をすくめた。「何であれ、彼らが私たちの邪魔をするなら、排除するまでだ」

「戦闘になれば、街の被害も出るでしょう」ダミアンが懸念を示した。

「それも計算済みだ」クロムは答えた。「ミランダ、避難計画は?」

「すでに準備しています」ミランダは手元の書類を示した。「市民は地下シェルターに避難できます。また、緊急時の資金も確保してあります」

「良し」クロムは満足げに言った。「では、作戦を立てよう。彼らが来るのは明日の夜だ。私たちは驚きを持って迎えてやる」

計画は綿密に立てられた。クロムは、この戦いを単なる防衛ではなく、新たなスキルを獲得する機会と見ていた。特に聖剣を持つレイのスキルは魅力的だった。

夜が更けていくにつれ、クリミアの街は不穏な静けさに包まれていった。

翌日、クリミアの街は普段通りの営みを続けていたが、空気は緊張に満ちていた。クロムの屋敷では、戦いの準備が着々と進められていた。

「北と東の入口に監視を強化しました」クリスが報告した。彼女は既に戦闘服に身を包み、二本の短剣を腰に差していた。「市民の避難経路も確保しています」

クロムは頷いた。「マナ、魔法の防壁は?」

「設置完了です」マナは青い髪を後ろに流しながら答えた。「侵入者を感知するとすぐに警報が鳴るようにしています」

「ミラ、お前は?」

ミラは静かに微笑んだ。「屋敷周囲に罠を仕掛けました。不用意に近づけば、すぐに気付くでしょう」

クロムは満足げに頷いた。彼らの準備は完璧だった。だが彼は知っていた。勇者と呼ばれる者たちは並の戦士ではない。予想外の事態も覚悟しておく必要があった。

「そして私は資産の保全と、最悪の場合の撤退計画を準備しました」ミランダが言った。彼女は戦闘には参加しない予定だったが、その裏方の仕事は不可欠だった。

「よくやった」クロムは彼女の肩に手を置いた。「ダミアン、お前は?」

「魔王家の護符を用意しました」ダミアンは黒い箱を開け、中から赤く輝く宝石を取り出した。「これを使えば、大きな魔力を一時的に増幅させることができます」

クロムは宝石を手に取り、その輝きを観察した。「これは役に立つだろう。ありがとう」

日が暮れ始め、クリミアの街灯が一つずつ灯されていった。クロムは再び屋敷のバルコニーから街を見下ろした。彼の鋭い目は、既に街の外れに忍び寄る影を捉えていた。

「来たようだな」クロムは静かに呟いた。

彼の背後では、四人の女性がそれぞれの持ち場に就いていた。ダミアンは魔法陣を準備し、マナは魔法書を開いていた。クリスは剣の最終確認を行い、ミラは呪文と武器の両方を準備していた。

「皆、聞け」クロムは振り返り、彼らに向かって言った。「今夜の戦いは単なる防衛ではない。我々の力を示す機会だ。敵を倒し、私はその力を奪う。それが我々の生き方だ」

四人は頷いた。クロムの野心は彼らにとっても利益をもたらしてきた。彼の下で、彼らはそれぞれの才能を最大限に発揮し、富と力を手に入れることができた。

「彼らは何人で来ると思いますか?」マナが尋ねた。

「情報では五人だが、伏兵がいる可能性もある」クロムは答えた。「用心に越したことはない」

「私が最初に迎え撃ちましょう」クリスが申し出た。「彼らの戦力を試すために」

クロムは同意した。「良し。だが無理はするな。彼らの力を見極めたら、すぐに下がれ」

突然、マナの設置した魔法の警報が鳴り響いた。「北門から侵入者です!」

「始まったな」クロムは冷酷な笑みを浮かべた。「全員、持ち場へ」

クリミアの北門付近で、五人の人影が静かに動いていた。彼らは勇者パーティと呼ばれる者たちだった。

「ここが魔族クロムの支配する街か」先頭を行く若い男性、レイが呟いた。彼は腰に聖なる光を放つ剣を差していた。「情報通り、かなり繁栄しているな」

「人間も住んでいるみたいね」金髪の女性セラが言った。彼女は聖職者の白い服を着ていたが、今は目立たないように灰色のマントで覆っていた。「本当に襲撃していいの?」

「命令は明確だ」年配の男性ガルスが低い声で答えた。彼は魔法使いであり、その眼鏡の奥の鋭い目は街を分析していた。「クロムは人間を拉致し、実験に使っているという情報がある。確認し、事実なら排除する」

「でも民間人も多いわ」小柄な女性リンが懸念を示した。「無差別に攻撃するわけにはいかないでしょう」

「もちろんだ」弓を背負った男性エドワードが頷いた。「ターゲットはクロムとその側近だけだ」

彼らは街の影に紛れながら進んでいった。しかし、彼らは既に監視されていることに気づいていなかった。

クロムの屋敷では、マナの設置した魔法の監視システムが彼らの動きを正確に捉えていた。

「彼らは北門から市場を通り、中央広場に向かっています」マナが魔法の映像を見ながら報告した。

「予想通りだな」クロムは頷いた。「市場には人が少ない。そこで最初の接触を図るつもりだろう」

「私が行きます」クリスが言った。彼女は既に戦闘の準備を整えていた。

「気をつけろ」クロムは彼女の肩に手を置いた。「彼らの力を見極めるのが目的だ。無理はするな」

クリスは頷き、屋敷を出て行った。

市場に近づいた勇者パーティは、周囲の静けさに違和感を覚えていた。

「妙だな」レイが眉をひそめた。「こんな時間でも、もう少し人がいてもおかしくないはずだ」

「罠かもしれない」リンが警戒して言った。「私が先に偵察します」

彼女が一歩踏み出した瞬間、風を切る音が聞こえ、彼女の目の前に刃が突き刺さった。

「ここから先には進ませない」冷たい声が闇から響いた。

クリスが姿を現した。彼女の手には既に抜かれた二本の短剣があり、月明かりを反射して冷たく光っていた。

「魔族の手先か」レイが聖剣を抜いた。その剣は青白い光を放ち、周囲を照らした。

「私はクロム様に仕えるクリス」彼女は冷静に名乗った。「お前たちの目的は何だ?」

「それを言う必要はない」ガルスが前に出て、呪文を唱え始めた。「炎の矢よ、敵を貫け!」

複数の炎の矢がクリスに向かって飛んだ。しかし彼女は驚くべき速さで身をかわし、同時に反撃に出た。彼女の動きは目にも止まらぬ速さで、あっという間にガルスの懐に飛び込んでいた。

「速い!」ガルスは驚いたが、セラが素早く防御の魔法を唱え、クリスの攻撃を防いだ。

「聖なる盾よ!」

クリスの刃は透明な障壁に阻まれた。彼女は即座に後退し、状況を分析した。

「なかなかやるな」クリスは認めた。「だが、これからが本番だ」

彼女は再び動き出した。今度はエドワードを狙い、彼が弓を構える前に近づこうとした。しかしレイが聖剣で彼女の進路を塞いだ。

「お前の相手は俺だ」

二人の剣と刃がぶつかり合い、火花が散った。クリスの技術は確かだったが、レイの聖剣の力は魔族に対して特に効果的で、彼女は次第に押され始めた。

「クソッ」クリスは歯を食いしばった。「聖剣か…厄介だな」

彼女は一度大きく距離をとった。この戦いの目的は敵の力を見極めることであり、無理に勝利を追求する必要はなかった。彼女は既に彼らの戦闘スタイルをある程度把握していた。

「逃げるのか?」レイが挑発した。

「逃げではない。戦略的撤退だ」クリスは冷静に答えた。「お前たちの実力は確かだ。だが、これからが本当の戦いだ」

彼女は煙玉を投げ、その隙に姿を消した。

「追いましょう!」セラが言ったが、レイは頭を振った。

「罠かもしれない。慎重に進もう」

勇者パーティはさらに警戒を強めながら、クロムの屋敷に向かって進んでいった。

クリスが戻ってくると、クロムは既に彼女の報告を待っていた。

「彼らの力は?」

「侮れません」クリスは率直に答えた。「特に聖剣の力は私たち魔族にとって脅威です。また、彼らのチームワークも完璧です」

クロムは思慮深く頷いた。「よくわかった。次は私たちも本気で行くとしよう」

彼は四人に向かって指示を出した。「マナ、お前は魔法による遠距離攻撃を担当しろ。特に彼らの聖職者を狙え。ミラ、お前は盗賊と弓使いを牽制しろ。ダミアン、お前は私と共に後方支援だ。そしてクリス、お前は私と共に剣士に対処する」

全員が頷き、それぞれの持ち場に向かった。

勇者パーティはクロムの屋敷に向かう途中、いくつかの罠に遭遇したが、リンの技術でそれらを回避または無効化することができた。しかし、彼らは次第に消耗していくのを感じていた。

