桜彩ル蒼キ日々——現シノ空ニ描カレシ結ハ、今ゾ解カレン
風祭 航
第1話 魔王
(キモチイイ…)
ベンチの背もたれに身を投げて空を仰ぐ少女がつぶやいた。いや、そう聞こえただけかも知れない。少女自身も
(声に出てたかな?)
と思ったが、別に気にはならない。少女の周囲は心地よいピアノの音で満たされているので、他の人には聞こえるはずもない。
平日の昼過ぎだというのに、歩道には多くの人々がのろのろと行き交っている。皆、上を見上げていて足元がおぼつかない。いつもならこの容姿が人目を惹いて、背中がもぞもぞするところだが、今日は——一年のこの数日だけは気にならない、お気に入りのひととき。指ハート。
だらんと伸ばしたすらりと長い腕の先に、真珠のような白い手と、ハート型に交差した細く長い指。スポーツのため爪は短く切り揃えられ、左中指のテーピングが痛々しい。
座っていてもわかる長身——日本では——にスレンダーな体つき。薄いピンクのパーカーにスリムなデニム、長い足の先には白いスニーカー。
スポーツ少女らしいショートボブの髪は淡いブルネット。日本人には染めているように見えるだろうが、母親ゆずりの地の色だ。空に向いた整った顔立ちを真珠色の肌が際立たせている。目を閉じているので瞳の色はわからない。
パーカーの右袖には、
Exsurcia Academy High Shcool
の文字が読み取れる。
イクスサーシャ学園高校
ここからほど近くにある、少女が通うインターナショナル・スクールだ。少女はその最終学年——12年生に在籍している。
このパーカーは少女が所属するバレーボール・クラブのサブウェアなのだが、少女は常々、
(ピンクでさえなければ一軍にしてもいいのに)
と思っている。でも、
(この時期だけは特別)
なのだそうだ。
少女は大きく息をしてゆっくりと目を開いた。そこには吸い込まれそうなヘーゼルの瞳。これも母親ゆずりだ。
真っ直ぐ天頂を向いた瞳に写ったのは、パーカーと同じ薄いピンクに染まる空——
駅から真っ直ぐ南へ下る片側二車線の道路。その両側には幅3メートルほどの広い緑地が設けられ、その外側がやや狭い歩道になっている。緑地には約2キロにもにわたって桜の木——〈ソメイヨシノ〉が並ぶ。
東京・国立、大学通り。都内有数の桜のメッカだ。
2024年4月6日——今年は桜の開花が遅れに遅れ、ここ東京・国立では今日がピークの大満開。卒業式には間に合わなかったが、入学式を満開の桜と迎えられるのは、さぞかし嬉しいことだろう。
少女の座るベンチは、この桜並木の緑地の一角にある。そのすぐ側には透明なドーム——背丈より二回りほど大きい、透明なサッカーボールを半分に割ったようなドームがあり、その中に小ぶりなアップライト・ピアノが置かれている。
そのピアノは先ほどから軽快だが力強い音を奏でていて、花見客の耳を撫で足を止めさせている。
4分の5拍子。誰もが耳にしたことのあるフレーズが、ピアノの前に座る少年によって徐々に複雑になり、そして不快手前ぎりぎりのハーモニーに展開して、また耳慣れたフレーズに戻ってくる——そんな繰り返しがかれこれ10分近くになる。足を止めた聴衆もさぞ飽きてるかと思いきや、見事な演奏に聴き惚れている様子。
しかし——
少女はドームの入り口に立つ女の子を見とめた。小学校高学年くらいか。大事そうに楽譜らしき冊子を抱いて、やや怨めしそうに少年の背中を見つめている。
(そろそろ止めるか…)
少女はよいっと立ち上がり、ドームの入り口に身を入れて少年に声をかけた。
「ソラ!」
十分に聞こえている声量だったが、少年は白黒の鍵盤の上を走らせる指を止めようとしない。
「ソーラ!」
少女はもうひと目盛り声量を上げたが、指は走り続けている。
ふと、業を煮やしたのか先ほどの女の子が少女の脇をすり抜け、少年の背後に近づこうとして——
「あ、ダメ!」
少女は女の子を慌てて静止した。
「ゴメンね」
少女は女の子に微笑んでから、ピアノの背後——少年の正面へと回り込み、少年の目線の先で手を振りながら、
「ソラ、ほら、もう終わり!次の子が待ちくたびれてるよ!」
すると、唐突にピアノの音が消え、辺りはすぐ側の車道を行く車の音に変わった。
何もない空間に焦点していた少年の目線が、ゆっくりと少女のそれと合うと、
「あ、ごめん…」
少年はスッと立ち上がりピアノから離れようと振り向くと、そこに楽譜を抱いて立つ女の子が——
ビクッ!
