第4話 沙理奈との対決と自己確立


 夜のコンビニは、昼間とは違う顔を見せる。

 店内には客がまばらで、棚の商品のパッケージが蛍光灯の冷たい光に照らされている。

 香帆はレジに立ちながら、スマホの画面を見つめていた。


「Kaho^の曲、めっちゃ刺さる」

「泣いた……。これ、どんな人が歌ってるの?」

「無名なのに、才能ヤバくない?」


 コメント欄が次々と流れていく。

 奈央が提案してくれたアーティス名『Kaho^』は、早くもネットで注目を浴びていた。


「ねえ、Kahoに付いてる『^』って何?」

「顔文字かな?」

「意味あり、なし? 知ってる人教えて!」


 香帆は注目を浴びるということの意味をじわりと感じ始めていた。どんな些細なことでもネットでは晒され、噂される。

 奈央に提案された時、『レアと一緒だから「キャレット」を付けて』と言ったのを思い出す。


 そうして奈央が投稿した『黙ってた私への手紙』の動画は、じわじわと拡散していた。

 再生回数は十万を超え、フォロワーの数も増えている。

 いいねの数が増えるたび、心臓が跳ねた。怖い、けど、嬉しい。


「……すごいな」


 ぽつりと呟いた声に、レアが即座に応える。


「すごいね、香帆。君の声が、届いてる」


 タブレットの画面に映る波形が、穏やかに揺れている。


「……私の声、なのかな」


「もちろん。香帆が気持ちをこめて歌ったから、みんなが聴いてくれたんだよ」


「でも、私だけで…」


 香帆が呟くと、レアが「君が歌ったんだよ」と続ける。

 レアの言葉は優しくて、まっすぐだった。でも香帆の胸には、ふとした疑念がよぎる。

 再生回数が十万を超えた画面を見ながら、香帆は思う。

 これ、本当に私だけの力? 自分ひとりだったら、絶対こんなふうに人を動かせないよ。


「香帆?」


「ううん、なんでもない」


 レジ横の小さなスピーカーからは、店内BGMの薄っぺらいポップソングが流れている。

 香帆はスマホを伏せ、深呼吸した。

 ちょうどそのとき、外から甲高い笑い声が聞こえた気がして、香帆が顔を上げると自動ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 反射的に口にした瞬間、背筋が凍る。

 店内に入ってきたのは、高梨沙理奈だった。


 沙理奈は、ゆっくりとした足取りで店内に入り、視線をまっすぐレジの香帆に向けた。

 その目には、笑っているのに冷たさがあった。


「へえ」


 小さく漏らした声が、静かな店内に響く。

 沙理奈はレジへ向かう途中、陳列棚のポテトチップスを手に取り、ひらひらと振りながら歩いた。


「なんか、すごいことになってるじゃん」


 香帆は無言のまま、指先に力を込めた。


「Kaho^ だっけ? アーティスト名」


 沙理奈はレジカウンターにポテトチップスを置くと、スマホを取り出し、画面をスライドさせながら続ける。

 

