第10話 渡日

 カタカタン——

 

〈フェル〉の入り口の扉が勢いよく開く音——〈魔法をかき混ぜ中〉の札が揺れた音——がして振り向くと、

 

「ただいま!——やあ!もうみんな揃ってるのか」

「おかえり、ダッド」

「おかえりなさい。陽子がまだね」

「こんにちは!」

「……」

 

 勢いよく店に入ってきたのは、年の頃は40代後半、ナイトブルーのライトジャケットに濃いグレーのカーゴパンツ、カジュアルだがおしゃれ感が漂う、アッシュブロンドのおじ様。

 

 リディの父、スヴェン・アンスガル・リンドグレンだ。

 

 ライトジャケットの下は、生成りのヘンリーネックのTシャツで、足下はミリタリーブーツ。かなり年季が入っているが、よく手入れされている。

 肌はリディと同じ真珠色で、一見して北欧系とわかる。北欧系に多い髭は無く、口元はスッキリしている。よく見ると、瞳が珍しい色をしている。翡翠のようなグリーングレー。世界でも稀少な瞳だ。

 

 スヴェンは立川——〈フェル〉からもほど近い昭和記念公園の側にある、〈国立極地研究所〉に所属している地質学者だ。

 専門分野は〈極域地質学〉で博士号PhDを持つ。南極大陸の厚い氷床の下に眠る地下資源の調査・研究で、世界でも注目されている研究者のひとり。

 8年前、この〈国立極地研究所〉に招かれて、長年の憧れだった日本へやってきた。

 同じく〝日本推し〟の妻・アイリーンも大喜びで、まだ数ヶ月も先のことだというのに、あっという間に転居準備を整えてしまった。日本での住まいから、引っ越し荷物の輸送、留守にするサンディエゴの自宅の貸し先まで早々に決めてしまったので、仕方なく〈休暇〉ということにして、1ヶ月半ほど前倒しで渡日したのだった。

 

 たいへんだったのはリディだ。多感な年頃でもあり、親友・バディのアッシュとも離れがたいうえに、夢中になっていたビーチ・バレーができなくなると聞くと、〈断固反対〉の徹底抗戦態勢。

 

 部屋にバリケードを設けて立てこもる

 ——2日と保たなかった。

 

 ハンガー・ストライキ

 ——翌早朝、キッチンで隠れて夕食の残りを食べてるところを、アイリーンに発見された。

 

 リディ法

 ・引っ越し禁止

 ・アッシュとの分断は人権侵害

 を制定

 ——アイリーンに論破されて泣き怒り、今度は3日間立てこもった。

 

〈採用取り消し通知〉を偽装

 ——日本語が不自然で、ネット翻訳を使ったのがバレバレ。

 

 などなど、思いつく限りの手段で抗議行動を繰り返す始末。

 

 そうかと思えば、ならばリディだけオーシャンビーチの祖父母の家に残るか?と尋ねると、

 

「マムとダッドだけズルい!」

 

 と怒り出す。リディもたいがい〝日本推し〟なので、行きたい気持ちも強かったのだろう。

 

 さらに頭を抱えたのがアッシュだ。

 リディのビーチバレーのパートナーであり、親友のアッシュは、スヴェンの転職・引っ越し計画を耳にすると、猛烈に激怒した。当のリディも面食らうほどの勢いで、リディよりずっと陰湿かつ悪質な抗議行動を展開した。

 アイリーンと相談しようにも、彼女は彼女で引っ越し計画に没頭していて、話を聞いてもらえない。

 

 困り果てたスヴェンは、アッシュの母親に相談することにした。アッシュの母親は、スヴェンとアイリーンとは旧知の仲。アイリーンの幼なじみでもある。

 相談すると彼女は大笑いしながら、

 

「大丈夫よ、気にしなさんな!笑」

 

 とどこ吹く風。

 がっくりと肩を落としたスヴェンだったが、彼女はアッシュの激怒の原因を知っていたらしい。後日、

 

「ね、平気だったでしょ?まだまだ子ども。可愛いものよ」

 

 引っ越しの日が近づいてくると、抗戦手段のアイデアも尽き、アッシュの勢いにも疲れ、飽きてきたリディとは対照的に、アッシュの攻撃は勢いを増していた。

 スヴェンは、

 

 そんなにリディと離れたくないのか。

 気持ちは分かる。ここまで思われる友人を持てたリディは幸せだ。

 

 などと思っていたのだが。

 

 そして引っ越しの当日。

 リンドグレン家の3人が、我が家との別れを惜しんで記念の家族写真を撮っていると、アッシュがやってきた。リンドグレン宅の前に仁王立ちするアッシュの側には、いつもの愛車——愛用の真っ赤なマウンテンバイク——がない。

 替わりに大きなスーツケースが2つ。

 両手の拳を握りしめ、口元をひしっと結び、少し涙が潤む瞳で、真っ赤な顔をしてこちらをにらんでいる。大荷物を持って自宅から歩いてきたのだろう。初夏の暑さに汗ばんでいて、少し息も上がっている。

 

