第4話「エディット・マイ・ライフ」
延泊を決めたものの、会社への言い訳や千秋への連絡はなかなかに神経を使った。
灰色の日常を少しだけ逸脱するのにも、結構なエネルギーがいる。
それでも、俺の足は公民館の体育室へと向かっていた。
古い、いかにも公共施設といった建物だ。
中からは鈍い物音と、気合を入れるような声が漏れ聞こえてくる。
体育室のドアをそっと開けると、そこには数日前にテレビで見た光景が広がっていた。
中央には年季の入ったリングが設営され、数人の男たちが受け身の練習をしている。
ドスン、ドスン、というマットに体が叩きつけられる音。
ロープに振られて戻ってくる男。
それを指導している、少し恰幅のいい中年男性。
代表だろうか。
そして、リングの隅で黙々とストレッチをしている男がいた。
黒い練習着。
無精髭。
飄々とした雰囲気。
間違いない、一条だ。
俺は入口で立ち尽くしていた。
声をかけるべきか、どうすべきか。
何しろ、約三十年ぶりの再会だ。
向こうが俺のことを覚えていなかったら? 無視されたら?
そんな不安がよぎる。
だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
俺は深呼吸を一つして、体育室の中へと足を踏み入れた。
「あの……」
俺の声に、練習していた男たちが動きを止め、一斉にこちらを見た。
怪訝そうな顔、好奇心に満ちた顔。
その中に、一条の顔もあった。
一条は、ストレッチの手を止め、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
表情は、相変わらず読めない。
「すみません、見学……というか、一条明人さん、いらっしゃいますか?」
俺は、できるだけ平静を装って言った。
一条が、ゆっくりと立ち上がった。
俺の顔をじっと見つめる。
数秒間の沈黙。
俺の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
「……星野?」
ボソリと、一条が呟いた。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「お、おう! 一条! 久しぶりだな!」
俺は思わず大きな声を出して、一条に駆け寄っていた。
「なんで、お前がここに?」
一条は、少しだけ驚いたような顔をして、それでもやっぱり飄々とした口調で言った。
「いや、出張でこっちに来て、たまたまテレビ見てたら、お前が映っててさ! びっくりしたぞ!」
「……ああ、あれか。ローカルニュースの」
一条は、特に嬉しそうでも、照れくさそうでもなく、ただ事実を確認するように言った。
この感じ、変わってないな。
「お前、プロレスやってたんだな! 全然知らなかったぞ!」
「……まあ、なんとなく」
「なんとなくって、お前……。リングまであるじゃねえか! しかもリングネーム、『冴刃アキラ』って! まんまじゃねえか!」
俺は、興奮してまくし立てた。
ファイプロの「冴刃明」をなぞった、その安直すぎるリングネームに、思わず笑いがこみ上げてくる。
「……うるさいな」
一条は、少しだけ眉をひそめたが、その口元は微かに緩んでいるように見えた。
「まさか、お前が俺のこと覚えてるとはな」
「忘れるわけないだろ! あんだけ毎晩、お前の冴刃にボコられた恨み、忘れるか!」
「……お前の沖田の自爆特攻も、大概だったけどな」
沖田!
一条の口から、その名前が出た瞬間、俺たちの間に流れる空気が、一気に三十年前にタイムスリップしたような気がした。
そうだ、こいつは覚えていた。
俺たちの、あのくだらないけど最高だった日々を。
「見ていけよ。どうせ暇なんだろ」
一条はそう言うと、リングの方へ顎をしゃくった。
「お、おう!」
俺は、代表らしき男性に簡単に挨拶をし、体育室の隅のパイプ椅子に腰を下ろした。
練習が再開される。
基本的な受け身、ロープワーク、簡単な技の掛け合い。
レベルは、正直言って高くはない。
動きはぎこちなく、時折「イテテ……」なんて声も聞こえる。
まさに「プロレスごっこ」だ。
だが、彼らは真剣だった。
汗を流し、声を出し、リングの上で何かを表現しようとしている。
一条の動きは、やはり他のメンバーとは少し違っていた。
無駄な動きが少なく、一つ一つの動作に、どことなく「それっぽさ」がある。
前傾姿勢の構え、ローキックを放つフォーム。
そして目を引いたのは、若いメンバーたちだった。
彼らは、最近の人気レスラーたちのムーブを明らかに真似ているのだが、そのリングネームやコスチュームが、絶妙な「パロディ」になっていた。
金の雨を降らせるポーズをする彼のリングネームは「オクダ・カゲヒサ」、必殺技は「ラインワーカー」らしい。
制御不能なカリスマ風の男は「ロス・インゴベルナブレス・デ・グンマ」を噛まずに喋れるよう、入念に練習していた。
(これだ……!)
学生プロレスのような下ネタもなく、お笑い芸人のようなウケ狙いも控えめ。
思わず膝を打った。
これだよ、これ!
まさに、俺たちが熱狂した頃のファイプロの世界じゃないか!