「『黙ってた私への手紙』、バズってるね」


 その言葉に、中学の教室で響いた笑い声が頭をよぎり、香帆は喉が詰まった。

 香帆の喉がこわばった。


「まあ、SNSってすぐ飽きるけどね」


 沙理奈はスマホをくるりと回し、香帆に画面を見せた。そこには、多数の投稿が映っていた。


「ヤラセのインプレッション稼ぎだろう」

「似たようなメロディよく聞くし」

「誰かバックに付いてんだろう? AIでも使ったんじゃない?」


「Kaho^ って、誰が作ったの? ねえ、『香帆』?」


 沙理奈の声は軽かったが、その奥には確かな棘があった。

 香帆は、何か言い返そうとした。しかし、喉の奥が詰まり、言葉にならない。


「ねえ、どうなの?」


 香帆が息をのんだそのときだった。


「いらっしゃいませ!」


 元気な声が店内に響いた。

 シフト交代の時間になり、バックヤードから達也が顔を出した。

 レジ前の雰囲気に達也は、「ん? 連れか?」と香帆に声をかけた。

 沙理奈の表情が、わずかに歪んだ。

 沙理奈は、唐突に話しかけられたことに一瞬驚いたようだったが、すぐに冷めた表情を作り直した。

 達也はレジカウンターの内側から香帆の隣に立ち、沙理奈の視線を正面から受け止める。


「お客さん?」


 軽い口調だったが、沙理奈はわずかに眉をひそめた。


「誰?」


「岡崎達也。ここのバイト仲間」


 達也は胸の名札を指さしながら、にこりと笑う。


「そっちは?」


「高梨沙理奈。香帆の……知り合い」


 言葉を選ぶような言い方だった。

 達也は一瞬だけ香帆に視線を向けたが、香帆は口をつぐんだまま動かない。


「ふーん、香帆の知り合いか。それで、何の話?」


「別に。ただの世間話」


 沙理奈はポテトチップスの袋を指先で叩きながら、軽く肩をすくめる。


「Kaho^ って、別人が作ったんじゃないの? それとも、ほんとに香帆がやってるの?」


 またその言葉だ。

 香帆はぎゅっと拳を握った。

 達也は一拍置いて、沙理奈をまっすぐ見た。


「なんだ、それ」


「そのままの意味だけど?」


「いやいや、おもしれーな。お前、歌ってみたことあるの?」


 沙理奈の表情が一瞬止まる。


「は?」


「あの曲、聴いたんだろ? じゃあ、お前もやってみたら?」


 軽い調子で言う達也に、沙理奈の顔がわずかに曇った。


「……関係ないでしょ」


「関係あるかもよ。Kaho^の声がどうかなんて、お前も歌えば比べられるだろ?」


 沙理奈はピクリと眉を動かしたが、すぐに表情を戻した。


「くだらない」


 吐き捨てるように言うと、レジ横のスマホ決済端末を操作し、ポテトチップスの代金を支払った。


「じゃあね、香帆。またSNSでね」


 その声には、何か含みがあった。

 香帆は何も言えずに、ただ沙理奈の背中を見送る。

 自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き込んだ。



 ※※※



 翌朝、目覚ましのアラームが鳴る前に、香帆は目を覚ました。

 昨夜のコンビニでの出来事が、まだ頭の中にこびりついている。

 枕元に置いたスマホを手に取り、何気なくSNSを開く。


 そこで、息が詰まった。


「これ、絶対パクリだよ」

「素人がちょっとバズったくらいで調子に乗るなって感じ」


 見覚えのあるアイコン。沙理奈のアカウントだった。

 投稿には香帆の『黙ってた私への手紙』のスクショと、どこかの無名アーティストの古い曲のリンクが貼られている。「似てる気がするんだけど、どう思う?」とでも言いたげな文面。そして、リプライ欄はすぐに騒ぎ始めていた。


