17

 左右を木に囲まれた林道を走り抜け、広いさら地に出た。その中央にフラウエンの使節聖堂が見えた。その聖堂は以前綾人が脱出した時と同じように月明かりに照らされ、神聖さをまとった雰囲気があった。

「誰もいないな」綾人は周囲を見渡して言った。「中に入るか?」

「いや、リーゼロッテからの連絡を待つ。あっちはまだ到着していないはずだ」

 綾人は頷き、聖堂の扉に注意を向けた。敵はいつ出てくるかわからない。

「父さんの話を聞いた時から思ってたんだけど、お前、福音十字団エヴァンゲリオンと顔を合わせたことがあるんじゃないのか」

「ああ」ローレンツは周囲を警戒しながら答えた。「だからこっちに賭けた。ヴァレンシュタインがすでに廃教会へ向かっていた時点で聖女は解放される。そうなったら私たちの負けだ」

「聖女ってそんなに強いのか?」

「化け物だ。リヒトがいなければ勝てない」

 それを聞いて綾人は苦笑いを浮かべた。

「なら父さんも化け物だったんじゃないか」綾人がそう呟いて父の形見――ダインスレイヴに目を落とそうとした時だった。視界の端で何かが動いた。今彼等が通ってきた道の方だ。彼は顔を上げ、林道を見た。

 こちらへ歩いてくる人影があった。赤い髪を総髪にした男だ。

「手荒なことは控えていただきたい」とユリウスは言った。「昨晩夜襲に遭ったみたいでね。中で仲間が療養中なんだ」

 ユリウスは立ち止まった。二人とはまだ十数メートルの距離がある。

「やあ、ローレンツ・ヴィトゲンシュタイン。三年ぶりだな。まさかまだ我々の邪魔をしてくるとは予想していなかったよ。お前たち薔薇十字団のリヒトはとっくに死んだだろうに」

 だがローレンツは口を噤んだ。ユリウスは挑発的な笑みで綾人を見てきた。

「見たところ、ダインスレイヴを返しに来たというわけではなさそうだね、サクラバ君」

「これはあなたの物ではない。僕の剣だ」

「どういう意味かな」

 言葉通りの意味だ、と彼は答えようとした。しかしその前に「口数が多いぞ、ヴァレンシュタイン」とローレンツが言った。「さっさと魔剣を奪いに来たらどうだ」

 たしかにのんびりしている、と綾人も思った。ユリウスからすれば、今ここで魔剣を奪うことさえできれば平穏に取引を終えられる状況のはずだ。愛する者と再会できるかの瀬戸際にいるはずだ。それとも、聖堂の中にいる仲間に被害が及ばないかを心配しているのか。リゼが重症を負わせたパウルとか言うあの青髪の男――。

 ふと大事なことを思い出した。今まで忘れていたこと自体が迂闊だった。

「違う、ローレンツ」綾人は言った。「あいつの狙いは時間稼ぎだ」

「どういうことだ」

 その時だった。『団長。廃教会がもう制圧されてる』とローレンツに報告をしたリゼの声が綾人にも聞こえてきた。『聖女は未解放。足止めするからすぐにこっちへ』

「くそっ、やっぱりだ。あの赤毛の女だ」だからユリウスは林道から現れたのだと綾人はようやく気づいた。僕たちを通さないために――。

「もうそろそろだと思っていた」ユリウスは剣を抜いた。「あちらには行かせない」

「押し通る」ローレンツも抜剣の素振りを見せた。「アヤト、全魔力を全身に流し続けろ」

「でも、僕には少ししか――」

「だからだ。この際、魔力効率は気にしなくていい。枯れたら離脱。リーゼロッテと合流しろ」

 わかった、と綾人は腰を屈めて魔剣に手をかけた。身体中にありったけの魔力を流す。

 それでいい、とローレンツが彼の肩に手を置いてきた。すると彼の足元に薄紫の色を帯びた魔術円が現れ、身体が軽くなる感覚があった。ローレンツの魔術だな、と彼は察した。重力を操れることは知っている。

