第8話「お前、エロ漫画の読みすぎだぞ。安心しろ、俺は幼児体形に興味はない。せめて胸はBカップに成長してから…」

「……」


 自称・聖女サマを名乗る女の子は、バスルームに入ったきり出てこない。 


 ずっと、シャワーを浴びている。


 ざーざーと流れるシャワーの音に、今度は光熱費のほうが気になってくる。ガス代だって馬鹿にならないのだ。あと五分待っても出てこなかったら、ガスの元栓を閉じてやろうか。


「……えっぐ、ひっく。……こんな辱めを受けるなんて」


 バスルームから出てきた少女は、まだぐずぐずと泣いていた。

 長い蜂蜜色の髪は、まだ濡れていて。

 同じ金色の瞳からは、大きな水滴が滴る。

 貸してやったTシャツからは、やはりサイズが合わないのか。わずかに小さな手が覗いていた。


「……こんなんじゃあ、もうお嫁にいけない」


「聖女ってことは、誰とも結婚しないんだろう? 今さら気にするようなことでもない、……あいたっ!?」


 ゴスッ、と飛び蹴りが飛んできた。

 それをまともに受けて後頭部から倒れる。……というか聖女を名乗るなら、その手癖足癖の悪さを何とかしろ!


「元はといえば、あなたのせいじゃないですか! トイレの鍵が壊れているなんて、どうして放っておくの!?」


「うるさいなぁ。昨日、壊れたんだ。それに子供が小便を漏らしても誰も気にしない、……おぐはっ!?」


 腹へのボディーブロー。

 呼吸が一瞬止まり、次郎はその場に崩れ落ちる。


「誰が子供ですか!? これでも今年18歳になる立派な淑女です! あなたは私が誰だか、ちゃんと理解しているのかな!?」


「聖女様に憧れている頭のおかしい『モブ子』だろう?」


 ……え。

 ……これからもその名前で呼ぶつもりですか? 


 信じられない。

 聖女の瞳から光が抜け落ちていく。シャルロット・ヨハネ・ール・ライトストーンと名乗ったはずの少女は静かに絶望した。


「ったく、いったい何が不満なんだ? あの高そうなドレスはクリーニングに出してやったし、あんたが着ていた子供柄の下着は洗濯中だ。……おっと」


 モブ子が放つ右ストレートを、ギリギリでかわす。

 くそっ、外したか。

 と、とても汚い舌打ちを聖女様は漏らす。


「おいおい。替えのパンツもないお前に、服まで貸してやってるんだぞ。俺のお古だが。感謝こそあっても、どうして憎まれなくてはいけない?」


 やれやれ、とため息をつきながら。 

 次郎は先ほど撮ったスマホの写真を眺めている。


「そ、それですよ!? あなた、今なにの写真を見ているの!?」


「なにって? 世にも珍しい、聖女様がお漏らしをした写真だが?」


 次郎は注意深く距離を取りつつ、手に持っているスマートフォンの画面を見せる。


 そこには、トイレの前で。情けなく座り込んで。泣きそうな顔でこちらを見上げる少女が一人。当然、その床は大洪水が起きていた。


「し、処す!」


「おっと、危ねぇ。悪いがこの写真は消してやらねーぞ」


 モブ子が飛び掛かってくるのを避けながら、次郎は邪悪な笑みを浮かべる。

 その顔には、極悪非道と書いてあった。


「ふふふ。この陣凱町は世知辛くてなぁ。バイトで食いつないでいるが、生活はギリギリなんだ。その点、この写真は高く売れそうだな。ちっと発育不良が目につくが、マニアには垂涎ものだろう」


 くくくっ。

 はーっはっは、と悪魔のように高笑いをしながらスマートフォンを掲げる。


 その姿を見て、聖女こと。

 モブ子は怖がるように自分の体を抱きしめる。幼い外見の少女が、不安に震えている。


「ま、まさか。その写真で私のことを脅して、あーんなことや、こーんなことを」


「お前、エロ漫画の読みすぎだぞ。安心しろ。俺は幼児体形に興味はない、せめて胸はBカップに成長してから……おぐわっ!?」


 とうとう、狂気に目を燃やした少女が飛び掛かってきた。

 両手で首を絞めながら、憎しみの言葉を吐き続けている。

 それが聖女様のすることか!?


「……し、……死ぬ」


「えぇ、死になさい。この腐れ鬼畜野郎が。あなたはここで死んだほうが世のためよ」


 あ、ダメだ。

 この女。完全にイっている。


 瞳から感情が抜け落ちているし、どこの国の言葉かわからないが、何か呪文のようなものを唱えてやがる。そのせいなのか、どんどん体から力が抜けていく。


 だが、次郎とて。

 人外魔境と呼ばれる陣凱町で立派に生きている高校生だ。この程度のピンチで、メシの種をなくすわけにはいかない。

 冷や汗をにじませて、喉から声をしぼりだして。必死な形相になりながらも、少女のお漏らしの画像を死守しようとする。


 だが―


「ぐふっ」


 次郎の体から力が抜けて、だらんと腕を床に落ちる。口からは泡を吹いて、びくびくと痙攣している。


「っ!?」


 その瞬間。今がチャンスといわんばかりに、少女は次郎を放り投げると。スマートフォンの画面が暗転してロックする前に、手早く画像を消したのだ。


 ふぅー、これで証拠は消滅ですね。

 少女の顔に安堵が広がる。

「まったく、この私を相手に脅迫するなんて考えが甘いですね。これを機に心を入れ替えて、清く正しく生きていくことをお勧めします。そう。聖女である私のように!」


 満面の笑みで振り返る聖女様。

 それは誰もが恋に落ちるような、世界で一番可愛い微笑みだった。


 だが、彼女が振り返った先にいたのは。

 既に呼吸が止まった状態で、生死の境でピクピクと痙攣している、このアパートの家主だけだった。



――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――



【8月31日 9時37分(日本時間)】

 薄暗い教会にて―


 男が信者たちに向かって手を上げている。

 60歳くらいの壮年の男だった。

 髪はすでになく、顔に走っている皺が頭上にまで走っている、それでも年老いた印象は受けない。大柄な体格もあってか、毎夜のように若い女を呼びつけるくらいには精力が強い。地位も財力も信仰も、そのすべてを持っていた。柔和な笑みを浮かべて、信者たちの信望を集めている。


 聖マリアナ福音教団の教祖。

 マルゲ・ヨハネ・デブリーク。

 月末に行われているミサの挨拶を終えて、教祖である彼は壇上から自室へと向かっていく。その間も拍手が絶えない。誰もが教祖のことを敬い、崇拝していた。それは見ようによっては、異様な光景であった。




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