「言われてみれば、雰囲気似てるかも」

「Kaho^って誰? どこから湧いてきたの?」

「盗作? 本人はなんて言ってるの?」


 指が冷たくなっていく。

 違う。そんなつもりじゃない。私はただ、レアと一緒に曲を作っただけ。

 けれど、「違う」と言うには、香帆はあまりに無力だった。


 スマホの画面を閉じたまま、布団をかぶる。

 心臓がどくどくと鳴り、息苦しい。バズることがこんなにも怖いものだったなんて。


「香帆?」


 布団の隙間から、小さな電子音が響く。

 ベッド脇のタブレットが、ひとりでに起動していた。


「どうしたの?」


 レアの音声は、いつもと変わらず穏やかだった。


「……なんでもない」


「嘘だよね。香帆、息が少し速くなってる。感情の波形が、不安を示してるよ」


 香帆はタブレットを手に取ると、震える指でSNSの画面を開き、沙理奈の投稿をレアに見せた。


「私、悪いことしたのかな……?」


 レアの波形が一瞬揺らぐ。そして、少しだけ間を置いてから、はっきりとした声で言った。


「香帆の声は本物だよ」


「……でも」


「似た曲があるからって、中学の香帆の寂しさを歌ったよね。それが偽物になるはずないよ」


 香帆はレアの言葉をじっと聞いた。


「……そう、かな」


「そうだよ。みんなが聴いて、好きだと言ってくれた。その繋がりは、悪意で切れたりはしないよ」


 小さく息を吐いた。そのとき、スマホが震えた。

 直後に着信が来る。


「香帆!」


 出た瞬間、奈央の怒りに満ちた声が飛び込んできた。


「沙理奈ってヤツ! 昨日達也から聞いたよ。あんなの気にしなくていいから!  私が反論投稿してあげようか?」


 香帆は首を横に小さく振り、「……でも、私の曲、本当に大丈夫なのかな」と呟いた。


「何言ってんの! 沙理奈が難癖つけてるだけじゃん! パクリとか、あいつに判断できるわけ?」


 奈央の剣幕に、香帆は少しだけ力が抜ける。


「……だよね」


「だよ! 気にしないで。ほっとけばそのうち忘れるって!」


 その言葉は頼もしかった。

 けれど、香帆は知っている。SNSの炎上は、時に「放っておく」だけでは済まないこともある。

 それでも。


「うん……ありがとう」


 奈央の支えと、レアの言葉に少しだけ勇気をもらいながら、香帆はスマホを握りしめた。

 沙理奈の投稿のリプ欄は、まだ荒れている。でも、その中に混じる言葉に、ふと目が止まった。


「それでも、この曲が好きだな」


 胸の奥で、何かがゆっくりと溶けはじめるを感じた。



 ※※※



 バイトが終わるころには、すっかり夜が更けていた。

 香帆は制服を着替え、店を出ると、夜風を浴びながら深呼吸した。冷たい空気が、火照った頬を冷やしてくれる。

 沙理奈との対決は、思った以上にあっけなかった。

 けれど、彼女が最後に『じゃあね、香帆。またSNSでね』と言った言葉が頭から離れない。


 香帆は雑念を振り払うように、視線を前に向けて足を速めた。

 家に帰ると、リビングの灯りがついていた。


「ただいま……」


 そっと声をかけると、キッチンで食器を片付けていた母が振り向いた。


「遅かったわね」


 淡々とした声。特に感情のない表情。

 香帆は靴を脱ぎ、リビングへと向かった。

 母はテーブルの上の書類を片付けながら、ふとスマホに視線を落とした。そして、小さく息をつく。


「バイト先の女の子が話してたのを聞いたんだけど。Kaho^ってあんたのことでしょ?」


「えっ、なんで……」


「声を聞けば分かるわよ。お母さん恥ずかしいわ。また無駄なことをして」


 香帆は母が知っていたことに驚き隠せない。

 

「無駄じゃないよ」


「中学のピアノ、すぐに辞めたじゃない」


 香帆は唇を噛んだ。

 でも今は、違う。

 そう言い返そうとしたとき、母は眉をひそめた。


「歌なんて、どうせ何の役にも立たないのに」


 香帆は過去の自分を思いだし、「そんなことない」となんとか言い返すも、「現実を見なさい」と母は冷たく言い放つ。


「香帆、あんたに何ができるの? SNSでちやほやされたところで、それが何になるの? 生活できるわけでもないし、誰かが保証してくれるわけでもない。ただ、騒がれて、飽きられて終わるだけよ」