「彼らは私たちを消耗させようとしている」ガルスが分析した。「本当の戦いはこれからだ」

「でも、もう引き返せないわ」セラは決意を固めた。「人質になっている人たちを救わなければ」

彼らが屋敷の正門に到着すると、そこにはクロム自身が四人の女性と共に待っていた。

「ようこそ、勇者たちよ」クロムは冷たく微笑んだ。「私の城に来るとは、命知らずだな」

「クロム!」レイは剣を構えた。「お前が人間を拉致し、実験に使っているという情報を得た。それは本当か?」

クロムは肩をすくめた。「研究には犠牲が必要だ。彼らの命は私の知識のために捧げられた。高貴な死だと思わないか?」

「許せない!」セラが叫んだ。「人の命を弄ぶなんて!」

「人間とは面白い生き物だ」クロムは冷笑した。「自分たちは動物を実験に使うくせに、自分たちが使われると怒る」

「黙れ、魔族!」レイが前に出た。「お前を倒し、囚われた人々を解放する!」

「やれるものならやってみろ」クロムは静かに言った。そして彼の横に立つ四人の女性たちに向かって命じた。「始めろ」

戦いは一瞬にして激化した。

マナが最初に動き、強力な雷の魔法を放った。「稲妻よ、我が敵を貫け!」

ガルスが即座に対抗魔法を唱えたが、マナの魔法の威力は彼の予想を上回り、彼は衝撃を受けて後ろに吹き飛ばされた。

「ガルス!」セラが彼に駆け寄り、回復魔法を唱え始めた。

しかしその隙に、ミラが高速で動き、セラを狙った。彼女は剣と魔法を同時に使い、セラの防御を破ろうとした。

「光の盾よ!」セラは防御の魔法を使ったが、ミラの攻撃の一部を受け、肩に傷を負った。

一方、エドワードとリンはダミアンと対峙していた。ダミアンは直接戦闘には参加せず、後方から黒い魔法を操り、二人の動きを妨げていた。

「彼女の魔法は普通じゃない」リンが警戒した。「魔王の血を引いているという噂は本当みたいね」

最も激しい戦いは、クロムとクリスの二人がレイと対峙している中央で繰り広げられていた。

レイの聖剣は強力だったが、クロムとクリスの連携は完璧だった。クリスが前に出てレイの攻撃を受け止め、クロムが隙を見て強力な魔法攻撃を仕掛けるというパターンを繰り返した。

「くそっ」レイは歯を食いしばった。「二人相手は厳しいな」

戦いは膠着状態に陥った。勇者パーティは個々の能力は高かったが、クロムたちの連携と地の利の前に苦戦していた。

「このままでは不利だ」ガルスが回復しながら分析した。「撤退も考えるべきだ」

「だが、囚われた人々は?」セラが懸念を示した。

「まずは生き延びることだ」エドワードが弓で牽制しながら言った。「別の方法を考えよう」

しかし、撤退の機会を得る前に、クロムが行動を起こした。彼は突然、手に持っていた赤い宝石を掲げた。それはダミアンが準備した魔王家の護符だった。

「これで終わりだ、勇者たちよ」

宝石が強烈な赤い光を放ち、クロムの力が一気に増幅された。彼は両手を広げ、巨大な闇の魔法陣を展開した。

「闇よ、我が敵を飲み込め!」

巨大な黒い渦が勇者パーティを包み込もうとした。

「全員、私の後ろに!」セラが叫び、最大の防御魔法を唱えた。「神聖なる光の障壁よ、我らを守りたまえ!」

金色の光の壁が形成され、クロムの闇の魔法と衝突した。二つの力がぶつかり合い、強烈な衝撃波が周囲に広がった。セラの防御魔法は強力だったが、クロムの魔法の前に徐々に押されていた。

「もう長くは持たないわ!」セラが額に汗を浮かべながら言った。

「ならば、最後の手段だ」レイは決意を固め、聖剣を高く掲げた。「聖なる剣よ、最後の力を!」

聖剣が眩い光を放ち、クロムの闇の魔法を打ち破った。衝撃波は彼らを吹き飛ばし、一時的に戦闘は中断した。

クロムは傷を負いながらも立ち上がった。「なかなかやるな、勇者よ」

レイも立ち上がったが、聖剣の最後の力を使ったことで疲労していた。「まだ…終わっていない…」

「本当にそうか?」クロムは不敵に笑った。「お前たちはもう限界だ。それに比べて、私たちはまだ余力がある」

確かに、クロムの言葉は真実だった。マナ、ミラ、クリス、ダミアンはまだ戦える状態だったが、勇者パーティは全員が傷を負い、魔力も消耗していた。

「撤退するぞ」レイは仲間たちに小声で言った。「今は戦う時ではない」

しかし、クロムはそれを許すつもりはなかった。彼は隠し持っていた能力、「魅惑」のスキルを使う時が来たと判断した。

「レイ、お前と話がしたい」クロムは前に進み出た。「無駄な戦いはやめよう」

「何を言う?」レイは警戒したが、クロムの目を見た瞬間、彼の意識に異変が起きた。

クロムの瞳が紫色に輝き、レイの意識を捉えた。「魅惑」のスキルが発動したのだ。

「レイ?」セラが心配そうに呼びかけた。

レイはしばらく動かなかったが、やがて振り返った。「大丈夫だ」

しかし、彼の目には既に魅惑の効果が現れていた。彼はクロムの支配下に置かれていたのだ。

「私たちは誤解していたようだ」レイは仲間たちに言った。「クロムは人間を実験に使ってはいない。それは噂に過ぎなかった」

「何を言っているの?」リンが混乱した。「私たちが得た情報は確かよ」

「情報源は信頼できなかったんだ」レイは冷静に言った。「私がクロムと直接話してみたら、彼は人間と魔族の共存を目指しているだけだと分かった」

ガルスは疑わしげにレイを見つめた。彼は何かがおかしいと感じていた。しかし、レイは彼らの中で最も信頼されるリーダーだった。彼の言葉を疑う理由はなかった。

「…本当なの?」セラが尋ねた。

「ああ」レイは頷いた。「それに、私たちはもう限界だ。今は撤退しよう」

クロムは満足げに微笑んだ。彼の計画は完璧に進んでいた。レイを操ることで、勇者パーティ全体を間接的に支配できるようになった。


勇者パーティの撤退から一週間が過ぎた。クリミアの街は平穏を取り戻したように見えたが、クロムの屋敷では新たな計画が進行していた。

「レイとの連絡はどうなっている?」クロムは書斎でダミアンに尋ねた。

「予定通りです」ダミアンは優雅に頷いた。「彼は三日ごとに、人目につかない場所で私たちの使者と会っています。人間の国からの情報も定期的に届いています」

クロムは満足げに微笑んだ。「魅惑」のスキルで勇者パーティのリーダー、レイを支配下に置いたことは大きな成果だった。しかし、彼の野心はそこで止まるものではなかった。

「次の標的は決めたか?」クリスが部屋に入りながら尋ねた。

「ああ」クロムは窓際に立ち、遠くを見つめた。「聖職者のセラだ。彼女は回復の魔法に長けている。彼女を支配下に置けば、私の力はさらに増大する」

クリスは頷いた。「彼女をここに呼び寄せるのですか?」

「いや、それは怪しまれる」クロムは首を振った。「私が直接会いに行く。レイを通じて、セラを人里離れた場所に呼び出させる」

「危険ではないですか?」マナが心配そうに言った。彼女も部屋に入ってきていた。

「心配するな」クロムは自信満々に答えた。「レイが彼女を一人で来させる。彼女は仲間を信頼している。特にリーダーであるレイをな」

計画は細部まで練られた。レイは仲間たちに、クロムから得た「重要な情報」があると伝え、それぞれを別々の場所に呼び出すことにした。最初の標的はセラ。彼女の回復の魔法は、クロムにとって非常に魅力的な能力だった。

三日後、人間の国との境界近くの森で、セラは一人で待っていた。彼女はレイからの伝言通り、誰にも行き先を告げずにここに来ていた。

「レイ、遅いわね…」彼女は不安そうに周囲を見回した。

「彼は来ない」背後から冷たい声がした。

セラが振り返ると、そこにはクロムが立っていた。彼の紫紺の肌は夕暮れの光の中で一層鮮やかに見えた。

「クロム!」セラは即座に防御の姿勢をとった。「なぜあなたが…レイは?」

「レイはもう私の手の内だ」クロムは冷静に言った。「そして、次はお前の番だ」

セラは光の魔法を唱えようとしたが、突然レイが木々の間から現れた。「セラ、待て」

「レイ!」セラは安堵の表情を見せた。「何が起きているの?」

「クロムの話を聞いてほしい」レイは静かに言った。「彼は本当は私たちが思っているような悪ではないんだ」

セラは困惑した。「どういうこと?」

その瞬間、レイは彼女の目をまっすぐ見つめ、「彼の話を聞くだけでいい」と言った。

セラは親しい仲間の言葉を信じ、警戒を解いた。それが彼女の運命を決める瞬間だった。

クロムはその隙をついて前に進み、彼女の目を覗き込んだ。彼の瞳が紫に輝き、「魅惑」のスキルが発動した。

「私の話をよく聞け、セラ」クロムの声は柔らかく、しかし抗いがたい力を持っていた。

セラの瞳が一瞬曇り、そして再び焦点を結んだ時、彼女はもうクロムの操り人形と化していた。

「あなたの言うことを聞きます、クロム様」彼女は静かに言った。

クロムは満足げに微笑んだ。「良い子だ。さて、お前とレイには特別な使命がある。他の仲間たちも、私のもとに導くのだ」

次の標的は魔法使いのガルスだった。年配で経験豊富な彼は、勇者パーティの知恵袋的存在だった。彼を支配下に置くことで、クロムは魔法の知識をさらに深めることができると考えていた。

