9
放課後。美術室の前で、茜は息を吸い、ゆっくり吐き出す。
桃佳たちの声が、頭の隅に残ったままだった。振り払おうとしても、しつこく張りついたまま離れてくれない。
それでも、自分に言い聞かせる。何も知らない子たちの話。気にする必要なんてない。 あの人は、素敵な先生だ。わたしが知っていれば、それでいい。
決意を胸に抱くようにして、茜は静かに扉を引いた。
室内には七人ほどの先輩がいた。三人はキャンバスに向かい、筆を滑らせている。あとの数人はスマホを見たり、漫画に目を落としていた。
言葉は交わされず、音もなく、それぞれが自分の世界に浸っていた。茜の入室にも反応はなく、視線も飛んでこない。
この空気の中で、ふと思う。いっそ、桃佳たちの輪から抜けてしまったらどうなるだろう。 誰とも群れず、ユメのように、他人の視線を気にせずにいられたら。そんな過ごし方も、案外、悪くないのかもしれない。
気づけば、視線は室内をさまよっていた。探しているのは、ひとり。
あの人は、どこにいるんだろう。目をこらしても、見当たらない。
ベランダも違う。窓の外には、梅雨の雨。午後からしとしとと降り続いていた。ならば、あの奥の準備室かもしれない。
準備室のドアノブに手をかける。ぴたりと動きが止まった。鍵がかかっている。 内側には施錠の仕組みがないはずだった。ということは、そこに先生はいない。
少し考えてから、決める。誰かに訊いてみよう。
ひとり黙々と絵筆を動かしていた黒縁メガネの先輩に視線を向ける。イーゼルに立てかけたキャンバスには、色と線が複雑に重なっていた。
「すみません、先輩」
肩がわずかに揺れる。声をかけたのは初めてだった。 振り向いた先輩が、細めた目でこちらを見つめる。
「……何ですか」
「水無瀬先生を知りませんか?」
短い間があって、先輩は「ああ」とだけ返し、視線をキャンバスに戻した。
「今日は休みですよ」
「えっ……休み?」
「代わりに山口先生が閉めに来るので、五時までには片付けて出てください」
「……はい」
短く返事をして、動けなくなる。今日を逃したら、次はいつになるかわからない。 七月には期末が終わるが、短縮授業で部活が休みになる可能性も高い。 二学期まで間が空くかもしれない。
先生に会いたかった。話したかった。
だったら、話せばいい。迷いを振り払うように、茜は心の中で何度も繰り返した。
たとえ部活がなくても、先生には会える。
明日になれば、日本史の授業がある。廊下でも、教室でも、きっとどこかで顔を合わせられる。見られたってかまわない。誰がどう思おうと関係ない。だから、話そう。
その思いは、あっけなく崩れた。翌日、日本史の時間になっても、先生の姿はなかった。
代わりに入ってきたのは、担任の先生。静かに告げられたのは、ひと言だけ。
「今日は自習です」
ざわつく声があちこちで上がる中、茜は息をのんだ。
先生、どうしたんだろう。体調を崩しただけならいい。
でも——。
椅子が軋む音と共に、教室の視線が一斉に集まる。茜は無意識に立ち上がっていた。
隣の席から、桃佳の控えめな声が飛んだ。
「茜?」
担任の目が細くなる。
「何かありましたか?」
「先生……水無瀬先生は、どうして、今日は……」
担任は、一度だけまばたきをして、こう答えた。
「彼は退職しました。二学期からは、世界史の田辺先生が担当します」
音が消えた。風も、教室のざわめきも、遠くなる。何が起きたのか、理解が追いつかない。
突然だった。説明も前触れもないまま、いきなり。
ただ、そのあとに届いた知らせは、それどころじゃなかった。
水無瀬先生は、亡くなった——自ら命を絶ったと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます