(4)
アスファルトの冷たさの残滓が、毬子の掌に未だにねっとりと張り付く。植え込みの土の匂いが鼻腔の奥で鈍く、湿った空気が肺を満たしていたた。瞼の裏に焼き付いているのは、日毬の顔だ。感情がなかったはずなのに、底知れぬ嘲笑を湛えたその表情が、脳裏から離れない。嘲笑。文字にすればただの二文字の文字列なのに、それが、毬子の心臓を握り潰す。あの時、確かに轢かれたはずの身体は、今は痛みすら感じない。ただずっと寝ていたせいか、寝違えたような痛みが鈍く体に付きまとう。
再び何とか身体を起こす。寝起きの感覚を強烈化したように、全身の筋肉が硬直しているが、先程と違い立つことが出来た。視界は定まらず、ゆれうごいている。歪む風景の中で、日毬の嘲笑が、万華鏡のように増殖してゆく。日毬の存在が、自分をここまで貶めるとは、あの時は思いもしなかった。
復讐という、物心ついた時から考えたが、押し殺していたその二文字が、凍てついた毬子の心の奥で、熱を帯び始めていた。
これまで感じたことがないほど、ヒリヒリと熱い。熱い。熱い。冷たい絶望とは違い、鮮烈な感情だ。
怒りではない。憎しみでもない。それは、純粋な、破壊への渇望だ。あの嘲笑を、日毬の存在を、自分をこの世に引き留めた何かを。
────絶対に許さない────
毬子の視線が、目の前の道路をぱっと捉えた。黒く舗装された路面に、無数の車が行き交っている。速度を上げて迫り来る車体の轟音が、鼓膜を直接叩く。
あの時、自分を轢いた車と同じ車種。
ひょっとしたら、同じ車。
鈍い衝撃。
肉が潰れる音。
何事も無かったように去ってゆく後ろ姿。
しかし、今、毬子は立っている。体は無傷で。
顔が憎しみに染っていく。ぐちゃぐちゃに歪んでいるのが手に取るようだ。
眼光が車にあたるが何事もなかったかのように去ってゆく。そして返り血のように毬子に突き刺さる。
この世に存在する全てを、歪ませ、砕き、無に帰したいという、得体の知れない欲望が支配する。
そんな全てを叩き壊すなど、規模が大きく実現できるはずもないことが全身を熱く熱してゆく。だが、冷たい絶望は消えることがなく、復讐心と共鳴する。
足が、勝手に動き出す。漠然とした破壊への衝動が、毬子を駆り立ててゆく。街の喧騒が、遠くから聞こえてくる。
人々の話し声。
車のクラクション。
街の息遣い。
それらすべてが、毬子の耳には、嘲笑の響きに聞こ得てしまう。この街もまた、日毬の共犯者。自分を嘲笑う存在なのだ。
街も破滅に導く。いや、街ではない。手当たり次第に憎いものの人生を叩き壊す。
街が破滅に導かれるのは偶然に過ぎない。
人が消えれば必然的に町は崩壊する。
気づけばここに来ていた。毬子は商店街の通りを歩く。朝から人々が集い、活気に満ちている。道のあちらこちらで主婦たちが集い、笑いあっている。純粋な笑みも、彼女には嗤っているようにしかおもえない。無意識に顔を潜めながら、さらに進んでいく。
サラリーマンが出勤している。集団で笑い会うものや、一人で黙々と駅に向かうもの────。彼らの幸せも破壊する。誰一人、幸せを許さない。
囁く。囁く。囁く。
彼女の声は、誰にも聞こえない。
けれど囁く。囁く。囁く。
破滅へと導くために。
一人、またひとりと狂ってゆく。店がばたばたと潰れてゆく。みるみるうちに、商店街はシャッターに覆われる。
寂れた裏路地。ゴミの山が、異臭を放つ。その匂いは、毬子にとって、どこか懐かしい。
都会ですごした暗い二十五年。もうその時間は取り戻せない。
ずっと家族が許せなかった。両親を憎んでいた。今も憎しみは消えない。
だが、その感情を押し殺していた。
自分がおかしくなってゆくのが怖いから────。
夜が更けると、街の夜闇は深まっていた。街灯の光が、まばらに道を照らすが、死角の闇に吸い込まれる。
毬子は、人々の意識に働きかける。彼らの心の奥底に潜む、小さな不満、疑念、そして憎悪。それらを、増幅させてゆく。目に見えない糸を操る人形遣いのように、彼らを変容させてゆく。
隣人同士の些細な一論が、やがて激しい口論へと発展する。家族の間に潜む不和が、表面化し、絆を断ち切ってゆく。友人同士の信頼が、ほんの些細な誤解から崩壊してゆく。街全体に、不信と対立の種が蒔かれ、芽吹き、そして、蔓延してゆく。
だが、人々は、その異変に気づかない。誰一人として自分たちの内側から湧き上がる感情が、いかに歪んでいるかを知らない。
スーパーが閉鎖され、商店街の活気が失われ、街は人知れず死んでゆく。ただの過疎化ではなく、人為的に過疎化してゆく。人々は、互いに目を合わせようとせず、孤独な闇の中へと沈んでゆく。
毬子はやがて、街の隅々まで、その影響力を広げてゆく。学校、病院、役所。あらゆる組織が、内部から崩壊してゆく。職員間の不和や、情報の錯綜、そして、無責任な対応を産む。かつて街の基盤を支えていたはずのシステムが、機能不全に陥ってゆく。人々は、頼る場所を失い、さらに深い絶望の淵へと突き落とされていった。
夜の帳が降りた街は、まるで巨大な墓場のようだ。点在する街灯の光が、墓標の灯火のように見える。誰もいない通りを、毬子はさまよい続ける。その足音は、夜の闇に吸い込まれ、何の響きも残さない。
表面的な怪異とは違う。すべては人の憎しみや恨み、復讐心が生み出した現実的な破綻なのだ。
常に聴こえる嗤い声。
それは日毬の嘲笑か、あるいは、毬子自身の冷たい満足の響きか。その笑い声はやはり誰にも届かない。ただ、崩壊してゆく街の隅々に音もなく浸透してゆく。
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