レイとセラは共謀して、ガルスを古い魔法の遺跡に呼び出した。理由は「古代の魔法に関する重要な発見があった」というものだった。

知識欲の強いガルスは、単独でその遺跡を訪れた。そこで彼を待っていたのは、レイとセラ、そして影に隠れたクロムだった。

「どうしたんだ?二人とも」ガルスは二人の様子に違和感を覚えていた。「発見とは何だ?」

「それは…」レイが言いかけたところで、クロムが姿を現した。

「それは、お前自身が発見の一部となるということだ」

ガルスは即座に防御の姿勢をとったが、レイとセラが彼の両腕を掴んだ。

「何をする!二人とも!」ガルスは混乱して叫んだ。

「抵抗しても無駄だ」クロムは冷静に言った。「彼らはもう私のものだ。そして、お前も同じになる」

ガルスは必死に抵抗したが、レイとセラの力に抗うことはできなかった。クロムが彼の目の前に立ち、「魅惑」のスキルを使った。

「私の話をよく聞け、ガルス」

抵抗する間もなく、ガルスの意志はクロムに征服された。彼の経験と知識は、今やクロムの資産となった。

残る勇者パーティのメンバーは、盗賊のリンと弓使いのエドワードだった。二人は既に仲間たちの様子がおかしいことに気づき始めていた。

「レイたちが最近変だと思わない?」リンはエドワードに相談した。彼らは人間の国の宿で密かに会っていた。

「ああ」エドワードは頷いた。「特にクリミアから戻ってきてからだ。まるで別人のようだ」

「クロムに何かをされたのかもしれない」リンは懸念を示した。「私たちも気をつけないと」

彼らの警戒は正しかったが、既に手遅れだった。ドアが開き、レイ、セラ、ガルスの三人が入ってきた。

「何を二人だけでコソコソしている?」レイが尋ねた。彼の声は冷たく、いつもの温かさがなかった。

「ちょっとした作戦会議だよ」リンは平静を装った。「何か問題ある?」

「いいや」レイは微笑んだが、その笑みには何か不気味なものがあった。「実は私たちも作戦を考えていたところだ。クロムの件でな」

「クロム?」エドワードは驚いた。「まだ彼を追っているのか?前回の敗北で諦めたと思っていた」

「敗北ではない」ガルスが言った。「我々は誤解していただけだ。クロムは実は協力者になり得る存在だ」

リンとエドワードは困惑した表情を交換した。これは彼らの知るガルスの言動ではなかった。

「何を言ってるの?」リンは警戒して言った。「彼は人間を実験台にしていたのよ?」

「それは誤解だった」セラが静かに言った。「彼に会えば分かる。実際、彼は今夜、あなたたち二人と会いたがっている」

リンとエドワードは本能的に危険を感じた。しかし、彼らの前にいるのは長年信頼してきた仲間たちだった。彼らを疑う理由を見つけることは難しかった。

「…分かったわ」リンは慎重に答えた。「でも、私たちは一緒に行くわ」

「もちろんだ」レイは微笑んだ。「私たちも一緒だ」

その夜、五人は人間の国と魔族の国の境界にある古い廃墟に向かった。リンとエドワードは常に警戒を怠らず、互いに目配せしながら進んだ。

廃墟に到着すると、そこにはクロムが一人で待っていた。彼の背後には、クリスとミラが隠れていたが、リンとエドワードにはそれが見えなかった。

「来たか、勇者たちよ」クロムは冷静に言った。

「何の用だ、クロム」エドワードは弓を構えた。

「話し合いだ」クロムは手を広げて、武器を持っていないことを示した。「私はただ誤解を解きたいだけだ」

「誤解?」リンは冷笑した。「人間を実験台にしていた事実は変わらないわ」

「それが誤解なんだ」レイが彼らの後ろから言った。「彼は人間と魔族の共存を目指しているだけだ」

リンとエドワードが振り返った瞬間、クリスとミラが彼らの背後から現れ、二人を拘束した。

「何をする!」エドワードは抵抗したが、ミラの力は彼を圧倒した。

「無駄だ」クロムは近づいてきた。「お前たちの仲間はもう私のものだ。そして、お前たちも同じ運命をたどる」

リンはナイフを取り出そうとしたが、ガルスの魔法で動きを封じられた。

「残念ながら、お前たちには選択肢がない」クロムは二人の前に立ち、「魅惑」のスキルを発動させた。「私の話をよく聞け」

抵抗する間もなく、リンとエドワードの意識はクロムに支配された。これで勇者パーティ全員がクロムの操り人形となった。

クロムの屋敷の書斎では、彼と五人の勇者パーティ、そして彼の側近たちが集まっていた。クロムは勝利の美酒を口にしながら、次の計画を語った。

「勇者パーティを支配下に置いたことで、我々の計画は大きく前進した」クロムは満足げに言った。

クロムの書斎は、古い書物と魔法の道具で埋め尽くされていた。彼は一冊の古い本に目を通していた。その本は人間の国のあまり知られていない場所について書かれた稀少な文献だった。

「面白い」クロムは独り言を言った。「人間の国には魔族が入れない聖域があるというのか」

彼は思慮深く椅子に身を沈めた。その時、ノックの音が聞こえ、ダミアンが入ってきた。

「何を読んでいるのですか?」彼女は優雅に近づき、クロムの肩越しに本を覗き込んだ。

「人間の国の聖域についてだ」クロムは頁をめくりながら答えた。「いくつかの場所があるらしい。魔族は足を踏み入れることさえできないという」

「そのような場所が本当にあるのですか?」ダミアンは驚きを隠せなかった。

「ああ」クロムは頷いた。「そして、その中の一つ、アーカディア神殿には『聖女』と呼ばれる人物がいるという。彼女はどんな傷や病気も治せるスキルを持っているらしい」

クロムの目に野心的な輝きが宿った。「そのようなスキルを手に入れることができれば...」

彼は言葉を途切れさせたが、その意図は明らかだった。「略奪」のスキルを使えば、聖女の治癒能力を自分のものにできる。しかし、魔族が入れない場所にいる彼女をどうやって手に入れるか。

考えを巡らせていると、一つの計画が浮かんだ。

「勇者パーティを呼べ」クロムはダミアンに命じた。「新たな任務がある」

数時間後、レイたち五人の勇者が書斎に集められた。彼らはすでにクロムの「魅惑」のスキルによって完全に支配されていた。

「新たな使命だ」クロムは静かに告げた。「アーカディア神殿にいる聖女を連れてくるのだ」

「聖女ですか?」セラが驚いた声を上げた。彼女は聖職者として、聖女の存在を知っていた。「彼女は神聖な存在です。神殿を離れることはほとんど...」

「だからこそ、お前たちの助けが必要なのだ」クロムは言葉を遮った。「お前たちは人間の英雄だ。聖女は警戒心なくお前たちに会うだろう」

「しかし、どのように彼女を説得すれば...」ガルスが尋ねた。

「嘘をつけ」クロムは冷酷に言った。「危険が迫っていると。彼女の力が必要だと。何でもいい。ただし、誰にも気づかれないように連れてくるのだ」

「わかりました」レイは頭を下げた。「命令通りに」

勇者パーティは計画を練り、翌日、アーカディア神殿に向かった。神殿は人間の国の奥地、神聖な森の中にあった。言い伝えによれば、魔族がその領域に足を踏み入れようとすると、見えない壁に阻まれるという。

神殿は白い大理石で作られ、常に柔らかな光に包まれていた。そこに住む聖女エレナは、純白の衣装をまとった若い女性だった。彼女の治癒の力は国中で知られており、多くの病人や怪我人が彼女の元を訪れていた。

「勇者様方」エレナは彼らを見て微笑んだ。「何のご用でしょうか?」

レイたちは敬意を表しながら挨拶した。「聖女様、重要な話があります」

レイは巧みな嘘をついた。魔族の一派が聖女を狙っているという情報があり、一時的に安全な場所に避難してほしいと頼んだ。エレナは最初は躊躇したが、国王の信頼する勇者たちの言葉に、最終的には同意した。

「わかりました」彼女は静かに答えた。「しかし、いつ戻れるのでしょうか?」

「危険が去り次第、すぐにお送りします」セラが優しく答えた。彼女の目には、クロムの魅惑の効果が隠されていた。

エレナは神殿を守る数人の騎士たちに事情を説明し、「勇者たちと重要な任務のために一時的に離れる」と伝えた。彼女は白いローブの上に旅用のマントを羽織り、勇者パーティと共に神殿を後にした。

彼女は自分が罠にはまっていることに気づいていなかった。

彼らはひそかに国境を越え、クリミアへと向かった。途中、エレナは何度か不安を口にしたが、セラやガルスの巧みな言葉に安心させられた。

クロムの屋敷に到着したとき、初めてエレナは何かがおかしいと感じた。

「ここは...魔族の領地?」彼女は恐怖に目を見開いた。「なぜここに?」

「心配することはない」レイは冷たく言った。「お前は特別な客人だ」

クロムが屋敷の入り口に現れた。

「よく来たな、聖女よ」クロムは冷笑した。「私の城へようこそ」

エレナは即座に逃げようとしたが、ミラとリンが彼女の両腕を掴んだ。

「放して!」彼女は必死に叫んだ。「勇者様方、何故...?」

「彼らはもう私のものだ」クロムは静かに言った。「そして、お前も同じになる」

彼は彼女の前に立ち、「魅惑」のスキルを使おうとした。しかし、驚くべきことが起きた。エレナの額が突然、金色の光を放ち、クロムのスキルを弾き返したのだ。

「何だと?」クロムは驚愕した。

「私は聖なる加護を受けています」エレナは震える声で言った。「あなたの邪悪な力は私には通用しません」

クロムは一瞬怒りで顔を歪めたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「それは興味深い」彼は冷たく微笑んだ。「だが、問題ない。魅惑できなくとも、物理的に拘束することはできる」

彼は勇者たちに命じた。「彼女を地下の特別な部屋に連れて行け。そして...」彼は残酷な微笑みを浮かべた。「彼女のローブを取り上げろ。下着一枚のままで閉じ込めておけ。外に出ようとしても、その姿では誰も助けようとはしないだろう」

エレナは必死に抵抗したが、五人の勇者の力には敵わなかった。彼女は屋敷の地下にある豪華だが鍵のかかった部屋に連れて行かれ、衣服を剥ぎ取られた。彼女は恥辱と恐怖で震えながら、聖なる守護を祈り続けた。

一方、人間の国では、聖女の突然の失踪が静かな騒ぎを引き起こし始めていた。

アーカディア神殿の騎士たちは最初、エレナが勇者たちと共に重要な任務に出かけたと思っていた。しかし、数日経っても彼女から連絡がなく、勇者たちにも接触できないことに不安を覚え始めた。

