第13話
久しぶりにマガと離れてごはんを食べた、と、アナは思った。
夕食のときは、朝食と違いわいわいとにぎやかに食事が進んでいる。上段にいるのはリーコスとカロンだけで、ドゥリディスの姿は見えなかった。これは普段通りで、彼はいつも、夕食だけは1人でとるようになっている。そのせいか、リーコスは他の食事時より余計に目を光らせているのだ。
アナから3つほど離れた席に座っているマガは、歳の近いこどもと笑いながら夕食に手を付けている。今日は白パンに野菜スープ、ひき肉のつまったオムレツだった。
「珍しいね、アナがマガと一緒にいない」
「なんか、喧嘩? したんだってぇ。くだらない」
「そんなこと言っちゃだめよ。マガも頑固だからねえ、長引かないといいけど」
「そうね。早いとこ仲直りしてもらわないと――ちょっとアナ! またこぼしてる!」
「わあ、大惨事」
「アナ! 聞いてるの? アナったら!」
「そうねえ、早いとこ仲直りしてもらわないと……こっちが大変なんだもの。8歳のお子さまなんて、もうアナしかいないんだから!」
アナはスプーンからひき肉をぼろぼろこぼしながら、じっとマガを見つめている。アナの両隣が阿鼻叫喚になっていることなど知らずに。
――思えば、ここに来てからずっと彼女と共に過ごしてきたように思う。少なくとも6年ほどを一緒に過ごしてきて、離れた時はどちらかの体調不良のときだけだった。だから、今日は少し冷えるのかもしれない、と、アナはほとんど何も乗っていないスプーンを口に運びながら思った。
……あとであやまりに行かなくちゃ。なんであれ、わたしはマガを怒らせちゃったんだから……。
器を持ち上げスープを飲み干し、ひき肉と卵を何とか集めてかき込み、アナはいの一番に食べ終わると、食器を返却棚に返し走ってドゥリディスの元へ向かった。
――後ろから追いかけてくるリーコスの怒声は、聞かないふりをした。
コンコン、と大きな赤いドアをノックする。しばらくして、返事があった。アナはドアをうんうん言いながら開け、顔をのぞかせる。
「いらっしゃい、アナ」
「しつれいします」
部屋の中では、いつもの車いすに座ったドゥリディスが、1人本を読んで彼女を待っていた。ランプの光のみがそこそこに広い部屋の光源を担っている。炎が揺れると、彼の背後に映る巨大な影が大きくゆがみ、まるで怪物のようにアナには見えた。影にあるクローゼットやベッドの下、そういうところからお化けでも出るんじゃないかと思えて仕方ない。それがほんのすこしだけ恐ろしかったから、彼女はドゥリディスの部屋に足早に駆け込んで、彼の膝にしがみついた。
ドゥリディスの自室は、質素で薬草のにおいがする。月に一度診察に来る町医者が置いていく薬のにおいである。それが彼の足には染みついていた。
「おいで」
ドゥリディスは本を閉じ、アナを自らの膝の上に招く。ドゥリディスに背を向けて膝の上に座るとあたたかな木漏れ日のような体温に包まれ、アナは漸く息をついた。
「アナ。今日は王子さまと、何を話したのかな」
「昔話いっぱい聞いたよ。勇者さまがぼうけんするの。先生知ってる?」
「ええ。聞いたことはあります」
「わたし、知らなかった。先生とかマガ、いっぱい絵本読んでくれたけど、勇者さまのおはなし、読んでくれなかったよね」
「そうですね。読んだことはないかもしれません」
「なんで?」
「もう少し、大人になってからの方が、面白いと思ったんです」
「ふーん」
「面白いと思うようになったんですね。成長です」
「……あのね、先生。アマルさん……王子さまはね、勇者になるんだって。てはず、なんだって」
「うん」
「それでね。勇者になったらね。旅をするんだって。なかま? をさがして……海とか、山とか、どうくつ……とか。いろんなところに行くんだって」
「そうだね」
「みんなで力を合わせて、まおうをたおすんだーって、言ってた」
「そうか……」
「……あのね」
アナはドゥリディスの膝の上でもぞもぞ動き、向かい合わせになる。
「わたし、聖女さまになるよ」
「……」
ドゥリディスは、穏やかな微笑みを浮かべたまま、アナの頭を撫でる。アナは猫のようにその手にすり寄った。目はしっかりとドゥリディスを見たまま。
「いい? 先生」
「……私は」ドゥリディスは小さく息を吸い込んで、言葉をつづけた。「私は、どうしても、賛成できない」
アナは息をのむ。ドゥリディスから発された明らかな拒否に驚いて、少しの間声を出すことができなかった。まただ、とも思った。先生も、またマガみたいに否定する。わたしはもう、あかちゃんではないのに。
「……なんで?」
かすかに震える声で問いかける。かんしゃくを起こした子どもをなだめすかすような優しすぎる生暖かい声色が妙に癪に触って、アナの声はいつもより少しだけとげとげしかった。
「なんでも、です。あなたはまだ幼い……そんな子どもに、世界を任せるのは早すぎる」
「でも、アマルさんも司祭さまも、なってほしいって言ってくれたもん」
「それは」
「なんでダメなの? マガも先生もおかしいよ、わたしは「かみさま」に選ばれたってアマルさん言ってたもん。なのにダメなの? なんで? なんで!」
「アナ」
「……」
ドゥリディスはアナの頭をなでるのをやめ、その薄い肩に両手で触れた。アナは自分の膝を見たまま、目を合わそうとしない。わかってください、とドゥリディスは言う。
「あなたには聖女の資格がある。それは私にもわかります。……けれど、言ったでしょう。あなたはまだ、子どもなんです。守られるべき存在です。……私もマガも、あなたのことを心配して」