 ローレンツは剣を抜いた。

「おいヴァレンシュタイン」彼はユリウスに近付きながら言った。綾人は彼の斜め後ろについた。「さっき薔薇十字団の光は死んだと言ったな」

「気に触ったか」

「いやいや、少し可笑しくてね」

「何だ、やり合う前に気が触れてしまったのか」

「いいや。私はお前のことを笑っているんだ」ローレンツはにやりと笑った。「お前にはこの光が見えないのか?」

 その時、ダインスレイヴの柄から渦のような光が螺旋状に発生した。綾人はそれを手にまとったまま剣を引き抜き、天へと掲げた。そこには、光があった。

 黒剣の放つ一本の光柱は、新たな主人に力を授ける使者の雀躍じゃくやくの如き輝きだった。

「あの男がただ死にゆく者でないことくらい、わかっていたはずだ。その身朽ちてなお、その光――彼の遺志はここに生きている」

 アヤト・カミシロが生きている、とローレンツは言った。彼は剣を抜き、切っ先をユリウスへと向けた。

「それが、ローレンツ・ヴィトゲンシュタイン生涯最大の達成であると自負している」

 ユリウスはその光景に絶句していたが、やがて綾人を見つめる目が変化した。ユリウスは彼が何者であるか察したようだった。表情にゆっくりと怒りの色が広がり始めていた。

「そうか、あの男にもいたのか。リヒト・カミシロにも息子が」






 木々や草が生い茂った場所にその廃教会はあった。レ・コンカルラの住人もここにはあまり寄り付かないのかもしれない。リゼはカミラと共に開け放たれた両開きの扉の前に立った。

 屋根が崩れ落ちているおかげで教会内部にも月光が降り注いでいる。窓ガラスは全て割れていて、左右に並ぶ長椅子も半分以上なくなっているように見える。

 この寂れた教会の中で唯一綺麗に残っているのは祭壇とその背後にあるステンドグラスだけだ。何か神聖な力で守られているようだとリゼは思った。

 そんなことより――リゼは祭壇の上に目を向けた。そこには、宙吊りにされた幼女の姿があった。空中から生えた無数の鎖で両手を左右に縛られていた。虫が食ったような貧相な布一枚のワンピース姿で、長い金髪を垂らしている。意識はないようだ。彼女が聖女で間違いないだろう。

 だがリゼが注目したのは聖女を縛っている封縛の方だった。複数人の魔術師で練り上げたのだろう。高密度な結界と術式が何重にも張り巡らされている。自分は世界でもトップクラスの封印術師という自負が彼女にはある。だから解けないほどのものではない。しかしそれでも、見た限り解術に半日はかかりそうだと思った。

 この女の足止めさえしていれば聖女が解放されることはない――リゼは祭壇の前に立つ人影に目を向けた。赤毛を七三分けにした女だ。だがおそらく強い。妖政郷の警衛と思しき魔術師が二十三人、建物の外で倒れていた。いずれも意識不明、死亡の状態だった。

