マンガみたいな契約結婚。

あおいたくと

第1話

 倉科理子くらしなりこ、32歳、大手IT系企業に勤める会社員。

 チームの後輩から、偽装恋人になってほしいと頼まれた。

 その矢先に、地元でお見合いをさせたい母親からの追及を逃れるために、婚約者がいるとポロッと嘘を吐いてしまうなんて、誰が想像しただろう?


七星ななせくん、いや、郁人くん。えっと、あたしと、偽装で恋人になってもらう以上に、婚約してもらってもいいですか?ご協力お願いします」


 そして、偽装恋人になって早々、偽装婚約をしてくれと逆にお願いすることになるなんて、誰が想像しただろう?

 少なくとも、理子自身は、まったく想定していなかった。

 目の前にいる偽装婚約者の表情に、光が射したような気がしたのも、きっときっと、気のせいなのだろう。




 倉科理子は、横浜みなとみらいのオフィスビルでデスクワークができる、この仕事が気に入っている。正確には、やりがいと殺伐さが常に甘辛くマリアージュしている。

 それでも理子はこの仕事が、フリマサイトのWebパトロールが、気に入っている。

 いまのところはもうしばらく、少しでも穏やかに続けられたらいい。それが理子のいまの願いだ。

 JR桜木町駅から徒歩10分、このビルを出て何分か歩いたら、大観覧車・コスモクロックを遠目からでも見ることができる。コスモワールドにだって、15分も歩けば気軽に行けてしまう。

 立地の問題で社内から大観覧車を見ることができないのは残念だが、どっちみち理子が作業するデスクからは、外の景色を見ることができない。

 本来なら目の前のガラス窓から、みなとみらいのシティービューを眺めながら仕事できてもいいものなのに。セキュリティフロアでは、防犯上の理由から24時間365日、ブラインドを開けることも許されないのはちょっぴり寂しい。

 それでも、オフィスルールは比較的ゆるく、私服通勤が当たり前。社内であれば、サンダルなどラフな履物で動いてよし。

 今は理子もクリーム色のトップスに紺のパーカーを羽織り、デニムパンツ、足元は黒のクロックスに履き替えて、作業モードのコーディネイトで自席で作業している。春が近づいてきているものの、まだまだ涼しい3月中旬。茶色の薄いブランケットを膝の上に乗せながらの作業だ。チーム方針でマスクは極力着用ということで、お言葉に甘えて、面倒くさいので、いやマスクにメイクが付いてしまうので、軽めの化粧で毎日済ませている。

 あとは、閉鎖空間への耐性があり、情報漏洩しない理性があり、ほかスマホと紙類の持ち込み厳禁など、セキュリティルールに慣れさえすれば。ここはぼっち属性の民にとっては、特に気楽に過ごせる楽園となりえる。


 この立地や景観、寛容なルールが好きで、理子はこの会社に転職して7年。新設されたばかりのパトロールチームのほぼスターティングメンバーに配属され、先輩や同僚ともほとんど作業年数は変わらない。後輩も何年か耐えて、いや順応したメンバーが残っているので、一緒に乗り切ってきた感が強い。

 未経験でもできるデスクワーク、それなりに大手のIT企業。ここに通えるなら、という軽い気持ちと、人によっては地獄のような仕事への耐性で、理子はこの仕事を継続できてしまっている。


特別な入室権限を与えられた金属探知機の向こう側、エアコンの稼働音と、キーボードをカタカタと鳴らす音が、セキュリティフロア内に延々と響く。

 入口から見て右から左まで縦に並べて配置されたオフィスデスクの右端エリア、そしてその周辺の窓際に沿って並べられたデスクの一部、その一帯だけデスクトップパソコンのモニターが寄り添って2台ずつ並ぶエリアがある。

 デュアルモニターを前に、理子はブラインドの向こうの景色を脳内に思い浮かべて現実逃避しながら、チームメンバーで割り振った今日の仕事を進めていたときだった。


「先輩、ちょっといいですか?」


 理子の右耳を、小声なのにすっと耳に沁み込むような響きが震わせる。ぞくりとするような震えは、耳から頭や顔や肩、背中へと全身に広がっていく。それを隣にいる人物にバレたくはない。

その男性の声に、理子はタイピングをキリのいいところまでさっと打ち込んでから、手を止める。


「なにー?」


 そっと視線を右側に向けると、そこには椅子1つ分ほどの距離の先で、目を合わせてくるチーム後輩くん・七星郁人ななせいくとがいた。29歳で、理子より3つ年下の青年である。

 伊達メガネらしいレンズの向こうの、切れ長の瞳が理子に向けられて、それだけで理子にとってはとても眩しい。マスクをしているのに、目元だけでも十分眩しいのは尊すぎる。

 ゆるくパーマがかかったマッシュヘアを濃茶に染め、グレーのパーカーをぴっちり着込み、黒のボトムスにクロックスを履いた作業スタイルで座るその姿が、一言で言うと理子にとって"目の保養要員”の一人だ。

