エレミアの方舟

「何をいっている? わたしの兵を全滅させて、生きて戻れると思っているのではあるまいな? ふざけるなよ、小娘が!」


「ふざけているのはそのほうじゃ。この勝負、その負けじゃというておるのじゃ」


「何だと?」


「あがバル一人に戦わせておいて、何もせぬとでも思っていたか?」


 勝利を確信したものだけができる笑顔をミラはしていた。周到な準備と入念な手配の裏打ちがあればこその余裕でもあった。


 一方でグリムはミラの顔を子細に観察していた。容易にぼろを出すような相手ではないが、何らかのほころびがあると思ったのだ。


 だが、それすらも見当たらない。状況から考えれば、限りなく虚勢に近い。また、ミラがグリムを制するような力を持っているとも思えない。


 グリムはミラの余裕をはったりだと断定した。もし、ミラが本当に力を持っているのならば、グリムが出した炎を簡単に消せたはずなのだ。そうしなかったのは、彼女には十年前の力はないということに他ならない。


 虚勢を破られたミラがいつ表情を凍らせるのか、そう考えるだけで自然に彼の口元が緩む。


「戯れ言も大概にしておけ。わたしを退かせるための窮余の一策だったのだろうが、すでにきさまの謀は露見している」


「そうか。ならば、あを攻撃してみるがよい」


「ふん。いわれずとも……」


 そこで王叔の口が止まった。止まらざるを得なかった。自分の身体の異変にようやく気づいたのだ。左手の手首から先が凍りついていたのである。


「い、いつの間にこんな!」


「いつの間に? そんな悠長なことをいうておるから、そは愚かじゃというのじゃ」


「馬鹿な! きさまにそんな力があるはずはない! 一体何をしたのだ!」


「そはあが力を失ったと思っておるようじゃな。じゃが、これを見るがよい」


 そういって、ミラはフェリハに見せたときと同じように首飾りを持ち上げてみせた。


「これは封じゃ。あの力はなくなったのではない。封じておるだけじゃ」


「だとしても、封印が解けぬ限り、今のきさまの力はないに等しいということではないか?」


「たしかに今のあには力はない。じゃが、その左手はどう説明するつもりじゃ?」


 高熱の赫皮族を氷漬けにするだけの力は十年前の白鷺王ですらなかったはずであるが、それもグリムがミラの幻影を見て判断したに過ぎない。


 まったく説明のできないことにグリムは得体の知れない化け物を見る目つきでミラを見た。


 ミラが一歩踏み出すと、グリムは怖じ気づいたように二歩下がる。恐慌を起こしそうになっている彼の頭はすでに沸騰寸前の状態で、いつ精神が崩れてもおかしくはないほどだった。


 そんな奇妙な鬼ごっこが続いていたが、バルの倒れているところに進むと、ミラは足を止め、針金のような従者の髪をいとおしげに撫でた。


「よう頑張ったな。すぐ治してやるゆえ、もうしばらく辛抱するのじゃぞ」


「……ああ、早いところ決着をつけてくれ。痛くて死にそうだ」


「うむ。すぐ終わる。それまで寝ているがよい」


 バルが弱々しい笑顔を浮かべ、意識を失うと、ミラは改めてグリムに向かって歩き出した。


「さて、話の続きをしようかの。なぜ力のないあがその腕を凍らせることができたのか、じゃったな?」


 そこで言葉を切ったのは、あまりにもグリムが距離を取ったからである。これでは話どころか、声も満足に届かない。


 だが、グリムはそれ以上の後退ができなくなっていた。壁に当たったわけではない。彼の両脚が床に縫いつけられるように凍っていたのだ。


「何だ、これは? 何だ、これはぁ!」


「騒ぐな。今から話してやろうというのじゃ。あの話を聞け」


 グリムが口を閉ざしたのはミラの言葉に従ったというより、本能的な恐怖がそうさせたのである。


「外術の発動の瞬間を閉じ込めることができるというたら、そは信じるか?」


「そ、そんな馬鹿なことができるものか」


「そう、馬鹿な話じゃ。じゃがの、できてしまったのじゃ。外術の力を閉じ込めたもの、あはそれを『匣』と呼んでおる」


「『匣』だと?」


「そうじゃ。『匣』にはそれぞれ番号が振られておっての、その番号を口に出せば、いつでも、どこでも、いかなる場合でも、番号に対応した外術の効果を発動することができるというわけじゃ」


 ミラがときおり口にしていた「イクス」だの、「ケー」だのという言葉は番号だったというわけである。


「そして、この力を閉じ込めたのが、いつだというのが、その最も気になるところであろうな。それはの、十年前じゃ。まだあが自らの力を封印する前の話よ」


「だが、いくら衆を絶しているといっても、十年前の力だけではこのわたしを凍らせることなどできまい!」


「残念じゃが、そと最後に会ったのあれはな、あの幻影じゃ。しかも不出来での、あの力の万分の一もなかったのじゃ」


「では……?」


「そう。あの力はの、この世界を文字通り滅ぼすことができるほどなのじゃ。そのように限定的な力しか持てぬものが、あはたいそう羨ましかったのよ」


 ミラの言葉は皮肉ではなく、本心からの言葉だった。それだけに重みを増し、猜疑心の強いグリムですら、信じ込まざるを得ないほどである。


 それが逆にグリムに力を与えた。彼は怒りに燃える目でミラを睨みつける。


「ならば、なぜその力でエレミアを救おうとしなかった?」


 フェリハやビロンと同じ質問だった。それゆえ、ミラは同じように説明した。説明が進むにつれ、グリムは震え出す。


「だが、しかし、たとえ滅亡が避けられないものであったとしても、人間ごときに膝を屈して生きろというのか?」


「その通りじゃ。すでにそもわかっておろう。年々エレミアの人口は減り、人間の数は増える。エレミアがあのまま存続しておったら、終極的な破局が訪れておっただろうよ。あはどうしてもそれを避けたかったのじゃ。ゆえに国を壊し、民を逃した。せめて静かに滅びの時を迎えられるようにの」


「そこまで考えているというのならば、なぜわたしに何も話さなかった? きさまだけではない。姉上もこのわたしをないがしろにしてきた。一体なぜなんだ?」


「そが黙って、先王陛下やあの言葉を聞いたことが一度でもあったか? 何度も何度も先王陛下やあの命を無視しして突っ走ったそがどの面下げてそれを申すか? 自業自得じゃ。そうでなければ、そを満足させるまで暴れさせたりするものか」


「くっ!」


 容赦ないミラの弾劾にグリムは一言呻いて、俯いてしまった。すべての責任が自分自身に返ってきたことが衝撃的だったのだろう。


 そもそもグリムはおのれの力を恃むことが多く、戦場でも損害を顧みることなく戦い続けた。結果的にではあるが、エレミア史上最も多くの国民の命を奪った男が国の再建などいえる権利などあるはずがない。


 それを自覚したのであろう、今まで見せたことのない自嘲気味な笑みで頬を歪ませた。


「ならば、もうこの地上にわたしの居場所はないということだな?」


「その通りじゃ。そは責任を取らねばならぬ」


「殺せ。すべてを失ったわたしが生きているというのもおかしな話だろう?」


「いいじゃろう。あが責任を持って送ってやる。じゃがの、王叔、死は終わりではないのじゃぞ」


 死から何かが始まるというのか、そう訝しげにグリムは力を失った顔をわずかに上げた。


「あはの、エレミアの民を引き連れて、新天地を目指そうと思うておるのじゃ」


「新天地だと? この地上のどこにそんなものがあるというのだ?」


「この世界ではない。上を見よ」


 ミラが見上げた先、そこにはかつて無の世界を開いた扉があった。愚かさの象徴、だが、逆にそれは可能性の証明でもあった。別次元へと渡る術がそこにはあるのだ。


「次元の彼方にあたちが住める新天地がきっとあるのじゃ」


「そのためには死ぬ必要があるということなのか?」


「そうじゃ。エレミアの民が肉体を失ったとき、その魂はあるところへと導かれる。それは次元を渡ることができる大きな船じゃ」


「そんなことが本当にできるのか?」


「できる。あを信じよ」


「そうか……ならば、今度は信じてみよう」


「うむ。先に行って待っているがよい。あたちもいずれ逝こう」


「ああ、頼む」


 グリムはゆっくりと目を閉じた。その身体を氷が侵食していく。赫皮族にとって低温に晒されることは耐えがたい激痛を覚えるはずだが、彼は最期まで苦痛の声を漏らすことなく、穏やかに逝った。


 その顔はまるでよい夢を見ているかのように安らかであった。 王叔の魂が肉体から離れ、天高く登っていく。彼の精鋭たちの魂もグリムに追従するように上昇する。


「終わったの」


 重い荷物が一つだけ細い両肩から降りていくのをミラは感じた。十年前の決着がようやくついたように思い、彼女は満足げな笑みを浮かべ、王叔たちが去った空を眺めるのだった。


 かくして、巷を騒がせた偽勇者の事件はこうして幕を閉じることになる。

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