(2)
時計が零時を打つと、靖人は重い足取りで会社を後にした。
駅までの道は遠く、冷たい風に晒されながら、ただひたすら歩く。普段でも遠い二十分の道のりが、残業に疲れた体に響く。
ようやく駅に着くと、深夜列車に乗り込んだ。深夜列車は、一両に五人ほどで、とても空いている。広い座席に座れることが、唯一の救いであった。電車に揺られ、疲労困憊の体を引きずるようにして、一人暮らしのマンションにようやく辿り着く。鍵を開け、玄関のドアを開けると、微かに生活臭が鼻を突いた。
習慣のように呟くと、こえは静まり返った室内に吸い込まれてゆく。返事はあるはずがない。それが日常である。
ずかずかと、居間に進む。ため息混じりに扉を引くと、電気が部屋を照らしていた。
電気を消し忘れたか、と落胆しながら、中に入る。
水色の何かが、ぼんやりと目に映る。水色の何かがあるのだろうか。目を擦りながら、はっきりと視線を向ける。
水色のワンピースを着た、少女が佇んでいる。彼女が部屋にいるなど、論理的にありえない。
だが、靖人の心には、驚きも、恐怖も、疑問も、全く湧き上がってこない。まるで、そこに少女がいることが、ごく自然なことであるかのように、彼の意識は平穏を保っていた。
「ああ、帰ってたんだ」
少女は、靖人の顔をはっと見上げ、呟くようにボソリと言った。
靖人は、やはり当たり前のように返事をする。数分がたった今も、少女がなぜここにいるのか、という疑問は、彼の意識の表面をかすめることすらなかった。
彼は、いつものようにネクタイを緩め、ジャケットをハンガーにかけた。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを開ける音が響く。一口飲むと、冷たい液体が疲れた体に染み渡る。
少女は、依然として部屋の隅に座り、じっと靖人を見つめている。しかし、彼女の視線はまるでそこに存在しないかのように、彼の意識を素通りしてゆく。
靖人は、テレビのリモコンを手に取り、ニュース番組をつけた。アナウンサーの無機質な声が、部屋を満たす。
靖人は、冷蔵庫に残っていたパック米とレトルトのカレーを二つずつ取り出し、電子レンジで温めた。
少女のまえに、温まったカレーを置くと、二人で食べ始める。他愛もない会話を当たり前のように交しながら、気づけば食事は終わっていた。食事が終わってしばらくして、深夜だったことを思い出す。ハッとして、焦りが彼を焦がしてゆく。
着替えると、少女のパジャマを探そうと、部屋の隅々を見やる。当然少女のものがあるはずもなく、彼は落胆するしか無かった。それでも、疑問は浮かばない。ただ淡々と、明日買いに行かなくてはと思うだけだった。
諦め、少女にそのまま寝るように告げると床に、布団をしく。
彼女が寝たのを確認すると、靖人はベッドに潜り込んだ。少女の寝息が、すぅすぅと聞こえる。なにか思うことも無く、靖人は少女の様子を見ていた。
そのまま、意識は遠のいてゆく。
ピリリリ
靖人は、目覚まし時計の音でと目を覚ました。遅い目覚ましで起きてしまったとハッとする。勢いよく体を起こし、立ち上がる。下にしかれた布団を見ると、少女はまだ寝ているようだった。肩を叩き、彼女を起こすと、身支度を始める。顔を洗い、歯を磨き、スーツに袖を通す。朝食は抜き、コーヒーだけを飲む。
玄関のドアを開け、外に出ると、太陽が眩しく照りつけていた。ふと、少女をどうしようかと思いながら、足は普段のように駅へ向かう。満員電車に揺られながら、少女のことを考えていた。脳裏では、今までは彼女がいなかったことがわかっている。だが、心ではずっと昔から彼女がいたように思う。そんな不思議な感覚に何かを感じることも無く、ただ人波に飲まれてゆくのだった。
会社に着き、デスクに座ると、直ぐに彼は書類の山に埋もれてゆく。同僚との他愛ない会話、パソコンの画面に表示される数字の羅列。彼の日常は、昨日や一昨日、一年前とも寸分変わることなく、淡々と過ぎてゆく。
夜になり、再び靖人は一人、マンションのドアを開ける。電気が外に漏れでる。少女の影が、廊下に伸びている。
しかし、温もりは感じられず、部屋は、冷たい空気が支配していた。まるで人の気配はない。冷ややかな風が室内から吸い出され、彼のほうを撫でた。
少し不思議だと思いつつも、中に入る。確かにそこに座っているのに、少女の気配は感じられなかった。家具類と同じように、空間に静かに浮かんでいる。
テレビをつけ、レトルトの夕食を済ませ、風呂に入り、ベッドに潜り込む。眠りにつくまで、彼の心には何の波乱もなく、ただ静かな時間が流れてゆく。
少女との関係は、特に意識していない。娘なのか、妹なのか、あるいは友人なのか。
そういった概念はなく、そこにいて、生活を共にするのが当たり前に感じる。
少女と暮らす日々は、彼の感情や思考に何の影響も与えることなく、過ぎてゆく。彼の世界は、常に一定の温度を保ち、外部からの刺激を拒絶するかのように、平穏で無事に回り続けている。
それは、常識では考えられない、異質な日常だ。それに誰一人気づくことなく、時は彼らの前をとおりすぎてゆく。
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