 そして今は、それだけではない、不思議な関係性にもなっている人物である。


「1件調査終わったんで、認識合わせお願いしてもいいですか?」

「いいよー、要約するとどんな状況?」


 本当は、新人フォローの練習にもなるようにと、他の後輩にダブルチェックを頼んでいたものの、その後輩は振り返ったところにある席にいない。どうも離席中のようだ。


「えっと、詐欺が疑わしい案件で、繋がり含めてアウトとしました」

「おお、見ようか」


 理子は七星が使っているモニターへと意識を移す。目の保養という癒やしスイッチを即座にオフにして、モニター画面へと意識を集中させる。

 座ったまま足と椅子を動かし、七星やモニターと、画面に映る調査シートの文字が見えるまで少しずつ近づく。

 右側のモニターには、マニュアルや調査フローのファイルを常に表示。フローを目で追いつつ、左側のモニターで、調査シートや関係するページを見ていくことを交互に繰り返している。

 このやり方は、七星の最初の研修担当であり、いまも結局主なフォローを継続している理子が教えたものだ。『判断をミスらなければなんでもアリ』の精神で、個々人で細かい作業をカスタムしている個性派チームの中でも、特に無難でスタンダードなやり方を理子は教えた。

 一応は、入社から半年ほど経過し、そこそこ仕事に慣れて定着し始めてきた七星なので、作業しやすいように細かい部分はカスタムしていいと伝えているものの、理子が教えたやり方を継続してくれているようだ。


「七星くん、案件の文面をまず見せて」

「はい、これです」


 七星のモニターに、提携会社から送られてきた一次チェックの報告ファイルと、少しズラして詳細調査のファイルと、と、何かが。

 何かがあるのを理子は見た。

 ちょっと待とうか!七星くんやい!


「連携理由は、複数の出品に、『詐欺』『不安』を含むコメント、複数のよくない評価があり、かつ『不安』『遅い』を含む内容がみられる。で、あとはこっちで詳細を見てほしいということです」


 モニター画面の左上に映るファイルの該当部分を、ペンで指差しながら、七星のよく通る声が説明を始める。

 理子は、そのファイルの下に、理子だけにしかおそらく分からないようなテキストファイルのメッセージを見つけて、目を見開いている。


「確かに、連携にあった通り、これとこれの出品に、『ちゃんと届くんですよね?詐欺じゃないですよね?』、『このまま購入していいのか不安です』といったコメントあり。

 評価にも、『発送が遅い、届くか不安でした』『取引が不安でした』の言葉があり」


『今日仕事終わりに、両家ご挨拶の打ち合わせしませんか?』


 七星の説明を聴きながら、理子は別の文字列を目で追いかけてしまっている。一瞬だけちらりと周囲に目を配る。大丈夫だ近い席の先輩や上司も離席中だ。


「連携内容が妥当だったので、詳細を調査したところ、振込先の口座を別のアカウントでも登録していたようです」


 七星は理子の様子を気にせず、画面へと淡々と説明を続けていく。


「過去に別のアカウントでも登録してたもので、そっちで先に詐欺っぽいことをやらかしてBANされてたようです」

「あー、これ、完全に、アウトだねえ」


 いったん理子は、神妙に案件に向き合っている体で、いや向き合わないといけないので集中することにしたものの、いつテキストメモのことについて触れようか気が気じゃない。


「たぶんスマホを変えて登録してきたんだろうね、きっとこいつなんだと思うよ」

「と、いうことは、認識一致でいいですか?」

「うん、これはBANしようね。ちゃんとしっかり、クリティカルなとこ見れててOKだよ。まあでも、万が一もあるから、もうしばらくはダブルチェックを先輩の誰かに頼んでね」

「承知です」


 調査が問題なくできていたと確認できて、七星はほっとして嬉しそうだ。日々ひたすらに案件を捌きすぎて、理子が遙か昔に置き忘れてきたような感覚を、1年目の社員はだいたい噛み締めるように持ってくれている。


「それじゃあ、このままBAN処理に入ってもらっていい?終わったらあたし、ちょっと休憩してくるから」

「あ、その前に、先輩」

「ん、どうした?」


 七星が画面の一点を指差し、理子をちらりと見て目元をほころばせる。


「これ、いかがですか?」


 その指の先には、理子が先程も見ていた文面。


『今日仕事終わりに、両家ご挨拶の打ち合わせしませんか?』


 こやつ、あたしが他の人に見られてないかってソワソワしてたの、気にしないフリしてたな。

 などという言葉が出てきそうになったものの、理子はジト目で七星を見るに留める。七星がそんな理子を見て、なぜか嬉しそうに目元を細めている、ように見えた。眩しさが増量したのとはまた別の、嬉しそうな相手を見ていてもぞもぞするような気持ちが湧く。

 それは、七星だからそうなのか、他の相手でも同じく感じるのか、理子にはまだ分からない。

 ただ、この気持ちは、これから仕事を進めていくうえで、少なくとも七星と関わり合う上で、甘やかに、それでも"重荷”になるんじゃないだろうか。

 理子は自分のチョロさを見せないようにと意識して、眉間にシワを寄せながらも、協力者にして"共犯者”な七星に、ため息と共に応じた。


「いいよ、今日も"上”のほうでいい?」

「承知です」


 左手の親指と人差し指をくっつけて、マルを作って見せてくる姿さえ、眩しく見える、ような人と、どうしてこういったやり取りをしているんだろう、なんて考えてしまいそうになるけれど。

 この仕事を続けるためだ、あくまでも。何もかもは、ビジネスライクだ。


「さて七星くん、そろそろ気持ち切り替えて、BAN処理しよう」

「はい」


 七星は主張が激しかったテキストメモを、×印クリック・保存しないで閉じる。

 理子は、作業の準備をする七星の手元や表情を、画面と一緒にちらりと見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る