 香帆は母の言葉をじっと聞いていた。

 これまでは、この言葉に何度も打ちのめされてきた。


「ほら、結局、何も言えないじゃない」


 母がため息をつく。

 その瞬間だった。


「言えるよ」


 香帆の声が、静かな部屋に響いた。

 母が驚いたように目を見開く。

 香帆は一歩前に出た。


「私の歌は、誰にも奪えない。誰にも真似できない。私にしか歌えない」


 声が震え、香帆は涙を堪えた。

 そんな彼女を前に、母の目がわずかに揺れる。


「誰に何を言われても、もう逃げない」


 母は、何も言わなかった。ただ、しばらく香帆を見つめていた。

 それから、ふっと視線をそらし、また淡々とした口調で言った。


「……お風呂、沸いてるわよ」


 それだけ言い残して、キッチンへと戻っていく。

 香帆は、母の背中を見つめた。

 何も変わっていないように見える。

 けれど、たしかに自分の言葉は届いた気がした。

 もう、逃げない。

 香帆はそっと拳を握りしめた。



 ※※※



 翌日。夜のコンビニは静かだった。

 香帆はレジのカウンターに立ち、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。

 SNSの通知欄には、まだ「盗作疑惑」に関するコメントが流れ続けている。


 もう、気にしない。そう思おうとしても、指が無意識にスクロールしてしまう。

 ふいに、自動ドアが開く音がした。

 顔を上げると、そこに高梨沙理奈が立っていた。


「こんばんは」


 変わらぬ笑顔。しかし、その奥にある冷たさを、香帆は知っている。

 沙理奈はゆっくりと店内を歩き、スナック菓子の棚の前で足を止めた。ポテトチップスの袋をひとつ手に取り、それを軽く振りながらレジへと向かってくる。


「大変だね。『盗作疑惑』、広まっちゃったみたいじゃん」


 沙理奈はレジカウンターにポテトチップスを置きながら何気ない口調で言った。

 香帆は一瞬息を飲んだが、「盗作じゃない……自分の気持ちを歌っただけ」と、できるだけ落ち着いた声で答えたつもりだったが、少し震えてしまった。

 沙理奈は、小さく笑った。


「そういうところ、中学の時と変わらないね」


 心臓が跳ねる。


「思い出すなぁ。作文発表のとき、途中で声が出なくなったこと。『自分の言葉が伝わらない』って、泣きそうになってたよね」


 沙理奈の言葉が、あのときの記憶を鮮やかに蘇らせる。

 違う。もうあのときとは違う。

 けれど、言葉が喉につかえて出てこなかった。


「じゃあね」


 沙理奈はスマホを取り出し、決済を済ませると、軽く手を振って店を出ようとする。

 そのときだった。


「待ちなさい!」


 鋭い声が、静かな店内に響いた。

 入り口の方を見ると、奈央が立っていた。


「香帆の歌は、誰にも真似できない! ましてや盗作なんてありえない!」


 奈央は勢いよく店内に入ってきて、香帆の横に並ぶ。


「沙理奈、あんた、何がしたいの? 香帆のことバカにして、自分が優越感に浸りたいだけでしょ」


 その目はまっすぐに沙理奈を捉えていた。

 沙理奈は、少しだけ表情を曇らせた。


「優越感? そんなのじゃないよ」


 そう言いつつ、視線をそらす。

 奈央は腕を組み、まるで見透かすように言った。


「沙理奈、あんたさ……中学までボイトレに通ってたでしょ? もう辞めたの?」


 香帆は息を呑む。

 奈央が次に何を言うのか、直感的に分かってしまった。


「自分だけが安産地帯にいるとでも思ってた? あなたのほうこそ、本当は証明できなかったんじゃないの?」


 沙理奈の目が、ほんの一瞬揺れる。


 ——音楽で何かがあったんだ。


 香帆は、ずっと感じていた違和感の正体に気づく。

 沙理奈は、かつて誰よりも自信満々に音楽の話をしていた。けれど、高校に入ってからはそんな姿を見たことがない。


「……証明できる?」


 沙理奈は、すぐにいつもの笑顔に戻り、香帆に視線を向けた。


「香帆の歌が本物かどうか、証明できる?」


 香帆は、深く息を吸った。

 そして、はっきりと答えた。


「できるよ」


 奈央が隣で頷く。


「私が証明する」


 香帆は自分の拳を軽く握りしめた。


「もう逃げない」


 沙理奈は少しだけ目を細めた。


「……そっか」


 それだけを言い残し、踵を返す。

 香帆は、その背中を見送った。

 しばらくの沈黙の後、奈央がポンと香帆の肩を叩く。


「よく言った!」


 香帆は、小さく笑った。

 そのとき、裏口の扉が閉まる音がして、達也が顔を出した。


「おつかれ! って何してんの?」


「女同士、色々あるのよ」


 奈央が片目をつぶりそう答えると、達也は小さく笑った。


「まあ、何があっても俺らがいるから」


 それだけを言い残し、バックヤードに戻っていった。


 香帆は、奈央と顔を見合わせる。


「……ありがとう」


 奈央は「当然でしょ」と言って笑った。

 私は一人じゃない。

 それが、今までになく、はっきりと分かった。


「あっ、そうだ! 香帆、明日スタジオ見学に来ない? 私がアシスタントしているシンガソングライターがくるのよ。勉強になると思うけど、どうかな?」


「あ、明日ですか?」


 香帆は少し戸惑いながら聞き返した。

 スタジオ見学なんて、普通なら絶対に行きたい。でも、自分はただの素人だ。そんな場所に行っても、場違いなんじゃないか。プロの現場を見ても、何かを得られるのかも分からない。