今のファイプロは、ほとんどが実名レスラーになってしまった。
だけど俺にとっては、「ビクトリー武蔵」「氷川光秀」「ハリケーン力丸」「桧垣誠」……。
あの、微妙に本物と違う、でも「分かってる感」のある架空の名前と、それっぽいビジュアル。
そして自分たちの脳内で勝手に繰り広げる妄想こそが、ファイプロの醍醐味だったんだ。
団体の意向なのか、たまたまなのか、目の前の若者たちは、最新のプロレスを模倣しながらも、無意識のうちに、あの頃のファイプロが持っていた「ごっこ遊びの魂」を受け継いでいるように見えた。
今のファイプロが失ってしまったかもしれない何かが、この地方都市の、古びた公民館のリングに、確かに息づいていた。
休憩時間になると、俺と一条を囲んで、自然とレトロプロレス談義とファイプロ談義が始まった。
代表らしき恰幅のいい男性や、他の同世代メンバーは、やはり俺と同じ「ファイプロ世代」だった。
「いやあ、星野さんもファイプロやってた口か! 」
代表が目を輝かせる。
「俺はやっぱり、武道派だったな! あの閃きがたまらん!」
「いやいや、バイソンのラリアットが最高なんだって!」
「もう殆どのプロレスゲームが実名だもんな。でも、ファイプロは架空の名前じゃないと!」
「そうそう! エディットで好き勝手に作ったもんですよ!」
「大きな試合のたびにパラメータいじって!」
「骨法の選手作ったりしたなぁ」
話は尽きなかった。
あの頃の熱が、この体育室の隅で、再び燃え上がっているようだった。
俺も、久しぶりに心の底から笑い、熱く語っていた。
灰色の主任の仮面は、いつの間にか剥がれ落ちていた。
(俺の居場所は、ここかもしれない……)
ただ体を動かすのが楽しいだけじゃない。
ストレス発散になるだけじゃない。
失われたと思っていた、あのファイプロの続きが、ここにあるんだ。
あの頃の「ごっこ遊び」の魂が、ここではまだ生きている。
プロレスは好きだった。
若い頃は仲間たちとよく観戦に繰り出した。
東京ドーム、後楽園ホール、武道館、国技館、横アリ、有コロ、横浜文体、NKホール、……そして川崎球場。
神宮球場なんてのもあったっけ。
今でも、大きな試合は動画サイトやネットテレビで視聴する。
だけど、いくらミーハーな俺でも、プロレスラーになろうなどと大それた事は考えた事もなかった。
当時から、おれが求めていたのは「ごっこ遊び」であり、「ファイプロ」なんだ。
「星野さん、ちょっとやってみませんか?」
代表が、ニヤニヤしながら言った。
さっきまでの俺なら、躊躇していただろう。
だが、今は違った。
「……はい! ぜひ!」
俺は、力強く頷いた。
靴を脱いでリングに上がる。
マットの感触、ロープの太さ、体育室の蛍光灯の眩しさ。
全てが新鮮で、そしてなぜか懐かしい。
受け身の練習は、やっぱり痛かった。
ロープに振られて尻餅もついた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
俺は今、あのブラウン管の向こう側に、足を踏み入れたんだ。
練習が終わる頃には、俺の心は完全に決まっていた。
(俺も、このリングに上がる!)
星野 徹としてじゃない。
俺だけの、ファイプロの分身として上がるんだ。
帰り道、一条と二人で夜道を歩きながら、俺はその思いを伝えた。
「なあ、一条。俺も団体に入れてもらえないかな?」
一条は、少し驚いたように俺を見たが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「……本気か?」
「ああ。ここに、俺が求めていたものがある気がするんだ」
「……まあ、代表に言ってみればいい。断られはしないだろ」
一条は、相変わらず素っ気ない。
だが、それが彼なりの肯定なのだと、俺には分かった。
「それでさ、俺が上がるなら、もう決めてるんだ」
俺は、興奮気味に続けた。
この団体で見た、あのパロディ精神。
それならば、俺がやるべきキャラクターは一人しかいない。
「俺は、『オキタ勝志』になる!」
俺は宣言した。
そうだ、あの革ジャンとジーンズ。
パイプ椅子と、有刺鉄線。
そして、邪道の精神!
それを、アマチュアのリングで、あの頃のファイプロの魂と共に蘇らせるんだ!
「……そうか。お前らしいな」
一条は、それだけ言って、夜空を見上げた。
東京に戻る特急の中、俺はノートパソコンを開き、ネット通販サイトを検索していた。
革ジャン、ダメージジーンズ、リングシューズ……。
頭の中は、すっかり「オキタ勝志」のコスチュームのことでいっぱいだった。
これは、単なるコスプレじゃない。
ファイプロのエディットモードの最高の続きだ。
パラメータをいじる代わりに、現実のパーツを集め、ムーブを考える。
あの頃よりもっとリアルで、もっとワクワクする!
俺の灰色の日常が、少しずつ色づき始めていた。
俺は、俺だけのレスラーを「エディット」する。
そして、あのリングに立つんだ。
中年のおっさんの、遅すぎた青春が、今、始まろうとしていた。
ファイプロの「カミサマ」が、あの頃の架空の名前と共に、まだ俺の中に生き続けていたのかもしれない。
俺はそんな、都合のいいことを考えていた。
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