第4節「江戸の闇」

 元将軍付きの剣術指南役、中岡清次郎老人。今でも江戸ではかなりの発言権を持つ彼。阿形伝兵衛に関しては


「あの馬鹿せがれか。流石に、これはお灸を据えなければならんな。その点は安心して良いぞ、娘さんや」

「そうですか…(大丈夫…かな…)」


 あっさり事件は解決に向かっているようだ。小梅は呆気に取られている。だが中岡老人は続けた。


「しかし、根の果てまで炙り出すのは幾分か時間がかかろう…はて、この娘さん。誰かに似ておるな」

「添島俊介氏の孫娘さんですよ、中岡先生」


 中岡老人の疑問に弥右衛門が答える。小梅の祖父は顔が広かったようだ。中岡老人は我が孫を見るかのように、


「ほう!!俊介の!!彼には昔、大いに世話になったよ」

「おじいちゃんの…お知り合いだったんですか?」

「おうおう。あの頃はお互い、青かったなぁ。よく上の者に反感を買っておったよ。懐かしいな…」


 昔を懐かしむ中岡老人。だが、この件に関しては、後悔も大きかった。何かしら、場の空気が変わった気がする。そして、弥右衛門は先日の『事件』について、


「中岡先生。この子、先日『復讐屋』と遭遇したらしく」

「…何と。首があるところを見ると、相当な腕前なのか」


 これは相当の誉め言葉らしい。門下生の一部が大盛り上がりしている。何だか照れくさい小梅。


「おお!!小梅ちゃんが剣の神様に褒められてる!!」

「ついに、そこまでの域に達したのか~!!うちの道場の宝だな」


 しかし、その中岡老人の言葉の真意は、今は分かっていなかった。その証拠に弥右衛門はいつになく真顔だった。これは飄々としている彼には極めて珍しい。


「中岡先生、まさか…今でも?」

「馬鹿を言え、弥右衛門。とうに儂は現役ではないよ」

「いえ、そうではなく。『あれ』を使うおつもりですか?」


 だんだん二人の会話が分からなくなってきた。まるで二人だけの隠語を使って話しているみたいだ。


「うむ。『あれ』はまだ機能しておる。使わん手は無い」

「そうですか…。先生は西島英乃介という子をご存知で?」

「ああ。知っておる」


 それから二人の会話が止まった。一気に空気が凍り付く。それから半刻。弥右衛門は何らかの決意をした。


「…さてそろそろ、お暇(いとま)させていただくよ」


 言葉を発したのは中岡老人。それに弥右衛門が応対する。あの温厚な雰囲気はもはやなかった。まるで何かの条約が決裂したかのようにすら思える。重い。


「失礼しました。お茶も出さず」

「いやいや、余計な気を遣わせたな。すまんのう」


 中岡老人を見送る門下生たち。小梅は、


「中岡先生、また会えますか?その時は是非、ご指導ください」

「ほっほっ、儂はもう老人よ。立派な師匠がいるじゃないか。彼の教えに間違いはないであろう。励めよ、娘さん」


 こうして中岡老人は帰っていった。未だ弥右衛門の表情は強張ったままだ。事態は相当深刻そうなのは分かるが、道場の誰一人、意味が解っていない。


「…どうやら、僕の考えが甘かったらしい」

「へ?どういうことですか、先生?」


 弥右衛門のつぶやきを、小梅は聞き逃さなかった。


「ああ、いやいや。何でもないよ。さ、稽古を再開しようか」

「んー?(怪しい…)」


 小梅は疑惑を抱いたまま、竹刀を握った。

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