翌朝、ユメは鏡の前で、ゆっくりとワンピースの襟を整えた。いつもの黒ではない。今日は白を選んだ。

 少し前、オババが「店にいないときは、あんたはぴちぴちのJKなんだよ」と笑って、百貨店で買ってくれた一着だった。店員には「死ぬほど可愛いコーディネートにしておくれ」とまで頼み込んでいた。


 そうして選ばれたのが、真っ白なワンピースに麦わら帽子まで添えられたコーディネート。オババの趣味がまるごと詰まっていた。

 動物園に着ていくには、少し気後れするような気もした。

 けれど、黒いTシャツに手を伸ばそうとしたとき、オババの表情が陰るような気がして、結局、そのまま袖を通した。

 玄関先で見送りをしてくれたオババは、スマホを構えてシャッターを何度も切った。


「可愛いねえ、ユメ、すごく似合ってる。モデルさんだよ」


 そんなふうに、少し大げさなくらい声を弾ませていた。ユメは、どう顔を作ればいいのか、わからなかった。


 昨日の出来事が、まだ背中のあたりに重く残っていた。笑顔を浮かべても、どこか引きつっていた。

 それでもオババは、余計なことは何も言わず、明るさを崩さなかった。その様子を見ているうちに、気持ちがほどけるような気がした。


 茜の前では、できるだけ、いつも通りでいたいと思った。


 待ち合わせの駅には、少し早く着いた。人の流れを避けるように柱のそばでスマホを見ていると、「どこ?」というメッセージが届く。

 画面から目を上げると、向こうの信号の先で、茜がスマホを手に持ち、同じように操作している姿が見えた。ユメは「目の前です」と打ち返し、軽く手を振った。

 視線に気づいた茜が顔を上げ、ぱっと笑顔になって、勢いよく手を振り返してくる。

 信号が青に変わると同時に、足取りを速めながらこちらへ向かってきた。顔をほころばせたまま、ユメを見ている。

「えっ、ユメ、どうしたのその格好〜」

「変……ですか?」

「全然! めちゃくちゃ似合ってるし、かわいすぎる! もうね、びっくりしすぎて、可愛いしか言えない!」

「おおげさです。茜のほうが、可愛いと思います。それに、ちゃんと動物園に向いてる服装ですし」

 茜はデニムのオーバーオールに、オレンジのTシャツを合わせていた。動きやすそうで、明るさのある組み合わせだ。

「じつはね、ユメが白ワンピとか着てきたら絶対似合うだろうな〜って、ちょっとだけ思ってたの。だから、わたしはカジュアルにしてバランス取ったつもりだったんだけど……まさか、本当にそう来るとは思わなかった! わー、なんか……デート感やばいね!」

 茜の笑顔が、陽ざしの中ではじけるように広がる。そんな彼女を見ていると、ユメは黒ではなく白を選んで出てきたことを、ほんのり誇らしく感じた。

「行こっか」

 茜が軽く手を差し出すような仕草を見せる。ユメはひとつうなずいて、そのあとに続いた。


 電車の乗り、二十分ほどで目的の駅に着いた。改札を抜けると、広々とした構内に陽が差し込み、床に淡い影が落ちていた。

 地上に出た先には、どこまでも高く伸びた夏の空。舗道には照り返しがきらめき、観光客らしい人々が行き交っていた。

「こっちだよ」
 

 茜が前を向いたまま声をかけ、歩きながら振り返ってユメの様子をうかがう。人の多さに戸惑いを感じつつも、ユメは茜の歩幅に合わせた。

 広場には木陰が点在し、すれ違う風が熱を引き取っていく。案内板のあたりでは、家族連れやカップルが立ち止まり、会話を弾ませていた。

 その向こうに見えたのは、動物のイラストで彩られた大きな入園門。並ぶ人の列を目にして、ユメの足が自然と止まった。

「チケット、出すね」
 

 茜がスマホを操作しながらこちらを見やる。何度も訪れているかのような余裕があった。

 七月のあの日、依頼のあとに泣きじゃくっていた茜の姿は、どこにも見当たらない。表情にも、動きにも、迷いがなかった。ほんのりと照れたような笑顔に、ユメの肩の力が抜けていく。



 電車の中で、「どこを回る?」と茜は尋ねてくれていた。ユメは「茜のおすすめがいいです」と答えた。

 園内に入ってからの茜は、案内役のようにきびきびと動いていた。スマホの画面を一度確認し、「まずはね、こっちにコアラがいるんだって。混む前に行こっか」と嬉しそうに言う。

 指の先にあったのは、木々の影が落ちた小道。その先からは、何層にも重なった声が届いていた。
子どものはしゃぎ声、大人たちの笑い声、ベビーカーを押す親の呼びかけ。

 空にはうすい雲が流れ、陽ざしはまだ強かった。

「ね、手、つないでいい? 暑いかもだけど、はぐれちゃ困る」

 茜はそう言って手を差し出した。ユメはうなずき、ためらいながら手を伸ばした。

 指先がふれると、茜の手はやわらかく、うっすらと汗ばんでいた。けれど、嫌な感じはしない。

 茜の表情に変わりはなく、気にする様子も見えない。軽く引かれるまま、ユメは歩き出した。

 木陰を抜け、建物の奥へ進むと、日差しから逃れた空気が少しひんやりしていた。
コアラ舎の前には人垣ができていて、茜が背伸びしながら「あ、いた」と声を弾ませる。

「ほら、あの枝のとこ。寝てるけど、可愛いよね」

 ユメも背筋を伸ばしてみる。枝に丸まっていた灰色の塊が、わずかに動いていた。

「……ほんとですね。ぬいぐるみみたいです」

「でしょー? こういうの見てると、バタバタしてる自分がちょっと恥ずかしくなる」


 茜が笑うと、まわりのざわめきが遠のいたように感じられた。


 そのあとは、茜に導かれるまま園内を巡った。

 羽ばたく大きな鳥に、くりくりとした目をしたミーアキャット。水の中をすべるように泳ぐカバの姿に目をとめた茜が、ユメの方に顔を向ける。

「あれ、ちょっと似てない?」

「誰にですか」

「ナイショ」

 茜は声を弾ませながら、いたずらっぽく笑った。

 時折立ち止まり、ベンチに腰を下ろしてジュースを分け合い、売店ではアイスを選んだ。

 茜が「あ、こっちのソフトクリーム限定らしいよ」と少し得意げに教えてくれて、ユメはそれを選んだ。

 茜が話し、笑うたびに、ユメの顔も自然とゆるんでいく。最初に残っていたこわばりは、歩くたびに抜けていった。

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