騎士団長は国王に報告し、秘密裏に調査が始まった。勇者パーティの最近の行動を調べると、彼らが国境を越えてクリミアに向かったことが判明した。さらに気がかりなことに、彼らがクリミアの支配者、クロムと頻繁に接触していることも明らかになった。

「これは深刻な事態だ」

「聖女様が聖域から出ること自体が異例です。さらに、魔族の領地に向かったというのは...」

彼らは秘密裏に精鋭部隊を編成し、聖女救出の準備を始めた。

クロムの屋敷の地下室で、エレナは孤独と恐怖の日々を過ごしていた。彼女は下着姿のまま閉じ込められ、食事は定期的に運ばれてきたが、外出は許されなかった。

彼女の部屋は豪華だった。柔らかいベッド、上質な家具、そして書物もあった。しかし、それらはすべて檻の中の金ぴかの装飾に過ぎなかった。

「なぜ私をここに?」エレナはクロムが部屋を訪れた時に尋ねた。彼女は羞恥心から自分の体を腕で覆いながら、それでも威厳を持って立っていた。

「お前のスキルに興味がある」クロムは冷たく答えた。「どんな傷や病も治せるという力は、私にとって魅力的だ」

「私の力は神からの祝福です」エレナは静かに言った。「それを悪用するつもりなら、決して協力しません」

「協力は必要ない」クロムは残酷に微笑んだ。「私には『略奪』というスキルがある。敵を倒し、そのスキルを奪うことができる」

エレナの顔から血の気が引いた。「あなたは...私を殺すつもりなの?」

「その通り」クロムは淡々と答えた。「だが、まだその時ではない。お前の力についてもっと知りたい」

彼はエレナに近づき、彼女の顎を掴んだ。エレナは身を引こうとしたが、逃げる場所はなかった。

「なぜ私の『魅惑』が効かなかった?」クロムは尋ねた。「他の者たちはみな、簡単に支配できたというのに」

「聖女には守護の祝福があります」エレナは震える声で答えた。「邪悪な力から私たちを守るために」

クロムは彼女を放し、思慮深く部屋を歩き回った。「興味深い。その守護を破る方法はあるのか?」

「ありません」エレナは毅然と答えた。「あなたがどれだけ強くても、神の加護は破れません」

クロムは不敵に笑った。「すべての魔法には弱点がある。お前の守護も例外ではないだろう」

彼は部屋を出る前に振り返った。「ゆっくり考えるがいい。お前の運命は、私の気分次第だ」

エレナは彼が去った後、ベッドに倒れ込み、静かに涙を流した。彼女は祈り続けた。「神よ、どうか私をお守りください」

数日後、クロムは再びエレナの部屋を訪れた。今回は、マナを伴っていた。

「お前の守護について調べさせた」クロムは言った。「マナ、説明しろ」

青い髪のマナは冷静に説明を始めた。「聖女の守護は確かに強力です。しかし、それは純粋さに依存しています。精神的、肉体的な純潔が乱されれば、守護も弱まる可能性があります」

エレナは恐怖に目を見開いた。「何を...」

「つまり」クロムが冷笑した。「お前が聖女としての純潔を失えば、守護も消えるということだ」

「そんなこと...」エレナは後ずさりした。

「心配するな」クロムは残酷に微笑んだ。「私はそのような下劣な方法で汚すつもりはない。もっと効率的な方法がある」

彼は小さな瓶を取り出した。中には紫色の液体が入っていた。

「これは『堕落の霊薬』だ。飲めば、心の中の暗い欲望が解放される。お前自身の内側から純潔を破壊するだろう」

「私は決して飲みません」エレナは強く言った。

「飲ませるつもりもない」クロムは瓶をしまった。「これはただの可能性の一つだ。今はまだ、お前の力をそのまま研究したい」

彼はマナに向かって言った。「彼女の血と髪を採取しろ。魔法の分析に使う」

マナは命令通り、エレナから血液サンプルと髪の毛を採取した。エレナは抵抗したが、マナの魔法の前にはなすすべがなかった。

「もうすぐ結果が出るでしょう」マナはサンプルを持って去りながら言った。

「楽しみだ」クロムは満足げに答えた。

彼らが去った後、エレナは再び祈りを捧げた。しかし今回は、自分の救出ではなく、魂の救済を願った。彼女は自分の運命が暗いことを感じていた。

一方、人間の国では、聖女失踪の噂が徐々に広がっていた。神殿への訪問者たちは聖女が不在であることに気づき、様々な憶測が飛び交い始めた。

「聖女様が姿を消してから、もう二週間になります」騎士団長はラモンド宰相とガレット司令官に報告した。「民衆の間に不安が広がっています」

「我々の調査はどこまで進んだ?」司令官が尋ねた。

「勇者パーティは確かにクリミアに向かい、そのままクロムの屋敷に滞在しているようです」騎士団長は答えた。「しかし、聖女様の痕跡はつかめていません」

「精鋭部隊の準備はできています」騎士団長は報告した。「いつでも出発できます」

「良し」司令官は決意を固めた。「二日後、夜陰に紛れて出発する。クリミアに潜入し、聖女様を救出する」

「国の危機だ」宰相が静かに言った。「我々には行動する責任がある」

三人は固く握手し、危険な救出作戦に向けて最終準備を始めた。クリミアの街は、夜の闇に包まれていた。人間の国から派遣された精鋭部隊は、三つの小グループに分かれて街に潜入していた。彼らは普通の旅人や商人に扮し、注目を集めないよう細心の注意を払っていた。

「目標はクロムの屋敷だ」リーダーのカリムは小声で指示した。「情報によれば、聖女様は地下に閉じ込められているらしい」

彼らは数日かけて屋敷の周囲を偵察し、警備の交代パターンや弱点を探った。クロムの屋敷は厳重に守られていたが、絶対的な要塞ではなかった。

「明日の夜、行動する」カリムは最終決定を下した。「北側の壁に小さな死角がある。そこから侵入する」

計画は緻密に立てられた。チームの半数が囮として東門付近で騒ぎを起こし、残りのメンバーが北壁から侵入するというものだった。

翌日の夜、作戦は開始された。東門付近で小さな爆発が起き、警備の注意を引きつけた。その隙に、カリムたちは北壁を乗り越え、屋敷の中に侵入した。

「地下への入口はどこだ?」隊員の一人が小声で尋ねた。

「情報によれば、書斎の後ろに隠し扉があるらしい」カリムは答えた。

彼らは影に紛れながら屋敷の中を進み、書斎を探し当てた。幸いにも、深夜のため屋敷内の人員は最小限に抑えられていた。

書斎に入ると、彼らはすぐに本棚の後ろにある隠し扉を発見した。扉は魔法で封じられていたが、彼らは聖女の神殿から持ってきた特別な護符を使って封印を解いた。

「これだけでは不十分だ」カリムは指摘した。「クロムがこの侵入に気づかない保証はない」

「急ぎましょう」別の隊員が言った。「見つかれば、全員死ぬことになります」

彼らは階段を下り、地下へと向かった。地下室は予想以上に広く、複数の部屋があった。彼らは一つずつドアを確認していった。

そして、最後から二番目の部屋で、彼らは聖女エレナを発見した。

「聖女様!」カリムは安堵の声を上げた。

エレナは下着姿のまま部屋の隅に座り、震えていた。彼女は侵入者たちを見て、最初は恐怖に身を縮めたが、人間の国の制服に気づくと、希望の光を取り戻した。

「あなたたちは...」

「救出に来ました」カリムは静かに言った。彼は自分のマントを脱ぎ、エレナに差し出した。「お着替えください」

エレナは感謝の涙を流しながらマントを身にまとった。「急いで...クロムがすぐに戻ってくるかもしれません」

彼らは急いで地下室を出て、来た道を戻り始めた。しかし、書斎に到達した時、彼らを驚かせる光景が待っていた。

クロムがドアの前に立っていたのだ。彼の隣には、クリスとミラが控えていた。

「よく来たな、人間たちよ」クロムは冷たく微笑んだ。「我が客人を迎えに来たようだな」

「聖女様を返していただきます」カリムは剣を抜きながら言った。「我々は平和的に解決したいのですが、必要とあらば...」

「面白い」クロムは嘲笑した。「お前たちが私の屋敷に侵入し、私の客人を連れ去ろうとしているのに、平和的に?」

「私は捕虜です!」エレナは震える声で叫んだ。「この魔族に拉致されたのです!」

「それは大きな誤解だ」クロムは冷静に言った。「お前は勇者たちと共に自らの意志でここに来た。何も強制などしていない」

「嘘です!」エレナは怒りを露わにした。「あなたは私を下着一枚で閉じ込め、実験台にしようとした!」

クロムの表情が一瞬硬くなった。エレナの言葉は、彼のイメージを傷つける可能性があった。彼は作戦を変更することにした。

「クリス、ミラ」彼は二人に命じた。「彼らを始末しろ。生き証人を残すわけにはいかない」

戦闘が始まった。クリスとミラは非常に強力な戦士だったが、カリムたちも一流の戦士たちだった。彼らは聖女を守りながら、必死に戦った。

「聖女様、私の後ろに!」カリムは叫んだ。「残りの者たちで彼女を守れ!私がこいつらを食い止める!」

エレナは恐怖に震えながらも、祈りを捧げ始めた。彼女の額が再び金色に輝き、神聖な力が部屋に満ちた。

「神の光よ、我らを守りたまえ!」

彼女の祈りに応え、光の障壁が彼女と救出部隊を包み込んだ。クリスとミラの攻撃が光に触れると、彼らは痛みに叫び声を上げた。

「これは...」クロムは驚愕した。「聖女の力か」

彼は直接戦うことを避け、後退した。「クリス、ミラ、下がれ!」

光の障壁に守られ、カリムたちはエレナを連れて屋敷から脱出することに成功した。彼らは準備していた馬に飛び乗り、クリミアを後にした。

「急げ!」カリムは叫んだ。「国境を越えれば、安全だ!」

彼らは一晩中馬を走らせ、夜明け前に人間の国の領土に到達した。そこで彼らを待っていたのは、ラモンド宰相とガレット司令官だった。

「聖女様!」二人は安堵の表情で駆け寄った。「無事で何よりです」

エレナは疲れ果てていたが、微笑んだ。「あなた方のおかげで助かりました。心から感謝します」

「すぐに神殿にお連れします」司令官が言った。「そこなら、クロムの手は届きません」

一行は急いでアーカディア神殿へと向かった。エレナの帰還は、人間の国全体に安堵をもたらした。

しかし、この事件は終わりではなかった。クロムの野望は挫かれたが、彼の怒りはますます燃え盛っていた。そして、彼はまだ勇者パーティを支配下に置いていた。クロムの屋敷では、聖女の脱出後、緊迫した会議が開かれていた。

