恋は同じフロアで

汐音 -Shion-

第1話|春の月曜日、彼女たちはそこにいた

【プロローグ】

「——ねぇ、悠真くん。もし、誰か一人を選ばなきゃいけないとしたら……誰を選ぶの?」


夜のオフィス。


人の気配が消えた会議室で、静かに響いたその声は、いつもの彼女らしからぬ揺れを孕んでいた。


ガラス越しに見える街の灯りは、春の雨にぼやけて、まるで現実じゃないみたいだった。


向かいに座るのは、**綾瀬 美月(あやせ みづき)**。


社内でも一目置かれる大人の女性。だけど、今の彼女はどこか、不安げだった。


僕は答えを探そうとする。けれど、胸の奥で交差する記憶が、それを拒んでくる。


——笑顔で隣を歩いてくれた、**成海 まお(なるみ まお)**。

——言葉よりも目が語っていた、**岩井 蓮(いわい れん)**。


気づけば、僕の日常はこの三人に、静かに、でも確かに侵食されていた。


何気ない毎日だったはずが、


気づけば、もう引き返せない場所に立っていた。


「……選ばなきゃ、いけないよな」


自分の声は、自分でも驚くほど小さく、頼りなかった。

---

月曜日の朝、東京・恵比寿。


雨上がりのアスファルトがきらりと光り、どこか気怠い都会の始まりを告げていた。


「よぉ、瀬戸。お前、また昨日も散歩してたろ?」


オフィスのエレベーターに乗り込むと、隣にはいつもの同期——**佐久間 航平(さくま こうへい)**がいた。


関西出身のノリのいいやつで、会社のムードメーカー。最近は勝手に俺を“トナカイ”と呼んでくる。理由は不明だ。


「昨日は表参道あたりをちょっとな。天気良かったし」


「ほら出た。散歩って名の自分探しな。トナカイ系男子だもんな、瀬戸は」


「トナカイ系ってなんだよ」


そんな他愛ない会話で一日が始まる。


フロアに着くと、すでに数人がデスクに向かっていた。


そこに、ひときわ目を引く姿がある。


淡いグレーのスーツに、肩までの髪をさらりと流した女性。


**綾瀬 美月**。同じ部署の隣チームでリーダーをしている、2歳年上の先輩だ。


「おはようございます、綾瀬さん」


「あら、瀬戸くん。おはよう。週末はゆっくりできた?」


微笑むその表情は、相変わらず隙がない。


けれど、ふとした瞬間、彼女の目がこちらをじっと見る気がして、少しだけ胸がざわつく。


デスクに座ってPCを立ち上げていると、後ろから声がかかった。


「ねぇ、悠真くーん。今朝、コンビニ寄ったでしょ〜?」


振り返ると、同じく同期の**成海 まお**がいた。


髪をゆるく巻いて、ピンク系のブラウス。今日も完璧に“あざと可愛い”を体現してる。


「なんで分かるんだよ」


「匂い〜。そのコーヒー、私も好きなやつ。今度おごって〜?」


「…今度な」


「やった〜。約束ねっ!」


無邪気に笑う彼女に、周囲の男たちの視線が自然と集まる。


それを計算しているのか、していないのか。俺には、まだ分からない。


午前の打ち合わせが終わり、休憩スペースで一息ついていると、新人らしい声がした。


「……瀬戸さん、これ、今朝の会議資料、違ってましたよ」


振り向くと、そこに立っていたのは、少し不機嫌そうな顔の**岩井 蓮**だった。


2年前に入社した後輩で、今月から俺のプロジェクトにアサインされている。


「マジか、ごめん。それ、こっちのミスかも」


「まあ……気づいたのが私だから、助かりましたね」


言葉はトゲがあるのに、どこか口調に照れが混じっている。


蓮はよく俺にだけ、こんな態度をとる。他の人にはもっとクールに見えるのに。


「今度、何かで埋め合わせするよ」


「……別に、いらないですけど。アイスとかなら、もらってあげます」


それ、埋め合わせ欲しいってことだよな。


でも、言い方がまるで真逆で、思わず笑ってしまう。


月曜の昼前。


いつもと同じオフィス。


けれど、ほんの少しだけ、何かが変わり始めていた。


僕の中で——いや、彼女たちの中でも。

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