新しい家族

如月幽吏

序章 深夜列車───────────

(1)

トンネルの中の闇は、周囲の闇よりひときわ濃厚だ。

トンネルの暗闇が、みるみるうちに迫ってくる。電灯が暗闇で灯っているが、周囲を照らせず白く際立っている。トンネルをぬけても尾を引くように闇が深夜一時の列車を包む。

黒いインクの海のように、星一つ見えない。時折、遠くの街の灯りが、水面に浮かぶ微かな光のように、一瞬だけ現れては消えてゆく。車内は、規則的な走行音だけが響き、他の音は一点に吸い込まれたように皆無で、シーンとしている。三人の乗客は、皆、深い眠りに落ちている。

時折彼らは目を覚ますが、手に持ったままの文庫本を少し読むだけで、すぐに微睡みに吸い込まれてしまう。

肖美あゆみも残務を終え、ようやく帰路についていた。あくびが気づけば漏れ出ている。早く帰りたいという一心でまだ遠い最寄り駅まであと何分くらいかと考えた。この最終便を乗り逃していたら帰りは明日になっていた。少し安堵するのと同時に、間一髪であったとひやりとした。

まだ貯金も少なく、物価高の影響で、少ない給料は飛ぶように消えてゆく。タクシーには乗れない。明日も仕事はある。朝帰ることも出来ないため、そのまま会社に行く事になる。そうなっては、家族が心配すると思い、安堵の息をついた。

眠気が波のように襲ってきたため座席の背もたれに身体を預け、目を閉じる。意識は気づかないほどに緩慢に沈降してゆく。過去の断片や、明日以降の未来の輪郭が、ぼやけた映像のように浮かんでは消える。現実と夢の狭間を漂う、短い遊泳のようだ。

列車は、時折、小さな駅に滑り込む。誰も乗るものもいず、しばらく扉を開けた後、通り過ぎていく。無人の駅が少し不気味で目覚めた乗客は域を飲んでいた。

冷たい風が流れ込み、車内は一気に冷やされる。扉がしまった後も風がピューっと通り抜けた。

蛍光灯の青白い光が、眠りこけた三人の顔を、まるで仮面のように照らし出す。短い停車時間の後、重い車輪を軋ませ、列車は再び闇の中へと出発する。深い藍色の夜を、縫うように進んでゆく。窓ガラスは黒曜石のように、外の景色を曖昧に映し出し、内と外の境界をぼかす。蛍光灯の光は、車内をどこか幽玄な雰囲気に包んでいた。鉄の車輪がレールを叩く音は、遠くから聞こえる誰かの囁き声のようにも聞こえた。

時折車内を通り抜ける空気に載せられ、どこからか廃棄ガスの匂いが微かに流れ出す。

三人ともくらい色の服を着て、疲れからか暗い空気を纏っている。その暗い色の塊の中に、ふと、異質な色彩が目に飛び込んできた。

いつから居たのだろうか。暫く寝たり起きたりを繰り返していた肖美は、車体が揺れて目を覚ました。何もおかしなことは起きていないのに、呆然として車内を見渡す。

パステルカラーのなにかが、ちらりと目の端に移った。

残業で鈍っていた意識が、その色に引っ張られるように覚醒した。何気なく隣の席に目をやると、そこには、水色のワンピースを着た少女が座っていた。

なぜ、こんな時間に、少女が一人でいるのだろうか。

彼女の存在は、この静かで暗い深夜列車の風景の中に、確かな異物を突き刺している。肖美は、喉が渇いたように、ごくりと息を飲んだ。心臓が波打っている。

親が一緒だとしても、この時間に少女がいるのは不自然だ。ましてや、彼女は一人で座っている。表情はなく、ただ車内の人々を見わたしているようだ。

何を考えているのか、全く分からない。彼女の周りには、光も、影も、ないように見える。陰影がなく絵画の中から抜け出してきたようにみえる。だが、決して平面的ではなく、人並みの立体感を持っている。他の乗客たちには、当たり前のように陰影があり、この現実に溶け込んでいる。しかし、少女はここから切り離されているように、浮き上がっている。だが、ぼやけているわけではない。むしろ、その輪郭は、くっきりと浮かび上がっている。

言葉ではう言い表せないような彼女の姿に、気づけば、肖美の視線だけではなく車内にいる、他の僅かな乗客たちも、皆、息を潜めて彼女を見ていた。しかし、少女は、その視線に気づいているのかいないのか、動じる様子もなく、一人ひとりの顔を、見返している。

電車は、相変わらず、規則的な音を立てながら、闇を突き抜けてゆく。しかし、車内の空気は、張り詰めたままだった。しばらくして、列車は大きな駅に到着した。普段ならば多くの乗客が降りるはずの駅だったが、彼女の存在が気になり、席を立つ者はわずかだった。皆、言葉もなく、その少女を見つめている。

そして列車は終点に到着した。果てしなく長い時間だったと、肖美は思った。扉が開き、人々は、重い足取りで降りてゆく。肖美も、その流れに身を任せた。混雑の中、ふと、もう一度、少女のいたはずの席に目をやった。しかし、そこに、水色のワンピースは見当たらなかった。まるで、幻だったかのように、彼女の姿は、跡形もなく消えていた。

混雑に紛れ、降りたのだろうか。ふと、去ってゆく群衆の背中を見る。

もう、少女は去ったようだった。

深夜の終着駅の、冷たい空気が、肖美の肌を撫でた。

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