「許しがたい失態だ」クロムは怒りを抑えながら言った。「どうして侵入者に気づかなかった?」

「申し訳ありません」ダミアンは頭を下げた。「彼らは何らかの聖なる力で魔法の警報を無効化したようです」

クロムは深く息を吸い、冷静さを取り戻そうとした。怒りに任せて行動するのは愚かだと彼は知っていた。

「計画を変更する必要がある」彼は静かに言った。「聖女の脱出は一時的な後退に過ぎない。我々の本当の力は別にある」

彼は勇者パーティを呼び寄せた。レイたち五人は、依然としてクロムの「魅惑」のスキルに支配されていた。

「新たな命令だ」クロムは彼らに告げた。「聖女の脱出に関して、お前たちは何も知らない。お前たちが関わったという証拠はないはずだ」

「はい、クロム様」レイは頭を下げた。

「人間の国に戻り、普段通り振る舞え」クロムは続けた。「そして、重要な情報を集めろ。特に、私に対する態度の変化だ」

勇者たちは頷き、クリミアを後にした。

一方、人間の国では、聖女エレナの帰還が大きな出来事となっていた。彼女は神殿に戻り、彼女を救出した人々の怪我を癒やしていた。

「聖女様、本当にお体は大丈夫ですか?」ラモンド宰相が心配そうに尋ねた。

「はい」

クロムは書斎の窓から外を眺めていた。聖女エレナを奪われてから三日が経っていた。彼は自分の略奪のスキルが通用しなかったことに未だ困惑していた。これまで、どんな相手であれ彼の魅惑のスキルは絶大な効果を発揮してきたのに。

「考えてみれば当然か」クロムは呟いた。「光の加護を持つ聖女なら、魔族の能力を無効化するのも不思議ではない」

彼は書架に向かい、再び古文書を手に取った。最近彼が熱中していたのは、三界に関する古い伝承だった。天界、地上、魔界——それぞれの世界には侵入できない領域があるという記述が気になっていた。

「クロム様」扉を叩く音がした。

「入れ」

ミラが静かに入室してきた。彼女の長い銀髪が月明かりに照らされて輝いていた。武芸と魔法の両方に長けた彼女は、クロムの配下の中でも特に頼りになる存在だった。

「勇者パーティからの情報です」ミラは手紙を差し出した。「レイからの急報です」

クロムは素早く目を通した。勇者レイは、クロムの魅惑のスキルで操られた状態で、王国内の動向を伝えてきていた。

「なるほど…」クロムの目が鋭く光った。「聖女エレナは『光の神殿』に保護されているようだな。そして、彼女が『天界の血』を引いているという情報も…」

「天界の血…」ミラが驚いた様子で繰り返した。

クロムは立ち上がり、部屋を行きつ戻りつし始めた。「三界の境界に関する伝説は、単なる神話ではなかったのかもしれない。天界には魔族が入れず、魔界には人間が容易に入れない。では、三番目の秘密は何だ?」

「魔族だけが入れる場所があるということでしょうか」ミラが推測した。

「その可能性は高い」クロムは頷いた。「しかし、それだけではない気がする」

彼は書架から別の古い巻物を取り出した。表面には古代魔族の文字で何かが書かれていた。

「これは古代の魔族が残したものだ。ある特別な場所について記されている」クロムは真剣な眼差しで言った。「魔界と地上の間にある『狭間の領域』だ」

「狭間の領域?」

「ああ。天界と地上の間には『光の回廊』があり、魔界と地上の間には『闇の狭間』がある。そして、それぞれの領域を行き来できるのは、その世界の血を引く者だけだという」

クロムは窓際に戻り、夜空を見上げた。「エレナが天界の血を引いているなら、彼女は光の回廊を通じて天界と繋がっているのかもしれない。それが彼女の力の源…そして私のスキルが効かなかった理由だ」

「では、闇の狭間とは…」

「我々魔族だけが入れる場所だ」クロムは確信を持って言った。「そして、もし私がその場所を見つけられれば…」

「何を計画されているのですか?」ミラが緊張した様子で尋ねた。

クロムは薄く笑みを浮かべた。「天界の力を持つ聖女に対抗するには、同等の力が必要だ。闇の狭間で、私は真の魔族の力を解放できるかもしれない」

彼は手元の地図を広げ、指で円を描いた。「古文書によれば、闇の狭間への入り口は『死者の谷』にあるという。そこは人間も魔族も近づかない忌み地だ」

「危険な場所だと聞いています」ミラが心配そうに言った。

「危険だからこそ、誰も真実に気づかなかったのだろう」クロムは決意を固めた様子で言った。「クリスとマナを呼べ。我々は死者の谷へ向かう」

「即刻準備します」ミラは頭を下げて部屋を出ていった。

クロムは再び窓の外を見た。星空の下に広がる街並みを見下ろしながら、彼は考えた。天界と魔界、そして地上。それぞれの世界を繋ぐ鍵を手に入れれば、彼の力はさらに増大するだろう。

「エレナ…」彼は呟いた。「君は私に新たな可能性を示してくれた。感謝しているよ」

彼の赤い瞳が夜闇の中で不気味に輝いた。これから始まる冒険は、単なる略奪ではなく、世界の秘密に迫るものになるだろう。クロムはその予感に、心の奥底で高揚を感じていた。

「出発の準備はいいか?」クロムが振り返ると、クリス、マナ、ミラの三人がすでに完全武装して待機していた。

「はい、いつでも」クリスが答えた。彼女は赤銅色の髪を短く切り揃え、軽装の革鎧を身につけていた。腰には二振りの剣が吊られていた。

「死者の谷についての情報を集めました」マナが青い魔導書を開きながら前に出た。「谷の最深部には『闇の祭壇』と呼ばれる場所があり、昔から魔族の儀式が行われていたようです」

「闇の祭壇か…」クロムは考え込んだ。「そこが入り口の可能性が高いな」

ミラが地図を広げた。「最短ルートだと、クリミアの東門から出て、赤い森を抜け、死の丘を越えていくことになります。三日の行程です」

クロムは頷いた。「ダミアンとミランダには留守を任せる。何かあれば勇者パーティを通じて連絡させよう」

「ミランダさんは不満そうでしたね」マナが小さく笑った。「あなたの冒険に同行したがっていました」

「商才はあるが戦闘には向いていない」クロムは肩をすくめた。「彼女の役割は別にある」

彼は黒い外套を羽織り、「行くぞ」と言った。


赤い森を抜けるのに丸一日かかった。森の木々は不自然な赤い葉をつけ、空気中には甘い腐敗臭が漂っていた。マナによれば、この森は古代の戦いで流された血によって変質したのだという。

二日目の昼過ぎ、彼らは死の丘に到達した。遠くからでも、丘の上に立つ無数の石碑が見えた。

「ここは古戦場跡です」ミラが説明した。「人間と魔族が最初に大きな戦いを行った場所。両者の死者を弔うために建てられた墓標が今も残っています」

丘を登りながら、クロムは不思議な感覚に襲われた。何千もの墓標の間を歩いていると、微かに囁き声が聞こえるような気がした。

「聞こえるか?」クロムが仲間たちに問うた。

三人とも頷いた。「私にも聞こえます」クリスが緊張した面持ちで言った。「戦死者の魂が安らかに眠れていないのでしょうか」

クロムは立ち止まり、一つの墓標に手を触れた。刻まれた文字はすでに風化して読めなかったが、彼は何かを感じ取った。

「彼らは我々に語りかけている」クロムは静かに言った。「この地に埋葬された魔族たちは、我々の存在を感じ取っているんだ」

「何を言っているのですか?」マナが身震いした。

「安心しろ」クロムは答えた。「彼らは敵意はない。むしろ…道を示しているようだ」

クロムは目を閉じて集中した。彼の魔力が墓標を通じて地下へと伸びていき、古い記憶の断片を感じ取った。「この先だ」

彼らは丘を越え、その向こう側に広がる谷を見下ろした。死者の谷——その名前にふさわしい荒涼とした光景だった。谷底には乾いた川床があり、両側の崖には無数の洞窟が口を開けていた。

「あそこだ」クロムは谷の奥にある大きな洞窟を指さした。「闇の祭壇はあの洞窟の中にある」

彼らは慎重に谷を下り始めた。周囲の空気は次第に重くなり、呼吸するたびに冷たいものが肺に入り込む感覚があった。

「この場所、魔力が濃い」マナが呟いた。彼女の手に持った魔導書が淡い光を放ち始めていた。「でも、通常の魔力とは少し違う…より深く、古い力を感じます」

彼らが谷底に到達したとき、突然の風が吹き荒れた。風の中から、かすかな声が聞こえてきた。

「血の証明を…」

クロムは立ち止まり、周囲を見回した。「聞いたか?」

「はい」ミラが剣に手をかけながら答えた。「私たちに血の証明を求めています」

「血の証明か…」クロムは考え込んだ。「おそらく魔族の血を意味しているのだろう」

彼は自分の掌を短剣で切り、血を数滴、地面に垂らした。血が地面に触れると、驚くべきことが起きた。地面から黒い霧が立ち上り、クロムの血を吸収していったのだ。

すると、谷底に一本の細い道が浮かび上がった。幽かな青い光を放つその道は、まっすぐに洞窟へと伸びていた。

「道が示された」クロムは満足げに言った。「行くぞ」

彼らは青く光る道に従って進んだ。洞窟の入り口は予想以上に大きく、高さは優に三メートルはあった。内部は完全な闇だったが、クロムたちが一歩踏み入れると、両側の壁に埋め込まれた古い灯火が次々と点灯し始めた。

