第11話

「こんにちは、アナ」

「……こんにちは……」


 アナは高い場所にある男の顔を見上げ、蚊の鳴くような声であいさつを返した。お面のような笑顔がほんの少しだけ恐ろしく見えて、今にも濡れた地面にお尻をついてしまいそうだったけれど、なんとか我慢する。足元に寝転がる猫がにゃーんと鳴いて、地面に描いていた彼の似顔絵を消し去った。彼女にとって、それが唯一の救いであった。




 ――礼拝の翌日は、からりと晴れた良い天気であった。深夜に降ったらしい雨はすっかり上がり、ところどころ、街に向かう道に水たまりを残すのみだった。

 アナはいつも通り起きて、朝食を食べ、マガに手伝ってもらいながら簡単な勉強をして過ごしていた。――彼が、孤児院を訪れるまでは。



「アナ。昼食の後、庭に出て人を待っていてほしい」


 昼食のパンを口いっぱいに詰め込んだまま、アナはリーコスを見上げた。ほっぺたをパンパンに膨らませたその顔はリスに似ている。口にものをいれたまましゃべってはいけないと常々言われているので、アナは一生懸命咀嚼して飲み込んで、それから「なんで?」と声を上げた。リーコスは眉間に手をやってため息をついた。


「なんでもだ」

「マガと一緒?」

「1人」

「にいには?」

「いない。先生と用事がある」

「ねえねも?」

「先生と用事だ」

「アナひとり?」

「そうだ」

「……」

「できるな?」

「……うん」


 最初はきらきらとしていた目が、可能性をつぶされていくたび悲しそうな色を帯びていく。最後は返事こそしたものの、聞き取れるか聞き取れないかの境みたいな声量だったし、会話のあとに手を付けたパンにかじりつく一口もちみちみしたものになっていた。マガが横にいるときにこの話をしないでよかった、と少しだけリーコスは思った。


「……ごちそうさま」

「よく食べました……お前、ちなみに体調は」

「なんともなーい」


 アナはがたがたといすを降り、食器を両手で持つと返却棚へ返しに行く。食器を洗う当番の子どもがカウンター越しにそれを受け取り、アナは自由になった。リーコスはそのままどこかに行こうとする彼女を捕まえ、一緒に庭に出る。あー、と声をあげるアナは、どこか少しだけ楽しそうだった。



「昨日の王子様だって、待ってるの」


 アナは庭の出入り口にしゃがみ込み、その辺に落ちていた小さな木の棒を拾って地面に絵を描いていた。餌を強請る野良猫――大きな黒猫である――を足元に侍らせながら、木の枝で地面を削る。片手では猫のお腹を撫でていた。

 一番大きく描かれた人間らしい絵の横にマガ、逆さまにした雫に丸い目がついているような絵の横にカロン、もはやよくわからないもじゃもじゃしたウニみたいな絵の横にリーコス……と、アナは次々仲良しな人間の似顔絵を描いているようだった。

 次のスペースに誰を書くか迷って、アナは筆を鈍らせる。


「どんな人だったっけ。……髪の毛が白くってー、うーん」


 猫に話しかけながら、アナはうにゃうにゃ地面に線を書く。丸い輪郭に、申し訳程度の髪の毛を生やしたところで――ふと、自分に影がかかっているのに気がついた。


「?」


 アナは顔をあげる。

 ――そこに立っていたのは、アマルその人だった。思い浮かべていた銀の髪が、さらさらと揺れて光っている。彼は昨日見た時よりもいくらか楽な格好をしていた。


「!」

「こんにちは、アナ」

「こんにちは……」


 アナはさっと立ち上がり、まるで防御するかのように胸へ猫を抱いた。ほとんど抱けていない体勢をいやがったのか、するんとアナの細い腕をかいくぐって逃げてしまった。あ、と思ったときにはもう遅く、丘を駆け下りる黒い塊が遠くに見えるだけであった。


「マヴロ……」

「……ごめんなさい、飼い猫? だったのかな」

「ううん、野良だけど……」

「そうか」

「あの、先生のところ、案内します」

「先生?」

「あ、ドゥリディス……のところ」

「ああ……いや。その必要はない」

「?」


 孤児院の建物に向かった歩きだそうとするアナを制し、アマルはその場にしゃがみ込む。アナよりほんの少し下がった目線で彼女の顔を見れば、不思議そうな顔をしてアマルをじっと見ていた。子供の視線の前ではすべてが白日の下に引きずり出されてしまいそうで、アマルは少しだけ恐れていた。


「アナ。今日は、私とお話をしてくれないか」

「お話?」

「昨日、司祭さまから聞いたと思うのだけど……聖女について」

「聖女さま……」

「うん」

「きいた、けど……よくわかんなかった、です」

「難しく考えなくてもいいよ、きっとわからないだろうから」

「……」

「アナ、お願いがあるんですが」

「?」

「お話するのにいい場所を知らないかい? お菓子を持ってきたんだ、一緒に食べよう」

「おかし!」


 アマルは服のポケットからかわいらしい包みを取り出して振ってみせた。包装を解くと、中には小さな焼き菓子がぎゅうぎゅうに詰めてある。アナは急に目を輝かせて、訝し気な顔をにっこりと笑顔にして大きく頷いた。そしてそのまま、アマルの手を引いた。――その手の、なんと小さいことか! アマルは思っていたより何倍も小さい少女の手に目を見開き、引っ張られているはずなのに微動だにしないその力のなさにも呆けた顔をさらした。


「いこ、王子様!」


 それでも、アナは眩しい――眩しすぎるほどの笑顔を向け、どこかへ案内してくれようとしている。それが胸の内のどこかを焼くような感じがして、アマルは小さく、誰にも分らないほどに微笑んだ。


「――、と」

「?」

「王子様、ではなく、アマルと呼んでくれ」

「アマル、さん?」

「ああ。……行こう」


 アマルはたちあがり、といってもアナに手を握られているから中腰にしかなれなかったが、そのままアナについていった。

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