ホテルの海辺で出会った女は、

櫻葉月咲

第1話

 拝啓、愛しい人。どうしていますか。


 私は今、貴方と一度だけ来たホテルの部屋で、この手紙を書いています。


 あの時、旅行をしようと言われた時は驚きました。


 でも──





 溜め息と共に、由梨亜ゆりあはそこで手を止めた。


「……なんて、今書いても遅いんだけど」


 今、由梨亜が居る場所は都内から車で一時間ほど掛かるホテルだ。


 デッキに備え付けられた椅子に座り、机に花柄の便箋を広げていた。


 側には書き損じてただの紙屑となった便箋が二つ転がっており、由梨亜はそれをちょいちょいとつつく。


 目の前には海が見えている。


 きらきらと太陽の光を浴びて反射する海は、時折眩しく由梨亜の瞳を刺激した。


「海、行ってみようかな」


 ここであれこれ悩んでいても、ただゆっくりと時間が過ぎていくだけだ。


 それに何度も『一人で』来ているため、嫌という程知っている。


 鬱々とした気持ちを切り替えたくて、由梨亜はのそりと椅子から立ち上がった。


 波打ち際に降り立ち、由梨亜はしばらくぼうっと海の彼方を見つめる。


「……綺麗」


 自然と口から出た言葉を理解するまで数秒が掛かった。


 海は丁度夕暮れ時なのか、由梨亜の他には誰もいない。


 居たとしても地元らしき人だけで、観光客はまばらといってよかった。


 太陽が海面をきらきらと反射するさまに見惚れていると、先程まで悩んでいた事や雑念が払拭されていく。


「ほんと、バカみたい」


 誰にともなくひとちる。


 今この場には由梨亜しかいないため、その言葉は瞬く間に波に攫われてしまっただろう。


「はぁ……」


 砂浜を少し歩いてから帰ろうかと思った時、背後から控えめな声が響いた。


「ねぇ。お姉さん、一人?」


「っ」


 びくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る声がした方を振り返る。


 見れば、にこりと淡く微笑みを浮かべる女性がそこにいた。


 由梨亜は女子の中で背が高い方だが、その女性は頭一つ分ほど高い。


「え、あ、はい。……あの、何か用ですか?」


「寂しそうにしてたからさ。ねぇ、良かったら飲みにいかない? 見たところ一人みたいだし」


 まさか新手の逆ナンかとも思ったが、どうやらそうらしい。


 由梨亜はじっと女性の頭から爪先まで視線を向けた。


 やや亜麻色あまいろに近い鎖骨まである髪に、ほんのりと茶色い瞳。


 服装こそ英字のプリントされたTシャツとデニム、白い厚底サンダルという、至ってシンプルな出で立ちだ。


 どこにでもあるものなのに、女性が着ているとお洒落さが際立って見えた。


「あ、怪しい者じゃないから。念のため言っておくけど」


 自身が不審な者だという自覚はあるのか、女性は顔の前で手をパンと合わせる。


「でも恋人と来てたらごめんね。もしそうなら邪魔はしないから、安心して?」


 大仰に下げられた眉に、はきはきと言葉を発するやや薄い唇。


 かと思えばパッと表情が華やぎ、小さな言葉が呟かれる。


 よく喋るなぁ、という言葉を由梨亜はぎりぎりのところで飲み込んだ。


 それよりも何よりも、由梨亜が寂しそうだと言われたのが何故なのか疑問を持った。


(そんなに顔に出てたかな)


 数少ない友人からは無表情で、何を考えているか未だに分かりにくいと言われる。


 艶を含んだ美しい黒髪に、大きな瞳を縁取る長い睫毛。


 すっと通った鼻梁びりょうに、ぽってりとした桜色の小さな唇。


 その雰囲気も相まって、大学生の頃は高嶺の花だと噂されていたようだった。


 元々表情筋があまりある方ではなく、大手のファッション業界に就職して一年が経つ今も、同僚からは近寄り難いと影で言われているのを知っている。


 そんな由梨亜を、目の前にいる女性は『寂しそう』と言ったのだ。


 いきなり声を掛けられた事はおろか、なんの疑いもなく自身の心の内を当てられたのは初めてだった。


(不思議な人……)


 そう思うと同時に、はたと答えを求められている事に気付く。


 にこにこと笑ってはいるが、こちらの反応を急かすような事をしない辺り、女性は気の長い方なのだろうか。


「……大丈夫、です。一人で来た、ので」


 由梨亜はなんとかそれだけを絞り出す。


 初対面の人間に対して声を出そうとすると、喉に何かがつっかえたような錯覚におちいるのはいつもの事だ。


「そ? じゃあ行こうか──って、名前言ってなかったね。ヒカリっていうから好きに呼んで」


 女性──ヒカリが言葉を紡ぐ度、ちらちらと白い犬歯が覗く。


「ヒカリ……ヒカリ、さん」


 由梨亜は口の中で何度かヒカリの名を呟いた。


 その名の通り明るくて、太陽のような人だなと思う。


「さんはいらないよ、呼び捨てで大丈夫。みんなそう呼んでくれるから」


「えっと、ヒカリ……?」


 にこりと肯定の代わりにヒカリが微笑むと、由梨亜もつられたように淡く口角が上がった。


 笑みを向けられて嬉しい。そう思うのに、どこか頭にもやがかったような心地になった。


 それでも、自然と由梨亜の脚はヒカリに着いていく。


 水平線の向こうでは、ゆっくりと太陽が沈もうとしていた。

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