「アッシュ…」


 リディがアッシュに駆け寄った。その声は涙に揺らいでいて、スヴェンの目にも涙が溢れてきそうだ。

 駆け寄ったリディはアッシュに抱きつくように両手を広げて——すると、

 

 パンッ

 

 アッシュがリディの右手を外にはたいた。

 

 パンッ

 

 続いて左手。

 

 パンッ

 

 最後、ビーチバレーで培ったスナップのきいた平手が、リディの頬を捉える。

 

 たまらずよろけるリディ。

 

 涙が止まった目を開け広げ、瞬きを繰り返すばかりのアイリーン。

 

 口をぽかんと開き驚愕の表情で固まっているスヴェン。

 

 打たれた頬をおさえながらアッシュに再度向き直ったリディは、反撃すべく手を振り上げたが、アッシュに腕を掴まれ抑えられてしまった。

 

 紅潮したアッシュの頬には溢れる涙が流れている。

 リディの腕を掴んだまま、アッシュが叫んだ。

 

『ズルい!!!なんでおまえだけ!!!馬鹿野郎!!!わたしも連れてけ!!!!!』

 

 そしてわんわんと大声で泣き出した。

 

 ぷっ

 

 隣でアイリーンが吹き出し——けらけらと笑い出す。

 つられてスヴェンもげらげらと笑い出す。

 

『おまえら!!笑ってんじゃない!!』

 

 泣きながらアッシュが叫ぶ。

 リディもばつが悪そうにクスクス笑い出した。


 ことの真相はこうだ。

 リディは、引っ越しの話を真っ先にアッシュに伝えた。

 

 断固反対!

 私は絶対に行かない!

 この計画はなんとしても阻止する!

 

 などと言いながらリディはその時、

 

 日本がどんなに素敵な国か。

 あれもこれも魅力がいっぱい。

 ぜったい行きたい国。

 日本に行ったらあれもしたい、これもしたい…

 

 と嬉しそうに語ったのだそうだ。

 

 ——ママ・アッシュはその時その場にいて、全部聞いていた。

 

(ああ、リディ…)

 

 スヴェンは思った。

 それは怒る。アッシュの激怒は当然だ。

 あんなに陰湿で悪質で執拗な抗議を受けたスヴェンでも、アッシュに同情せざるを得ない。

 

(ああ、アッシュ。悪いことしたな…)

 

 当のリディは平手を喰らってもまだわかっていなかったようで、日本へ向かう飛行機の中でアイリーンに諭され、やっと気付いて青ざめる、という始末だった。

 

 このリディとアッシュの大げんかは、日本に来てからもしばらく続いていたが、二人は毎日ビデオ通話をしていた。

 だいたいいつもアッシュからかけてきて、執拗にリディの日本行きに悪態をつく。リディはたじたじとしつつも右から左へと聞き流し、アッシュが落ち着くのを待つ。落ち着いてくると、

 

「それで今日の日本はどうなのよ」

 

 と様子を聞いてくるので、リディは待ってましたとばかりに話し出す。

 

 そんな毎日がしばらく続いていたが、ある日からピタリと、アッシュからのビデオ通話が来なくなった。リディからかけても、

 

「ごめん、今ちょっと…」

 

 と切られてしまう。

 そんな日が一週間ほど続いて、久しぶりにアッシュから通話がかかってきた。

 その日は初めから上機嫌で悪態は無し。しかもなんと内容は、ボーイフレンドののろけ話だったという。


 その話を聞いて少し狼狽したスヴェンはリディに、

 

「〈アスティ〉にはボーイフレンドはいないのかい?」

「その呼び方やめて。——そういうの、よくわからないんだよね。友だちは友だちじゃん?」

 

 ホッと胸をなで下ろしたスヴェンを横目に、アイリーンがニヤニヤしていた。

 

 

 そんなリディも、もうすぐ高校を卒業する。

 すっかりレディになって、とても魅力的なボーイフレンドもいる——

 

 スヴェンはカウンター——リディの隣に座り、愛妻が入れた珈琲を飲みながら、テーブルの方へ目を向けた。

 そこには何かをじっと見つめている少年が座っている。

 

 フジイ・ソラ——吸い込まれるような不思議な瞳をもった少年。

 スヴェンは初めて会ったときから、彼には世界の全てを読み解くような、そんな可能性を感じている。

 

(実に興味深い…)

 

 つい研究者癖がでてしまうが、娘の友人に対しては失礼だな、と押しとどめる。

 

 彼とリディはもう長い付き合いのはずだが、アイリーンによると恋仲というわけではないらしい。

 だいぶ前にスヴェンもリディに尋ねたことがあるが、

 

「ちがうちがう、そんなんじゃないって笑」

 

 と、ケラケラと笑っていた。

 

(だがいずれきっと…)

 

 と、リディをはさんでひとつ向こうの席に座る、可愛らしい制服姿の少女に目を向けた。

 少女もこちらを見ていて目が合った。

 

(………)

(………)

 

 なんとなく、思いが通じ合った気がする。

 

「ちょっと!視線で会話するとかやめてよ」

 

 とリディ。

 なんでわかったのだろう?

 見ると、少女——美咲がちろっと舌を出していた。

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