(5)
父が完治したという。電話がかかってきた途端、緋音は足からくずれおち、倒れてしまった。二十四時間父の奇行とともに生活しなくてはならない。考えただけでこの先の未来が真っ暗に染った。希望など、あるとは思えない。何年間、絶望の日々は続くだろうか。
始まってもいないのに、緋音は既に絶望に浸っていた。
「嫌だ!いやだ!いやだぁ────!」
彼女は意図せず叫ぶしかなかった。嫌と言っても、何も変わらず明後日、父は退院する。そんな結末しか見えない。
看護師は当惑したように電話の向こうで息をするようになにか声を漏らしている。日常生活を遅れるほどに父の怪我は回復している。それでも病院は緋音の疲れている様子を見て待ってくれていたようだ。元は家で看護すれば良いほどで本当は退院する予定であったのだ。
そう、分かっていても納得はできない。これから二十四時間、奇怪な父の言葉と共に過ごすという事実は揺るがない。
看護師に宥められるが、彼女の言葉など別世界の出来事だ。しかし口は思いとは裏腹に「はい」と答え、電話は切られた。
明後日からは仕事にもゆけなくなるのだ。絶望が心を覆う。
翌朝起きたが、絶望はさらに深まっていた。今日の会社は、最後になる。心の準備も出来ないまま、あっという間にこの日を迎えてしまった。父がおかしくなってからこの未来は想像していたが、まだ覚悟ができていない。
職場のデスクに座っても、緋音の意識は、すでに退院後の生活に囚われていた。同僚の会話や、キーボードを叩く音やコピー機の唸りも、遠い世界のノイズのように響き、緋音の心をかき乱すだけだ。仕事が手につかないまま終業時刻になり、休職届を、印刷する。既に鞄にしまっていたボールペンを取り出すと、記入欄に文字を書き込んでいった。自分の意思とは裏腹に現実が進んでゆく恐怖に、身を震わせる。明日からは、会社にゆくことも出来ない。おかしくなった父の顔ばかり見て狂った声を聞くだけの日々になる。自分まで狂気に染ってしまうのではないかと緋音は憂慮する。明日が来るのが怖い。逃げてしまおうかと、真剣に考えた。
どちらにせよ仕事は続けられなくなる。
それなら父と暮らすより、逃げ続ける方が良いのかもしれない。明日病院にゆかなければ、父はしばらく入院するはずだ。その後は、想像もつかないが、狂った父の面倒を見るよりは良いのかもしれない。明日からのことを決められないまま、上司の机へ向かう。なるべく平然を装うように手を差し出したが、書類を持つてはふるえている。
上司は、疲労困憊の緋音の顔を見て、何も言わずに休職届を受理した。彼女の日常から、社会との繋がりが、一瞬にして断ち切られたのであった。
憂鬱な気分で、夜も眠れなかった。明日からは父が奇怪な言葉を発して眠れなくなるかもしれない。静かな夜も、最後であろうか。
父が死ぬまで面倒を見るなど、緋音には想像もできない。自分が生きて居られるかも分からない。父の死後の夜は静かであろうが、そこまで生きていけるとは思えなかった。あまりにも眠れな買ったら、倒れて入院するかもしれない。だがそれは極限状態に陥るということで、相当苦しむであろう。そして、それすらつかの間の安息であり、直ぐに終わりを迎え、再び辛い生活に戻る。
想像でもこんなに恐ろしければ、現実は想像を絶するものであろう。
そんなことを考えているうちに、夜は明けてしまった。
朝焼けが、窓の向こうで鈍く滲んでいる。朝焼けは緋音の心を照らすことなく、ただ部屋の冷たい空気を際立たせている。
着替える手は震えていて、心臓は胸の奥で激しく脈打つのを感じた。
何を持っていけばよいのか。
どこへ行けばよいのか。
思考は混乱し、まとまらない。
ただ、ここではないどこかへゆかなくてはならない。病院から、一刻も早く離れなくては、迎えにゆく時間になってしまう。
玄関のドアを開け、外の空気を吸い込んだ。ひんやりとした朝の空気が、肺の奥まで染み渡り、わずかに意識を覚醒させる。逃げなければならないという焦燥感が募ってゆく。
近くにある会社用の鞄を掴み、衣類や通帳、現金を詰め込んだ。最低限のものだけにしなくては、重くて走れない。服は現地で調達すれば良いと思い、鞄から引きずり出す。幸い外は寒く、厚着を出来そうだ。服をなるべく重ねると、立ち上がる。
最後に携帯電話を掴もうとして、ハッとした。携帯電話のアドレス帳には、北山病院の名前も入っている。仮に消しても、かかって来るはずだ。持って行けない。そう思い、投げるようにテーブルに捨てると、ドアを開けて走り去っていった。
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