「これは…」マナが驚きの声を上げた。

洞窟の内部は自然の形成物ではなかった。整然と並ぶ柱や壁に刻まれた精緻な彫刻から、これが古代魔族の建造物であることは明らかだった。

「古代神殿だ」クロムは畏敬の念を込めて言った。「千年以上前に建てられたものだろう」

彼らは神殿の中を進んでいった。通路は次第に広がり、ついには巨大な円形のホールへと続いていた。その中央には、黒い石で作られた巨大な祭壇があった。

「闇の祭壇…」クロムが呟いた。

祭壇の上には何もなかったが、周囲の壁面には無数の古代魔族の文字が刻まれていた。マナがすぐに解読を始めた。

「これは儀式の手順を記したものです」彼女は興奮した様子で言った。「魔界と地上の狭間にある『暗黒領域』への入り方が書かれています」

「暗黒領域…」クロムは祭壇に近づいた。「それが闇の狭間か」

マナは続けた。「儀式には魔族の血が必要で、それを祭壇に捧げることで門が開くと…」

クロムは再び自分の掌に短剣を当てた。「魔族の血か。私の血なら条件を満たすだろう」

彼は祭壇の中央に血を滴らせた。血が黒い石に触れた瞬間、祭壇全体が震動し始めた。そして、祭壇の中央が徐々に沈み込み、螺旋状の階段が現れた。

「成功したようだな」クロムは満足げに言った。

階段は深く下へと続いていた。クロムは仲間たちを見た。「下りるぞ」

彼らは祭壇の中の螺旋階段を下り始めた。階段は予想以上に長く、何百段も下った頃には、地上からかなりの深さに達していることが分かった。

そして突然、階段は終わり、彼らは広大な空間に出た。

「これは…」クリスが息を呑んだ。

彼らの目の前に広がっていたのは、地上とは全く異なる光景だった。頭上には空があったが、それは地上の青空ではなく、暗紫色の奇妙な渦を描いていた。足元には黒い草原が広がり、遠くには尖った山々のシルエットが見えた。

「暗黒領域だ」クロムは確信を持って言った。「我々は魔界と地上の狭間に来た」

この奇妙な世界の空気は濃密で、呼吸するたびに体中に力が漲るのを感じた。特にクロムは、自分の魔力が急速に高まっていくのを感じていた。

「この場所は魔族にとって力の源なのか」彼は自分の手を見つめた。掌から闇の力が漏れ出し、煙のように立ち上っていた。

「クロム様、あれを見てください」ミラが指さす方向を見ると、黒い草原の向こうに巨大な建造物が見えた。暗い水晶のような素材で作られたそれは、城とも神殿とも言える荘厳な姿だった。

「あそこに行くべきだろう」クロムは言った。「この領域の秘密はあの建物の中にあるはずだ」

彼らは黒い草原を横切り始めた。歩くにつれ、この世界の本質がより明らかになってきた。地上と似ているようで、すべてが微妙に違っていた。植物は黒や紫の色をしており、時折見かける小さな生き物たちは、どれも影のように地面を這っていた。

「この領域、天界の光の回廊と対をなすものなのでしょうか」マナが考え込みながら言った。

「可能性は高い」クロムは答えた。「聖女エレナが天界の力を得ているように、私もここで何かを得られるかもしれない」

彼らが城に近づくにつれ、不思議な感覚がクロムを包み込んだ。まるで城そのものが彼を呼んでいるかのような感覚だった。

城の入り口には門番も障壁もなかった。ただ、巨大な扉が開いており、彼らを招き入れているかのようだった。

「用心しろ」クロムは仲間たちに言った。「何が起きてもおかしくない」

彼らは警戒しながら中に入った。内部は予想以上に明るく、壁に埋め込まれた紫色の結晶が光を放っていた。広大なホールには柱が整然と並び、床には複雑な模様が描かれていた。

「これは…魔力の流れを表す図形ですね」マナが床を指さした。「古代の魔族が使っていた魔法陣の原型に似ています」

彼らがホールの中央に達したとき、突然、床の模様が光り始めた。そして、その光の中から一つの影が浮かび上がった。

人の形をしたそれは、次第に実体を持ち始め、やがて一人の男性の姿となった。長い黒髪と鋭い目、そして高貴な顔立ちをしたその男性は、明らかに魔族だった。だが、普通の魔族とは違い、彼からは古代の力が感じられた。

「千年ぶりの来訪者よ、よく来た」男性は深い声で言った。「我が名はザルガス。暗黒領域の守護者にして、古代魔族の最後の生き残りである」

クロムは一歩前に出た。「私はクロム。現在のクリミアの領主だ」

ザルガスはクロムを見つめ、そして微笑んだ。「ああ、お前の中に古き血を感じる。魔族の血だ」

「あなたは…本当に古代魔族なのですか?」マナが恐る恐る尋ねた。

「そうだ」ザルガスは頷いた。「かつて魔族と人間が争っていた時代、私は魔族の軍を率いていた。だが、戦いの末期、我々は苦境に立たされた。人間側には『光の加護』を持つ者たちがいたからだ」

「光の加護…」クロムは思わず聖女エレナのことを思い出した。「それは天界の力ですか?」

「正確には、天界の血を引く者たちの力だ」ザルガスは説明した。「古の時代、天界の存在と地上の人間が交わることがあった。その末裔たちは特別な力を持ち、我々魔族に対抗できる唯一の存在だった」

ザルガスは続けた。「敗北を悟った私は、残された仲間たちと共にこの暗黒領域に逃れた。ここは魔界と地上の間にある狭間の世界。魔族の血を引く者だけが入ることができる場所だ」

「では、この領域の目的は?」クロムが尋ねた。

「避難所であり、力の源泉だ」ザルガスは答えた。「この場所で、我々は本来の力を取り戻すことができる。そして…」

彼は一瞬言葉を切り、クロムの目をじっと見つめた。「お前のような者を待っていた。古き血を引き、新たな時代を切り開く者を」

「私に何ができるというのだ?」クロムは警戒心を解かなかった。

「この領域の力を継承し、天界の力に対抗する術を学ぶことだ」ザルガスは言った。「お前が持つ『略奪』のスキル—それは古代魔族の王が持っていた力の一部だ」

クロムは驚いた。「私のスキルが古代の魔族王の力…?」

「そうだ。それは我々の血に眠る最も強力な能力の一つ。だが、それだけでは天界の力には及ばない」ザルガスは歩き出し、ホールの奥へと導いた。「来い。お前に見せたいものがある」

彼らはザルガスに従ってホールを抜け、奥の部屋へと進んだ。そこには一つの祭壇があり、その上には黒い剣が置かれていた。

「これは『闇刀・アビス』」ザルガスが説明した。「古代の魔族王が振るっていた武器だ。この剣には特別な力がある—天界の力を打ち消す力だ」

クロムは剣を見つめた。「これがあれば、聖女エレナの光の加護も無効化できる?」

「可能性はある」ザルガスは頷いた。「だが、剣を扱うには代償が必要だ。お前の血と、お前の決意だ」

「どういう意味だ?」

「この剣と契約するには、お前の血の一部を永久に捧げなければならない。そして、魔族としての運命を受け入れる決意が必要だ」

クロムは迷わなかった。「私は既に魔族としての道を選んでいる。人間世界で成功を収め、力を持った今、次なる段階に進むことを恐れはしない」

彼は剣に手を伸ばした。「血と決意、どちらも捧げよう」

「待って、クロム様!」クリスが叫んだ。「危険かもしれません」

しかし、クロムの決意は固かった。彼は躊躇うことなく剣の柄に手を触れた。

瞬間、激しい痛みが彼の体を貫いた。剣が彼の血を吸い込んでいく感覚。だが、それと同時に、未知の力が彼の中に流れ込んできた。彼の視界が一瞬暗くなり、そして再び明るくなったとき、世界の見え方が変わっていた。

より鮮明に、より深く、この領域の本質が見えるようになっていた。

「契約は成立した」ザルガスが静かに言った。「お前は今、闇刀・アビスの主となった。そして、暗黒領域の力を操る術を得た」

クロムは剣を手に取り、その重みを感じた。「この力で、私は何ができる?」

「天界の力に対抗できるだけではない」ザルガスは説明した。「お前の略奪のスキルも強化される。今までは殺した相手のスキルしか奪えなかったが、これからは生きている相手からも力を一時的に奪うことができるだろう」

「生きている相手から…」クロムは思わず笑みを浮かべた。「それは使えるな」

「だが、忘れるな」ザルガスの声が厳しくなった。「力には責任が伴う。古代魔族が滅びたのは、力の使い方を誤ったからだ。我々は人間を支配しようとし過ぎた。結果、天界の怒りを買い、光の加護を持つ者たちに敗れた」

クロムは剣を見つめながら言った。「私は単なる破壊や支配には興味がない。私の目的は繁栄だ。魔族も人間も、共に豊かになれる世界を作りたい」

「それは賢明な考えだ」ザルガスは頷いた。「では、お前に最後の贈り物をしよう」

彼は手のひらを広げ、そこに小さな黒い結晶が現れた。「これは『闇の核』。これを使えば、いつでもこの暗黒領域に戻ってくることができる。また、この領域の力を一部、地上に持ち出すこともできるだろう」