「カミラ、あの女と知り合いなのよね」リゼは訊ねた。「とんでもない封印術師だったりするの?」

「いいえ。封印術はできるけど、あの結界をこの場で解くほどの腕じゃないわ」

 彼女もあの高度な呪印が見えてるのか、とリゼは意外に思った。

「団長からの連絡が返ってこない。あっちでも何か問題が発生してる。あたしたち二人で止めるわよ」

 うん、とカミラは返事をし、腰に携えた剣を引き抜いた。

「エマッ」と彼女は叫んだ。「やめなさい。もう諦めてフラウエンに帰るのよ」

 赤毛の女は、敵意のこもった視線をこちらに投げかけてきた。

「昨晩パウルが重傷を負わされた。お前はそれを見て何もしなかっただろ、カミラ。お前はもう聖女の娘でも、福音十字団の仲間でもない。わたしたちの敵だ」

「あたしは聖女の娘よ。だからあたしはここに立ってる。もうその人に何もしないで」

「何を今さら。フラウエンの主戦派に転じた聖女派連中も、ユリウス団長では抑えが効かないところまで来ている。彼女の言葉があれば、彼等もきっと落ち着くだろう」

「思い通りにいかないってわかってるくせに……」カミラは歯を食いしばった。「もうお母さんを苦しめないでっ」

 リゼは地面に片手をついた。すると彼女の周囲にいくつもの虚空が現れた。虚空は薄く輝き、そこから槍の穂先のような尖鋭が顔を覗かせた。

「あの女を抑えるわよ」リゼはカミラに顔を向けた。「あたしは近接苦手だから、悪いけど前を頼むわ」

 ええ、とカミラは身体を屈めて突進の構えをとった。

「いいこと教えてあげる」リゼは赤毛の女に向いて言った。「あの青髪の男をやったのはあたしよ。ごめんなさいね、ボコボコにしちゃって」

 エマは目を見開いた。「殺すっ」彼女は剣を抜き、こちらに向かって歩き始めた。

 リゼの周りに出現したいくつもの尖鋭が飛び出した。その穂先は虚空から伸びた銀鎖に繋がれている。蛇のように空中を自在に動き、エマを目掛けていった。

「錬金術かっ」エマは大きく飛び退いた。

 穂先は地面に衝突し、教会内に衝撃音が響き渡った。同時に、床の埃が薄く舞った。

 その時カミラは駆け出した。剣を右下に構え、エマとの距離を一気に詰めた。

 対してエマは剣を上段に構えた。カミラが絶妙な距離感で大きく踏み込み、二人が同時に剣を振るう。

 二つの剣が重なり合おうとした時だった。その光景を目の当たりにすると同時に、リゼは背筋に悪寒を覚えた。

 両者の振るった剣は空中で静止していた。その間に、幼女の姿があるからだ。しかし二人が寸止めしたわけではない。そんな次元の斬撃ではなかった。そこに現れた幼女が止めたのだ。刃を避け、剣の腹を指先で摘んでいた。

 リゼは思わず祭壇の上を見遣った。吊るされていた幼女の姿は、当然なかった。

 まさか、あの結界を自力で破ったの――。

「やめんか、二人共」幼女が発した。「なんや騒がしいと思うたら」

 エマは剣を引き素早く鞘に納め、数歩下がってひざまずいた。

「お母さん……」カミラは悲痛な表情を浮かべ、その場に立ち尽くした。「どうして……」

「おぬしは後じゃ」幼女は摘んでいたカミラの剣を放し、エマを見下ろした。

「御身を解放しに参りました、猊下」

 誰がめいじゃ、と幼女は問うた。

「ユリウス・ヴァレンシュタイン団長でございます」

「そうか……」

「団長がお待ちです」

「なれば、行かねばなるまい」幼女は言った。「おもてを上げよ、エマ」

 エマはゆっくりと顔を上げ、幼女を見上げた。

わしが殺生を好まぬと忘れたか」幼女はエマに手の平を向けた。「うぬはちと頭を冷やせ」

 その瞬間、エマは身体を強張らせてその場に倒れた。ビクビクと全身を痙攣させた。

 幼女はカミラに向き直った。

「久しぶり、カミラ」そう言って幼女はカミラを抱擁した。彼女に対しては言葉遣いが違う。

「どうして出てきたの……」カミラは抱きつく幼女の背中に手を回し、剣を突き立てた。目に見えるほど震えている。

「わたしを殺すか」幼女は愛おしむようにカミラの胸に顔をうずめた。容姿が幼いだけに、甘えているようにも見えた。「それもいいな……」とくぐもった声で言った。

 大粒の涙がカミラの頬を流れた。ぽたぽたと幼女の額を濡らした。

「でも、わたしは行かなければ」幼女はつま先で背伸びをし、カミラの頬に口づけをした。

 カミラは倒れ込むように膝をついた。目の焦点が合っていない。意識を失ったようだ。

「二、三十分もすれば動けるようになる。また後ほど会おう」

 幼女は出口に向かって歩き始めた。リゼには目もくれない。

 リゼは一連のやりとりを見ておきながら、一歩も動けずにいた。身動きを許されないほどの圧倒的な存在感に息苦しさすら覚えていた。生物としての格が違うのだと思い知らされる。

 もうおしまいだ。聖女が解放されたからには、逃げるしかない。早く団長に伝えて、アヤトだけでも連れて逃げなければいけない。

 幼女が横を通り抜ける時、彼女は思わず息を止めていた。

 行かせてはいけない――。

 だが、その幼い少女の姿が消えて呼吸を整えるまで、彼女は指先一つ動かすことができなかった。

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