「もういい!」
「!」
アナは無理やりドゥリディスの膝を飛び降り、そのまま部屋の外へ走りだす。入る時にはあんなに重たく感じたドアも、今はちっとも重く感じなかった。
廊下を走る。板張りの床がぎしぎしと軋み、夕食を食べ終え自分たちの部屋へ帰っていく子どもたちの間をすり抜ける。小さな末っ子が、誰にもにこにこ笑顔を向けることなく走っていくのを、子どもたちは珍しいものを見る目で見送った。直後、ガシャンという聞いたこともない大きな音がして、子どもたちは慌てて音の鳴った方――ドゥリディスの自室へと走る。
アナは走る。何があっても振り返らず、自分のつま先と、その少し前の地面だけを見ながら。食道の横を通り抜けるときに、彼女の声がした。
「アナ?」
背後から、素っ頓狂なマガの声が聞こえる。少し前に合った事などすべて忘れたような、純粋に困惑と心配の感情だけが乗った声だった。ものが倒れた音と、子どもたちが騒ぐ声につられて出てきたのだろうか、きっと食堂の入り口から顔を出しているに違いない。振り向く勇気はなかった。足を止めてしまいそうで。
「ちょっとどこ行くのさ、アナってば! ちょっと! ……ああもう!」
マガが追いかけてくる、気配を感じた。彼女は自分より背が高いから、きっとすぐに追いつかれてしまう――そう思ったのに、マガはいつまでたっても追いついてこなかった。
アナは玄関を飛び出す。
夜の空気が全身を包み、思わずもう帰ってしまおうかな、なんて思わなくもなかったけれど、それでも走った。
庭を抜ける。
門から右に、3本柱を過ぎた左の足元。アナがぎりぎり通れるほどの抜け道がある。塀が崩れたそこを四つん這いになって抜けた。
丘を下る。
いつも通る砂利道ではなく、草が生い茂る丘を駆け下りる。鋭い葉っぱの先が足にかすり、微細な傷をつくった。
なぜだか涙が両目からぼろぼろとこぼれてきて止まらなかった。今にでも立ち止まって大声で泣きわめいてしまいたかった。――けれど、頭の中のどこかが、それを許さない。
本当は、子どもといわれて傷ついていたのかもしれない。子どもである自覚はあるし、自認もある。けれど、あんまりにも子ども扱いが過ぎたのだ。
――わたしだって、誰かの役に立てるもん! と。信じてしまった。自分の力を、はるかに地位も力もある男に言われた言葉を、劇物をうのみにした子どもは、なによりも否定を嫌った。
しかしそれでも、一人ぼっちは随分と寂しいものである。
誰も、マガでさえ追いついてこない逃亡劇は、彼女の決意をぽっきり折ってしまうほどには孤独で恐ろしいものであった。
あんなに前へ前へと突き進んでいた足は次第にゆっくりになり、その内に完全に止まる。さく、さくと草をふむ音がやみ、風が木々を揺らす無機質な音ばかりが響いている。獣の声も何もしない。
気がつくと、そこは深い森の中だった。
のどが震える。アナはその場にぺたんと座り込み、小さく声を押し殺して泣いた。どうしようもなく悲しかった。自分が何に対して悲しんでいるのか、涙をこぼしているのか、アナの幼く小さい頭にはわからない。
頭上で、大きな月が輝いている。まるで「かみさま」が、かわいそうなひとりぽっちの女の子を静かにみおろしているかのよう。差し伸べられる手はないが、進むべき道を教えてくれるような気がした。
アナはしゃくりあげながら胸の前で手を組み、祈った。染みついた動作は、洗練され、その祈りをどこかの誰かへ届ける。
――たとえそれが、願いの先にいるべきではないものへでも。
「どうか――どうか、かみさま――」
どこかで、カチリ、と、ピースのハマるような音がした。
〇
「先生!」
リーコスが子どもに手を引かれドゥリディスの自室に向かうと、彼は半端に開いたドアの前で、車いすごと横倒しに倒れていた。いすと体とを結ぶベルトがきつく彼を締めあげ、体を起こそうにも起こせないのだった。リーコスは慌てて車いすを起こし、ドゥリディスをもとの通り座らせようとする。しかし、ドゥリディスはその手を払いのけ、リーコスにすがった。
「リーコス、あの子は。アナは」
「アナ? いま、走ってどこかに」
「追いかけなさい、今すぐ!」
「はい? 先生、何を」
「リーコス!」
「……ッ」
鬼気迫る勢いに、リーコスは気圧される。その周りにいる子どもたちは、異変を察知しておろおろとするばかりだった。今にも泣きだしてしまいそうな子供もいるというのに、ドゥリディスにはそれが見えていない。はっきり言って、異常だった。
「マガが、行ったよ」
カロンが姿を見せ、一言呟く。たったそれだけで、ドゥリディスは目に見えて落ちつきを取り戻した。よかった、と呟いたのは、一体誰に対してだったのか。
リーコスは今度こそドゥリディスを助け起こし、車いすに座り直させる。ドゥリディスも泣きそうな子どもを膝に乗せ、優しく額にキスをしてやった。
「ねえ、先生」
「……」
「言えば、いいじゃん。全部。あの子に」
「カロン」
「言わないと、結果はかわらない。でしょ? どうせ、あの子、には。重いものがついて、回るんだから」
「……そう、ですか」
――ふと、ドゥリディスは。
何かのピースがはまるおとを聞いた。同時に、彼は叫ぶ。
「今すぐ庭に逃げなさい! 早く――」
――轟音。目も眩むほどの閃光が、全員の視界を焼いた。
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