クロムは結晶を受け取った。「ありがとう、ザルガス」

「行け、新たなる魔族の長よ」ザルガスは言った。「そして、古き過ちを繰り返すな」

クロムは仲間たちに向き直った。彼らは驚きと敬意の入り混じった表情でクロムを見ていた。

「帰るぞ」クロムは剣を鞘に収めながら言った。「我々にはやるべきことがある」

彼らは来た道を戻り始めた。クロムの心には新たな決意が芽生えていた。聖女エレナを再び捕らえ、彼女の力の秘密を暴くこと。そして、天界と魔界の秘密をさらに探ること。

彼の野望は、以前にも増して大きくなっていた。

クリミアの屋敷に戻ったクロムたちを、驚くべき報せが待っていた。

「クロム様、お帰りなさい」ダミアンが慌ただしく出迎えた。彼女の表情には緊張の色が濃かった。「あなたがいない間に、重大な事態が発生しました」

「何があった?」クロムは尋ねた。

「人間の国が大規模な軍を編成しています」ダミアンは答えた。「そして、その軍はクリミアを含む魔族の領地に向かって進軍中です」

「何?」クロムは眉をひそめた。「勇者パーティからの情報では?」

「レイからの最新の情報です」ミランダが書類を手渡した。「聖女エレナが人間の王に直接働きかけ、魔族討伐の聖戦を宣言させたようです」

クロムは書類に目を通した。人間軍の規模、進路、そして予想される到着時期—すべてが詳細に記されていた。

「彼らが到着するまで、あと五日ほどですね」ミランダが付け加えた。

クロムは黙って考え込んだ。暗黒領域で得た力を早速試す時が来たようだ。

「対策を講じよう」彼は決意を固めた様子で言った。「まず、勇者パーティを呼び寄せろ。彼らには特別な任務がある」


二日後、勇者パーティの五人がクロムの屋敷に集められた。彼らはすべてクロムの魅惑のスキルによって操られており、表面上は通常通りに振る舞っていたが、その目には空虚な光が宿っていた。

「諸君を呼んだのは重要な任務があるからだ」クロムは彼らの前で言った。「人間軍とエレナが接近している。彼らが本格的に攻撃を始める前に、我々は先手を打たねばならない」

「ご命令を」勇者レイが機械的に応じた。

クロムは闇刀・アビスを取り出した。剣は彼の手の中で微かに脈動していた。


「この剣の力を使って新たな作戦を実行する」クロムは闇刀・アビスを掲げた。剣身が不気味な紫の光を放ち、部屋の空気が重くなった。

「勇者パーティの諸君」クロムは冷静な声で続けた。「お前たちには特別な任務を与える。人間の軍の中に潜入し、周囲に悟られることなく、できるだけ多くの強者を殺せ」

「強者とは?」盗賊のリンが無表情に尋ねた。

「軍の中でも指揮官クラスの者たち、そして特に魔力の強い者たちだ」クロムは説明した。「特に『光の加護』の兆候がある者を優先しろ。彼らは我々にとって最大の脅威だ」

クロムは勇者レイに近づき、彼の肩に手を置いた。「お前たちは人間軍にとって英雄だ。誰も疑いはしない。その立場を利用して、内部から彼らを弱体化させるのだ」

「しかし」弓使いのエドワードが言った。「我々が突然軍の強者を殺せば、すぐに疑われるでしょう」

クロムは薄く笑った。「そのためのこれだ」

彼は闇刀・アビスから微かな闇の力を放ち、それを五人の体内に流し込んだ。「暗黒領域の力を少しずつお前たちに与えよう。これで、殺しの痕跡を消すことができる」

「どういうことですか?」聖職者のセラが尋ねた。

「死因を病や事故に見せかけられる」クロムは説明した。「例えば、突然の心臓発作や、不慮の転落事故などにだ。誰も魔力の関与を疑わないだろう」

勇者たちの目に、新たな理解の色が浮かんだ。

「さらに」クロムは続けた。「お前たちには、一日一人ずつ、計画的に消していってもらう。同時に複数人が死ねば疑われるからな」

「御意」レイが頭を下げた。

「そして最も重要なのは、聖女エレナの動向を把握することだ」クロムの目が鋭く光った。「彼女の力の源を探り、そして彼女を再び我が手に引き寄せる機会を作れ」

勇者たちは一斉に頭を下げた。クロムの命令は彼らの脳裏に深く刻み込まれていた。

「行け」クロムは言った。「三日後に最初の報告を待つ」

勇者パーティが去った後、クロムは窓際に立ち、夜空を見上げた。闇刀・アビスを手に持ち、その力を感じながら、彼は思った。

天界の力と魔界の力—その均衡の中に、新たな世界の可能性がある。


勇者パーティは翌朝、人間の軍が駐屯する前線基地に到着した。彼らは英雄として温かく迎えられた。

「勇者レイ!」軍の司令官であるヴァルガス将軍が大声で歓迎した。「よく来てくれた。お前たちの参加は軍の士気を大いに高めるだろう」

レイは微笑み、丁寧に頭を下げた。表面上は、彼はいつもの勇者のままだった。「我々も祖国のために力を尽くしたいと思います」

「明日には聖女エレナ様も到着される」ヴァルガス将軍は言った。「彼女の光の加護があれば、魔族など恐るに足りん!」

レイは微かに目を細めた。「エレナ様がいらっしゃるのですか。それは心強い」

その夜、勇者パーティは作戦会議を行った。彼らは割り当てられた個室で、声を潜めて話し合った。

「最初の標的はヴァルガス将軍だ」レイが言った。「彼は軍の中心人物。彼を失えば、指揮系統に混乱が生じるだろう」

「どのように?」魔法使いのガルスが尋ねた。

「彼は毎晩一人で散歩をする習慣があると聞いた」レイは答えた。「その時を狙う」

夜半過ぎ、ヴァルガス将軍は予想通り一人で基地の周囲を歩いていた。彼が人気のない場所に差し掛かったとき、影から勇者レイが現れた。

「おや、レイか」将軍は驚きながらも笑顔で言った。「こんな時間にどうした?」

「少し考え事があって」レイは自然な表情で答えた。「将軍、明日の作戦について少し相談したいことがあるのですが」

「ああ、もちろんだ」将軍は警戒心なく近づいた。

その瞬間、レイの目が変わった。彼は闇刀・アビスから得た力を使って、一瞬で将軍の喉元に手をかけた。

「な...何をする!」将軍は叫ぼうとしたが、声は出なかった。

「クロム様の命令だ」レイは冷淡に言った。

彼の手から黒い霧のようなものが将軍の体内に流れ込んでいった。将軍の顔が青ざめ、やがて彼は無言で倒れた。レイは慎重に将軍の体を調べ、死の痕跡を消した。

「心臓発作に見えるだろう」彼は呟き、そして静かに夜の闇の中に消えていった。

翌朝、基地は混乱に包まれた。ヴァルガス将軍の突然の死に、誰もが動揺していた。

「医師の診断では自然死だそうだ」副官が報告した。「しかし、こんな時に...」

勇者パーティは悲しみに暮れるふりをしながら、次の標的を物色していた。

その日の午後、聖女エレナが基地に到着した。彼女の姿を見たレイたちは、クロムの命令を思い出した。彼女を監視し、チャンスがあれば捕らえる—しかし、彼女には近づくことすら難しそうだった。

エレナは常に十人ほどの光の騎士団と呼ばれる護衛に囲まれており、彼女自身も警戒を強めていたからだ。

「あの聖女、前よりも力が強くなっている」ガルスが密かにレイに告げた。「彼女から放たれる光の魔力が、以前の倍はある」

「そうか...」レイは考え込んだ。「ならば、我々の計画を変更する必要がある」

その夜、勇者パーティはクロムに報告を送った。将軍の死と、エレナの状況を詳細に記した暗号文を、彼らは密かに発信した。


クリミアの屋敷で、クロムはその報告書を読んでいた。

「エレナの力が強化されたか...」彼は思案した。「やはり、彼女は天界と何らかの形で繋がっているようだな」

「どうすればよいでしょう?」ミラが尋ねた。

クロムは闇刀・アビスを見つめた。「この剣には天界の力を打ち消す効果がある。だが、その前に勇者たちには引き続き人間軍の強者を減らしてもらおう」

彼は返信を書き始めた。「次の標的は、光の騎士団の隊長だ。彼らはエレナの護衛であり、おそらく天界の血を引いている可能性が高い。一人でも減れば、エレナへの接近が容易になるだろう」


基地では、新たな司令官としてレイモンド将軍が着任していた。彼はヴァルガス将軍の死を不審に思っていたが、証拠がなく、また戦争準備の緊急性から、深く追求する余裕はなかった。