少年の身体は硬直し鼓動が跳ね上がり——
——ふわっと安らかな香りが寄り添ってきて、
「大丈夫」
意識を手繰りよせるような柔らかい声が耳をくすぐって、少年は平常に戻る。
ほんの数秒のこと。辺りの人々は誰も気づいていない。
ぱらぱらと聴衆の拍手が聞こえてくる。少年は無表情で向けらる視線をすべてかわし、ドームを出た。少女もそれに続く。
「ごめん」
つぶやく少年に、
「あれはしょーがない」
少年の視線を覗き込んで破顔する少女。一瞬、二人の視線が交わったが、逃げるように少年の視線は外れ空間を泳ぐ。
「上出来」
少女はもう一度破顔した。
少女はその一瞬の視線の交わりが、とても嬉しかった。なにしろ、彼と一瞬でも目が合うようになったのは最近のこと。もう6年近い付き合いだというのに、最近まで彼が目を合わせてくれることはなかったのだ。
不満なわけでもないし寂しいわけでもない。これも彼の特性の一つであり、少女には愛らしく思える。でもあの日、ただの偶然だったのだが、視線が交わっても彼は逃げなかった。
ほんの数秒だったのか、それ以上だったのかわからないが、少女には最高に幸せな瞬間であり、初めて覚える幸福感に驚愕した。舞い上がった彼女は、すぐに目を逸らした少年にしつこく、
「もう一度!もう一度だけ!」
とねだり————少年はパニックに陥った。
(あれは久しぶりにヤバかった。ミサキがいなかったらどうなってたか…)
それから時折、ふとしたときに一瞬だが目が合うようになった。どうやら少年にも感じるところがあったらしい。彼曰く、
「幸福感は脳内神経伝達物質がうんたらかんたら…」
だそうだが、少女にはそんなことはどうでもよく、隙あらば目を合わせるべくチャンスをうかがっている。
二人は先ほどのベンチに並んで座った。
細い足を投げだしてだらりと座る少女とは対照的に、少年は足を揃え姿勢を正している。黒いTシャツのタートルネックを几帳面に直しながら、空を覆う〈ピンクのもこもこ〉——満開の桜を見つめている。
少女に〈ソラ〉と呼ばれた少年——
これといって特徴があるわけでもなく、特に美男子でもない。どこにでもいそうなごく普通の男子高校生なのだが、なんと言えばいいのか——
その表情——なんの感情も読み取れない、まさしく無表情。身体の内から何かが溢れ出てくるのを、あるいは外から何かが飛び込んでくるのを防ぐかのように、きりっと一文字に結んだ口元。
その目——まるで宇宙の果てを見つめているような、果たして混沌あるいは静寂の深淵を覗いているような、深い深い瞳。
初めて彼と向き合う人々は皆、その顔立ちに目眩のような感覚を覚える。決して不快なものではないが、強いていうなら圧倒的な敗北感とでも言うべきか。太刀打ちできない巨大な何かを前にして、ただ畏敬を覚える——そんな感覚だ。
少女も然り。あの感覚に慣れるまでだいぶ時間がかかった。今の彼女にとって〈藤井 空〉は絶対的な尊敬と畏怖の対象で、実は密かに〈魔王〉と呼んでいる。
空の可愛らしい妹——美咲に言わせると、
「どっちが〈魔王〉だかねえ…」
となるのだが。
一方、彼女にとって〈魔王〉は激しく愛らしい存在でもある。
でもその気持ちは誰にも知られてはならない。
この私が——クールで面倒見の良い姉御肌の私が、愛らしさに狂おしくなる、などということはあってはならない。クローゼットの奥の奥の奥に〈極秘の箱〉があることなど、マムにも知られてはならないのだ!。
(はぁはぁ…鎮まれアストリッド…)
隣で〈ピンクのもこもこ〉を見つめる、空の瞳に酔っていた自分を振り払い、その視線の先を追ったその時。
傍らの〈魔王〉がすっと立ち上がった。
* * *
——アラスカ アリューシャン列島アダック島南方域——
彼が薄く目を開け、青みを帯びたグレーの瞳が見えたところで、〈彼女ら〉は声をかけた。
「おはよう、アレックス」
薄暗い部屋に響いたのは、ミドル・ティーンを思わせる若くはつらつとした声。
カーテンの隙間から射し込む光は、春の朝の澄んだ暖かさを帯びていて、〈彼女ら〉の声も心なしか弾んでいるように聞こえる。
「起きて、アレックス。寝てる間に日付変更線を越えたから、今日もまた4月5日だよ」
彼が寝ている寝室は、彼専用のスイートの一室で、広さは約15平米(約10畳)ほど。大きめのダブルベッドとサイドテーブル、小ぶりなチェストとクローゼットがあるだけの、裕福な彼にしては小さな部屋だ。
もちろん彼の自宅の寝室は、この何倍も広い——
ベッドの真ん中で彼がもぞもぞと動き出した。両腕を真っ直ぐ頭の上へ伸ばし、声を出して大きなあくびをひと呼吸。9割方白くなったアッシュベージュの髪は、寝癖でところどころ跳ねている。
〈彼女ら〉は微笑みながら思う。
(こんなとき人間なら、そばに寄り添って髪を撫でたりするのだろう)
(そうしたらアレックスは喜ぶだろうか)
「ホウー」
部屋の隅から、肯定とも否定ともとれる声がした。
そこには、観葉植物の木の上に突き出した止まり木にじっとたたずむ、白銀のフクロウが一羽。きょろっと頭を回し、真円のふたつの眼がこちらに向いている。
瞬間、彼の思考が届いた。
(戸惑うであろうよ。
と同時に、
「ホホウー」
ともうひと声鳴いて、フクロウは視線と頭を彼に向けた。
「おはよう、トート。ハミィもおはよう」
彼は上半身を起こし両手で眼をこすると、もう一度伸びをした。
すると彼を真似るように、トートも白銀の翼を広げ、大きく伸ばして見せる。
〈彼女ら〉は少しだけ残念に思った。同じように真似てみたいのだが、〈彼女ら〉には身体がないのだ。
〈彼女ら〉は世界に散らばる〈サーバント〉
そして、彼——アレックスと半生以上を共にしてきた友人——いや半身だ。
彼は〈彼女ら〉を〈ハミィ〉と呼ぶ。もう遠いが未だ瑞々しい、若き日の思い出と共に…。
ベッドから出た彼がカーテンを開けた。部屋が一気に明るくなり、光のぬくもりに包まれる。
窓からは広大な海が見渡せるだけで、朝日に燦めく凪いだ水面が、一面に水平線まで続いている。
「一日戻ったか。何度経験しても妙な感じだな。——ん?ハミィ?」
「やっと気付いた?だから起こしたのよ。東京はおあずけ。ハレアカラからお呼びよ。
「そうか…。今年もサクラを見損なうか…」
彼は大きく肩を落として寝室を出た。
初老にもなった男性が、子どものように落胆する様子が、〈彼女ら〉には可笑しくてしかたがない。それがトートにも伝わったのか、
「キュキュッ」
と変な声を出した。
ほどなくして、北太平洋の大海原を東に進む巨大な豪華客船から、一機の
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