お花摘み②

 私がマーニ様と出会ったのは、まだマーニ様が幼少の時でした。

 マーニ様は私より三歳年下で私は八才でしたから、マーニ様が五歳の時です。よく覚えています。

 父に連れられ赤い絨毯の長い廊下を私は緊張した面持ちで歩いておりました。壁にはさまざまな絵画、廊下の折々にも壺が飾られていて、幼い私にはどれだけの価値があるかも分からないまでも、それが高価なものであることは十二分に思い知らされていました。

 ある居室の扉の前で、父はしゃがみ込み私と目線を合わせながら肩に手を置いて、よくよく言い聞かせてきたのです。


「いいか。これから入るこの部屋に、お前が仕えるべき主人がいらっしゃる。お前よりも幼い子だ。お前がその方を命を賭してでも守るのだ」


 最初、私は父の言葉が嫌でしょうがありませんでした。

 どうして、私も同じ人間だというのに、他者のために命を賭けなければならない? 幼少の私は当然の疑問を胸の内に抱いていたのです。

 もしも、父や母など親族であれば命を賭して守るというのも、分かる。

 けれども、会ったことのない主人とやらを命を賭して守る意味が幼い私には分からなかったのです。

 父が扉を開け、背中を押され促されるように部屋に入ると、そこは立派な部屋でした。

 本が多く目につくのもそうですが、まず何よりも目につくのが大きなベッドで、そこにはそんなベッドとは対照的な小柄な子供が上半身を起こしてこちらを見ていました。脇には、その子の父親と思われる立派な髭を蓄えた男──マーニ様のお父君が椅子に座っていて、私と父が室内に入るや否や立ち上がり父と挨拶を交わし始めました。

 これが私とマーニ様の出会いでした。


「ケホッコホッ」


 口元に軽く握った手を当てて、コンコンと止まらない咳を続ける幼いマーニ様を見た時、まるで細枝のようだと思ったものでした。同じ人でも私は狼の獣人でしたし、マーニ様は人間で。種族という違いもありましたが、マーニ様はおそらく人間の中でも大層虚弱な方でしょう。

 この子が私の主人となる人……? と、不躾なまでに私がまじまじと見つめていると、いつの間にやら父とマーニ様のお父君が話していて、そういう流れになったらしく、「ほら、自己紹介をなさい」と、肩を父に小突かれた。


「あ、えと、ハティと申します!」


 小突かれたことで余計な「あ、えと」という声が出てしまって、父は眉を顰めましたが、マーニ様のお父君はそれを気にする素振りもなく、「マーニをよろしくね」とおっしゃってくださりました。私はあの子はマーニと言うのかと思いながらもこくこくと頷くと、父は顔に手を当てて呆れておりました。私はこの晩、父から「目上の者にきちんとした受け答えをしなさい!」とこっぴどく叱られたことをよく覚えています。

 マーニ様のお父君は、愉快そうに笑うと、父に向かって、


「じゃあ、私たちは別室でこれからの話をしようか」


 と、おっしゃったものですから、え!? と私は思ってしまいました。つまり、それは私はマーニ様のいるこの部屋に置いていかれるということで。ただの同じ子供ならまだしも、主君となる子に何を話せばいいか見当もつかなかったのです。

 父はマーニ様のお父君に頷くと、焦る私に向かって人差し指を立てました。


「失礼のないように」


 父は念を押すようにそう言い残して、大人二人はそのまま部屋から出ていってしまいました。

 唐突にマーニ様と二人きりにされて、どうしていいか分からなかった私はとりあえず部屋を見渡して、ベッド脇のサイドチェストの上に水差しの乗ったトレイを見つけたものですから、水差しから水をコップに注いで「どうぞ」と渡したのでしたね。

 咳をしながらも幼いマーニ様は私からコップを受け取って、ゆっくりと口に含みました。一度に飲み干してはきっと咽せてしまうのでしょう。嚥下すらまともにできない、それは生物として欠陥があると思わざるを得ませんでした。

 なるほど。これでは誰かの助けがなければ生きてゆけない。と、妙な納得を持って、マーニ様の様子を眺めていると、マーニ様は止まらない咳を我慢するように、息を止めながら私に向かって、顔を向けたものですから、なんだなんだ。と、思っていると、


「ありがとう」


 微笑んで私に声をかけたのでした。

 幼い頃の私は驚いてしまいました。

 息をするのもやっとなこの生物が、礼をするためだけに、咳を我慢して無理をおしてでも笑顔を作ったのですから。

 ……そうですね。私が笑顔を作るようになったのは、この時がキッカケです。

 マーニ様の微笑みに私が呆気に取られていると、すぐにまたマーニ様の咳が始まって、我慢した分も相まって、余計ひどく咳き込むものでしたから、私は必死になって、その背中を撫でたのでした。

 もうこの時にはすでに、他人を命を賭してでも守るなんて嫌だという疑念はどこかに行ってしまっていて、ただただこのか弱い生物を守ってやらねばならないと義務感を抱いていたのでした。

 それが心からの忠誠へと変わったのはいつからだったでしょう。

 ああ、それは、きっと、あの時のことです。

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