(2)

瑠璃の内部で、何かがずるりと音を立てて滑り落ちる。自我のような薄皮が彼女から溢れ落ちると、すぐに形を失った。どこを捜せど見渡らず、彼女の思考を誰が支配しているのか、もはや瑠璃にはわからない。

もしかすると、思考は瑠璃自身のものだけではないのかもしれない。そんな感覚すら襲ってくる。気がつくと、脳の奥底に、冷たい水が染み入るように、別の意識が浸潤し、混ざり合う。なんだろうかと慌てふためくうちに、それはじりじりと迫り寄ってきた。

怖い。怖い。それだけは、残された自分の意思の中で分かり、声にならない悲鳴をあげる。どうしたら良いのか分からないのに、頭を抱え、かき乱す。

このおかしい感覚が終わるように、と具体的な思考が湧いたのでは無いが、この状況では行けないことははっきりと分かる。


何も分からない、何も考えられないまま、誰かの意志の第一声が明確に瑠璃の頭の中に響いた。もう引き返せないのではないか。その瞬間にそんなかんがえがよぎった。

耳から入る音ではなく、脳神経を直接叩く振動なはずなのに、誰の声なのかわかってしまう。知りたくもなかった。彼女がそんなことを思っていること。


ただ日毬の命令が、感情のない波紋となって瑠璃の思考の海を支配してゆく。

瑠璃は再び、前にひまりが生活に侵入した時と同様に、自分が深い霧の中に閉じ込められ、外界との繋がりを少しずつ失うような感覚に囚われる。やがてその霧は、過去の記憶を覆い隠し、未来への希望を消し去り、現在の認識すらも曖昧にしてゆく。


それでも、指先がぴくりと震える。だが、それももう瑠璃の意思ではない。日毬の命令であった。身体は意志に反して動き出す。足が床を蹴り、体が一瞬だけ浮き上がる。操り人形の足が見えない糸で吊り上げられるかのように、一歩一歩踏み出し、歩いてゆく。関節が軋み、皮膚が張り詰める。自身の肉体が、もはや自分の支配下になく、他者の意志に従うだけの道具へと変えられていることに、瑠璃は恐怖を覚えることも無い。恐怖はまだ感じないだけで、直ぐに彼女を襲うことは分かっている。けれど恐怖が迫るまでの間も、幸福がある訳では無い。安心がある訳では無い。

霧は依然として心を覆っている。

そう思った途端、

名前を持たない感情も、熱元に当てられた氷のように瞬く間に溶けてゆく。過去の悲しみも、喜びも、怒りも、すべてが曖昧な残像と化し、瑠璃の心から遠ざかる。残されたのは、日毬のもっている復讐への執着だけだ。


外に出ると、古びた二階建てのマンションが、瑠璃の視界を歪ませてゆく。日々の生活の場であったはずの建物が、真っ黒で巨大な口を開けているように見える。窓という窓が、誰かの怨念を宿した目のように、瑠璃を通して日毬を睨む。マンション全体が、日毬の復讐の意志に染め上げられ、形が変わったかのように見えた。

壁から染み出す湿気が、腐敗のような匂いを帯び、瑠璃の鼻腔を満たす。生ゴミが腐ったような酸っぱい匂いと、古い血の鉄臭さが混じり合った、耐え難い悪臭がそこにある。空気は重く、息を吸い込むたびに、その悪臭が肺の奥まで侵食してくる。最後にはヒリヒリとした痛みが残る。

瑠璃という形、自身を保てない。日毬の分身、ただの器。そんなことすら考えてしまう。瑠璃が元々居たという証すら見当たらない。瑠璃とはもともといなかったのか。

瑠璃とは虚像だったのか。


実在しない絶望すら彼女を襲い、僅かに残された残骸すら削り落としてゆく。

やがて彼女の思考は、日毬の復讐計画の遂行という一点に集中していた。


マンションの住人、一人一人の顔が瑠璃の脳裏に意図せず浮かびあがる。それぞれの顔に日毬の憎悪が貼り付けられ、標的として認識されてゆく。恨みも無いはずの住人の顔が憎しみにゆがみゆく。その度彼女の脳は日毬にひたされてゆく。

瑠璃の口元がわずかに歪む。かつて彼女自身が浮かべたことのない、冷酷な笑みがそこにある。

風船が突然破裂した時のような一瞬の戸惑い。

しかし、すぐに日毬の冷酷な喜びへと変容する。

足音が廊下に響く。規則正しく、感情のない響が、異質に区切られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る