第2話 休み時間のぶどうジュース。

「しおかぜ塾」は、午前8時から3時間の「集中講義」で今日も幕を開けた。講義の前半は再来年の受験対策なんだけれど、後半の一時間は「洋書」を読む時間を弁天先生が設けてくれてる。


 今日は「ナルニア国物語 ライオンと魔女」の中の一章、「Lucy looks into a Wardrobe」という章を「辞書なし」で意味を推測してみたよ。


「さすがにわかんねー。せんせ、この本全部読んだの?」

 男勝りの豪快な口の利き方をするのは丸井璃奈まるい・りなちゃん。わたしや速水さんとは別の中学校の「学年一位」なんだ。


 うちの塾は、速水さん、わたし、璃奈ちゃんの三人しかいない。講師の弁天べんてん先生が海外漫遊の旅の合間に、その年ごとの「中学二年生」を気まぐれに教えてる塾だからね。


「もちろん! 『ナルニア国』は、ちょうどあなたたちの年齢で英語版を読んだよ! 未知の世界にワクワクしながらね! 全文読んでほしいくらいだけど、とりあえず、今日はプリントのあたりまで。みんなはどう? 伊月は? 英語得意だもんね!」


「なんとなく、ふわっとなら、伝わってきます」


 わたしが言うと、「伊月。そのセンスは大事だよー!!!」と、弁天先生は真っ白な歯を見せて笑った。


 その講義も終わると、11時から30分の休憩がある。休憩時間は、大切な水分補給時間。なおかつ、気分転換のお散歩タイム。


 11時半からの講義は2時間で、また一教科の講義をぶっ通し。今日は前半は英語、後半は数学。


 璃奈ちゃんがうーんと伸びをした。日に焼けた肌がまぶしい湘南ガール。髪の毛も少しだけ茶髪で、これは生まれつき。スペイン人のママと日本人のパパとのダブルなんだ。


「伊月。散歩しよ。さくー。なんか飲み物いるかー?」

 璃奈ちゃんは質問した。


「あ、麦茶あるんで……結構で、す」


 速水さんは陽キャラの璃奈ちゃんのことが苦手らしくて、目を合わせずにボソリボソリと答えてる。


「脱水症状になっても知らないよー🎶」


 速水さんの持ってる、アニメの猫柄がかすれた水筒に目を落としながら、璃奈ちゃんは明るく言った。


 自販機までは徒歩5分。


「今日はとりわけ暑いなー。38度らしいね!」

 

 噴き出る汗をピンク色のタオルで拭きながら、璃奈ちゃんは眉をしかめる。


「あいつ、あんな小さな水筒で、講義中に倒れないのかなー」


 璃奈ちゃんは扇子でパタパタとわたしにも風を送ってくれる。


 いつもの自販機を見つけてわたしたちは小走りになった。

 路地に迷い込んだ観光客が買ったのか。あいにく烏龍茶や緑茶が売り切れていて、ペットボトルのぶどうジュースを二個買った。


 璃奈ちゃんは当たり前のように、塾に引きかえそうとしたけれど。


「ごめん。やっぱり、速水さんの分も買うよ!」


 わたしは大きな声で「宣言」した。


 璃奈ちゃんは目をまんまるく見開いた後、ケラケラ笑う。


「『速水さん』って言い方ー!!! リスペクト半端ねえし! 『朔』でいいじゃん。好きなんでしょ?」


 璃奈ちゃんは大声で笑い、塾の講義の疲れを発散してる。

 

 陽射しが照りつけて干からびそうなので、わたしたちは急いで塾に戻った。


「速水さん、熱中症になるといけないから。おせっかいかもしれないけど、買ってきたよ!」


 わたしはぶどうジュースを速水さんに差し出した。たったそれだけのことなのに、顔がものすごく真っ赤になってしまう。


 速水さんは、いつも細い目を少しぱっちりさせて、まじまじとわたしを見てる。水面に映った満月みたいに綺麗な目。

 一瞬、目と目が合った時間は尊くて。


 速水さんはこらえきれないように、肩を上下させて笑い始めた。笑いはなかなか止まない。


「速水さん?」


 何がそんなにツボにハマったのか気に掛かって、わたしは臆病な目をして、速水さんの名前を呼んだ。


「いや。兄貴と同じことするなー。双子ってこわいなー。って。伊月ちゃん、さ」


 まさかの「伊月ちゃん」呼び。


 速水さんは、わたしに近づいた。香水みたいな、彼の少し甘い匂いがする。わたしの頭を彼はポンポンと優しく叩く。


「俺んちって、ペットボトルもろくに買えないくらい倹約精神にあふれてて、さ。毎日、氷たくさん入れた麦茶作って、水筒に入れてる。俺にはペットボトルって『贅沢品』なんだよね。ハンバーガー屋さんも、人生で三回しか寄ったことなくて」


 いきなり、中程度に重い「告白」が始まった。速水さんは淡々と続けた。


「俺っていつもダルそうだと思う。正直、食べ盛りなのに、肉も魚も米も、周りに比べて全然足りてない。そういう『俺』だからさ。ペットボトル、ありがと。もらっておいて、小学生の弟妹と分けて大切に飲むよ」


「朔ー。お前、大変なんだなあ」


 グスグスと鼻を鳴らして、璃奈ちゃんがわたしの代わりに答えた。速水さんは、璃奈ちゃんをちらりと見ると、「わたしに向かって」付け加えた。


「誤解ないように伝えるよ。うち、結構な資産家だから! 車も3台あるし、1台なんて、レアなビンテージだし。俺の部屋も結構広い。この塾の二階の三倍くらいはある。ただ、スッゲー、親がケチなんだよ! コンビニでの買い食い禁止で、テレビも見せてもらえない。夕飯に、お寺の精進料理みたいな健康食食べてる」


 速水さんの謎が深まっていく。


 うちの兄貴、葉月兄貴が、速水さんを嫌う理由って、「こういうところ」なんじゃないかな。


 でも、わたしはもう、「沼に落ちて」しまったみたい。速水さんの顔を今日はもう、まともに見られないよ。

 

 彼の席はわたしの隣。足を少しだらしなく投げ出して座ってる。道場育ちのわたしや兄貴と違って、正座が苦手なんだと思う。


 お行儀の悪さが尊い。いつか、男の人に、わたしのピュアな部分を「壊されて」しまうなら、それは速水さんなんだろうな。とわたしは密かに思ってる。


 湘南の海辺で、背後から、ギュッと抱きしめてほしいよ。


 なんて、思ってるのが彼や璃奈ちゃんにバレたら、わたしはもうどうしようかと思う。

 



 


 

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