「三日後には全軍でクリミアに向けて進軍する」レイモンド将軍は宣言した。「魔族どもに天罰を与えるのだ!」

勇者パーティは表面上は熱意を示しながら、内心では次の行動を計画していた。

「光の騎士団の隊長、ガレオンが標的だ」レイはパーティのメンバーに告げた。「彼は常にエレナの側にいるが、夜には独自の祈りの時間があるらしい」

その情報を得たのは聖職者のセラだった。彼女は光の騎士団と同じ信仰を持つ立場を利用して近づき、彼らの日課を探り出していたのだ。

「彼は毎晩、小さな祠で一人で祈りを捧げる」セラは報告した。「その時が唯一のチャンスだ」

その夜、ガレオン隊長は予定通り、基地の端にある小さな祠に一人でやってきた。彼は剣を脇に置き、ひざまづいて祈りを始めた。

その時、セラが静かに祠に入ってきた。

「セラ様」ガレオンは驚いた様子で言った。「こんな時間に」

「私も祈りを捧げたくて」セラは穏やかに微笑んだ。「隊長と同じ信仰を持つ者として」

「そうですか」ガレオンはホッとした様子で言った。「ではご一緒に」

彼らは並んでひざまづき、祈り始めた。しかし、セラの祈りの言葉は次第に変わっていった。それは古代魔族の呪文だった。

ガレオン隊長が異変に気づいて振り向いた時には、すでに遅かった。セラの手から黒い霧が放たれ、彼の体を包み込んでいた。

「な...何をする!」ガレオンは叫んだが、彼の体からは急速に力が抜けていった。

「安らかにお眠りください、隊長」セラは静かに言った。「もう痛みはありません」

ガレオン隊長の体が床に倒れた。セラは慎重に彼の体を調べ、死因を病死に見せかけるよう細工した。

「これで一人」彼女は呟いた。

翌朝、基地はまたしても混乱に包まれた。光の騎士団の隊長の死に、兵士たちの間に不吉な噂が広がり始めた。

「これは呪いだ」「魔族の仕業だ」「神の怒りかもしれない」

レイモンド将軍は懸命に軍の士気を保とうとしていたが、連続する死は確実に兵士たちの心に不安の種を蒔いていた。

聖女エレナは騎士団の隊長の死を受けて、基地全体に祝福の儀式を行った。彼女の放つ光の力は、一時的に兵士たちの恐怖を和らげた。

「恐れることはありません」エレナは宣言した。「光の神は我々と共にあります。邪悪な魔族の謀略に惑わされてはなりません」

しかし、勇者パーティは着々と計画を進めていた。次の標的は、魔法部隊の司令官マーカス。彼は強力な攻撃魔法を操る魔道士として知られていた。

夜が更けると、魔法使いのガルスが魔法部隊の訓練場に向かった。そこでマーカスが夜遅くまで魔法の練習をしていることを知っていたからだ。

「マーカス司令官」ガルスは訓練場で一人練習していた男に声をかけた。「こんな時間まで熱心ですね」

「ああ、勇者パーティの魔法使いか」マーカスは振り返った。「お前も練習に来たのか?」

「はい」ガルスは微笑んだ。「実は、新しい魔法の組み合わせを考えていまして。少しアドバイスをいただけますか?」

マーカスは興味を示した。「ほう、どんな魔法だ?」

「こんな魔法です」ガルスは両手を広げ、複雑な詠唱を始めた。

マーカスは魔法の詠唱に聞き入っていたが、その内容に違和感を覚え始めた。「待て、それは通常の魔法の詠唱ではない...」

気づいたときには遅かった。ガルスの詠唱から放たれた黒い霧がマーカスを包み込み、彼の魔力を急速に吸い取っていった。

「お前は...魔族の手先か!」マーカスは叫んだが、彼の声は誰にも届かなかった。

ガルスは冷静にマーカスの命を奪い、そして死因を魔法の事故に見せかけた。訓練中の魔法暴走は珍しいことではなかったからだ。

「これで三人目」ガルスは静かに言った。

翌朝、マーカス司令官の死体が発見されると、基地内の不安はさらに高まった。三日連続で指揮官クラスの人物が死亡したのだ。

レイモンド将軍は緊急会議を招集した。「これは明らかに魔族の策略だ」彼は声を震わせて言った。「しかし、我々にはまだ勇者パーティがいる。そして聖女エレナ様の加護もある」

だが彼の言葉は、すでに恐怖に侵された兵士たちの心に響かなかった。

聖女エレナは会議の場で立ち上がった。「私が真実を見極めましょう」

彼女は両手を広げ、神聖な光を放った。その光は基地全体に広がり、魔族の痕跡を探し始めた。

勇者パーティは内心で焦りを感じた。エレナの力が彼らの正体を暴く可能性があったからだ。

「光よ、真実を映し出せ!」エレナが叫んだ瞬間、彼女の力が勇者レイに触れた。

レイは痛みを感じ、一瞬顔をゆがめた。エレナはそれを見逃さなかった。

「レイ...あなたは...」エレナの目が驚きと恐怖で広がった。「あなたの中に闇を感じる...」

この危機的状況に、レイは瞬時に判断した。「今だ!」

彼の合図で、勇者パーティの全員が一斉に行動を起こした。エドワードは弓で会議室の灯りを射落とし、暗闇の中でリンが素早くエレナに近づいた。

「エレナ様!」光の騎士たちが叫んだが、混乱の中で彼らは適切に対応できなかった。

リンはクロムから与えられた特別な粉末をエレナの顔に吹きかけた。それは一時的に光の力を弱める効果があった。エレナは意識を失った。

聖女エレナの血が地面に滴り落ちる音が、戦場の喧騒の中でさえ、リンの耳に鮮明に響いていた。彼女の手に握られた短剣は、まだ温かい血で濡れていた。

「やった...」リンは息を呑んだ。「聖女を...殺した」

彼女の声は震えていたが、それは恐怖からではなく、クロムの命令に従った満足感からだった。魅惑のスキルの効果は彼女の中で完全に根付いていて、クロムへの忠誠心が彼女の全てを支配していた。

「聖女が倒れた!」誰かの叫び声が戦場に響き渡った。

人間の軍隊の間に混乱が広がり始めた。聖女エレナの光の加護が、多くの兵士たちに希望と勇気を与えていたのだ。その希望の光が消えた今、彼らの士気は急速に低下していった。

その時、レイが前に踏み出した。彼の姿は威厳に満ち、まるで真の指導者のようだった。

「私がクロムを操っていたのだ!」彼の声は戦場全体に響き渡った。「あの魔族は私の手のひらで踊っていたに過ぎない!」

人間たちの間に驚きの声が広がる中、レイは剣を抜いた。そして、彼の目はかつての同胞たちに向けられた。

「滅びよ、人間ども!」

レイの剣が閃き、最初の犠牲者が倒れた。セラ、ガルス、エドワードもそれに続いた。勇者パーティは、かつての仲間たちに対して容赦なく剣を振るい始めた。


クロムは、クリミアの屋敷の最上階から遠く戦場を眺めていた。彼の横には、ダミアンが静かに立っていた。

「思った通りに進んでいるようですね、夫」ダミアンの声には満足感が滲んでいた。

クロムは微笑んだ。「ああ。あの聖女が私の計画の邪魔をしていたからな。魅惑のスキルが効かないというのは...興味深い問題だった」

「聖女の光の加護が解けたことで、人間の軍は大混乱に陥るでしょう」ミランダが書類から目を上げ、言った。

戦場では、レイの剣技が冴え渡っていた。彼の周りには既に多くの死体が横たわっていた。彼の目は冷たく、感情の欠片も見えなかった。

「レイ!何をしているんだ!」古くからの戦友である騎士長のマルコスが彼に向かって叫んだ。「目を覚ませ!お前は操られているんだ!」

レイはマルコスを冷たい目で見た。「操られているのはお前たちだ。人間と魔族の戦いなど、大きな力の前では無意味なゲームに過ぎない」

「何を言って—」

マルコスの言葉は途中で切れた。レイの剣が彼の胸を貫いたのだ。

「申し訳ない、古い友よ」レイは囁いた。「これがクロム様の望みなのだ」

戦場の別の場所では、セラが聖なる光の魔法を、かつての同胞に対して放っていた。彼女の魔法は以前よりも強力になっていた。それは、クロムの魅惑によって彼女の精神的な制約が解き放たれたからだった。

「聖女の加護など、私の力の前では無力だ」セラは笑った。

ガルスの破壊魔法は戦場を焼き尽くし、エドワードの矢は確実に指揮官たちの命を奪っていった。

「聖女エレナが殺された」クロムはクリスに言った。「これで我々の前に立ちはだかる大きな障壁の一つが取り除かれた」

クリスはうなずいた。


勇者レイの悲鳴が戦場に響き渡った。ガルスの放った最後の炎の魔法が空へと昇り、やがて消えていった。聖職者セラと弓使いエドワードはすでに息絶えており、盗賊のリンも聖女エレナを殺害した直後に人間の兵士たちに取り囲まれ、その命を落としていた。

「クロムを...操っていたのは...この私だ...」

レイは最期の言葉を吐き出すと、膝から崩れ落ちた。彼の剣が血に濡れた地面に落ち、金属音を立てた。

戦場は静寂に包まれた。人間の軍勢は勝利したが、その代償は余りにも大きかった。


クリミアの豪邸で、クロムは窓から遠くの戦場を眺めていた。煙が立ち上る様子から、彼の計画が成功したことを悟った。

「見事でしたわね」

背後からダミアンの声が聞こえた。魔王の親戚である彼女は、クロムの正妻として常に冷静沈着な態度で彼を支えていた。

「ああ」クロムは窓から離れ、居間の中央へと歩みを進めた。「だが、これで名が知れ渡りすぎた。しばらくは姿を消す時だ」

ミランダが書類を持って部屋に入ってきた。

「人間の国は大混乱に陥っています。聖女の死と勇者たちの裏切りで、士気は大きく下がっているようです」

クロムは満足げに頷いた。「完璧だ。我々の次の一手の準備をしよう」


その夜、クロムは四人の側室と正妻を集めた。

「私とダミアンはしばらく姿を消す。人間の国へ潜入し、次の計画を練る」

クリスの表情が強張った。「主様、どうか私も連れていってください」

「いいえ」クロムは断固として言った。「お前たちはここに残り、私たちは死んだことにしろ。『勇者パーティに操られていた魔族の富豪クロムは戦いで命を落とした』と」

マナが不安そうに口を開いた。「人間の国は危険です。光の加護を持つ者もいるでしょう」

「心配するな」クロムは微笑んだ。「私の変身のスキルは完璧だ。誰も気づくことはない」

ミラが膝をついた。「ご命令通りに」

ミランダは冷静に頷いた。「屋敷と事業は私がしっかり管理しておきます」

クロムはダミアンを見た。二人は目で合図を交わし、準備を始めた。

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