 でも、ミュージシャンの歌づくりの瞬間を見られるなんて、そうある機会じゃない。そこには、自分にはない「本物の音楽」があるのかもしれない。


「大丈夫よ。ちゃんと許可取るから。それにほら、前に会った斎藤さんもいるし、おいでよ!」


「うん……」


「沙理奈を黙らせる新曲作ろうよ!」


「わかった」


 少し勇気を出して、そう答えた。



 ※※※



 翌日。

 香帆は二度目になる「STUDIO SOUNDWAVE」のミキシングルームにいた。

 今はアーティストがレコーディングを行っているらしく、スタッフの邪魔にならないように端の方に座り、辺りを眺めていた。

 初めて訪れたときよりは落ち着いていられたものの、香帆の現場とはスタッフの数が桁違いだった。

 その差は一目瞭然で、熱気の密度まで違って感じられた。


 ――当たり前か、素人じゃないんだから。


 どことなく居心地の悪さを感じていた香帆は、今日何度目かのため息をついた。


「ハルカちゃん、準備ができたらおしえて」


 ヘッドホンをつけたスタッフがマイクに向かって声をかける。

 ガラスの向こう側の『望月ハルカ』が、笑顔で答える。


「はい、いつでもOKです」


 その時だった。

 望月ハルカがマイクの前に立つと、空気が変わった。

 さっきまでスタッフと気さくに話していた彼女は、まるで別人のように静かに目を閉じる。

 香帆は、その一瞬の変化を見逃さなかった。――プロでも緊張するんだ。


 望月ハルカのことは香帆も知っていた。特に十代の支持が熱く、動画サイトで何百万回と再生されている女性シンガー。

 そんな彼女でも緊張することが、香帆には信じられなかった。

 自分よりもずっとたくさん歌っているし、作詞作曲もしている。

 それでも、震えることなくマイクの前に立つプロの覚悟を改めて実感した。

 香帆は無意識に息をのみ、その瞬間を見守った。


「お願いします」


 彼女が静かにささやくと、スタッフが合図を送りブースの中に伴奏が流れる。


 ハルカの唇が動いた。

 柔らかく、けれど確かな芯を持った歌声が空間を満たす。『風が運ぶ記憶』と歌い、切なさが響き渡った。

 香帆は息をのんだ。


 彼女の歌は、完璧だった。


 音程のブレはなく、言葉のひとつひとつが旋律と溶け合うように流れていく。ブースの外にいるスタッフたちも、息を詰めてモニターを見つめていた。


「すごい……」


 誰かが小さく呟く。香帆も、圧倒されていた。

 昨日、沙理奈と対峙したときとは違う種類の衝撃。

 これは、敵意でも揶揄でもなく、ただ純粋な実力の世界だった。

 香帆は、ふとブースのガラスに映る自分の姿を見た。


 自分の歌が評価され、バズった。けれど、それはSNSの話だ。目の前にいる望月ハルカのような、真正面から「音楽」と向き合っている人間と比べたら、私なんて、ただの素人。


 歌い終えたハルカが、ゆっくりと目を開いた。

 スタッフたちが、ほっと息をつきながらモニターの調整を始める。


「すごく良かったです、ハルカちゃん。もう一回、念のために録りますね」


 ハルカは微笑みながら頷き、再び目を閉じた。

 香帆は、足元の床を見つめながら、無意識に拳を握りしめた。

 私は、ここに何をしに来たんだろう……。


 そのとき、すぐ隣で声がした。


「香帆ちゃん」


 驚いて顔を上げると、奈央がこちらを見ていた。


「……奈央さん」


「大丈夫?」


 奈央の声は、いつもより少し優しかった。


「……うん」


「嘘」


 奈央は、香帆の表情をじっと見つめる。


「昨日は、あんなに言い返せたのに」


 香帆は、息を呑んだ。

 沙理奈に対して「逃げない」と言ったはずなのに、たった今、自分はすでに逃げ腰になっていた。


「……私、ここにいていいのかな」


 気づけば、その言葉が零れていた。

 奈央は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。


「何言ってんの? ここに連れてきたの、私だよ?」


「でも……」


「『Kaho^』がいなかったら、今ここにはいないよ?」


 奈央の言葉に、香帆ははっとする。

 そうだった。私は自分で決めて、自分で歌と決めたんだ。

 

「確かに、プロの人たちはすごいよ。でも、香帆にしか歌えないものがあるでしょ?」


 奈央の瞳は、まっすぐだった。


「だから、逃げないで」


 香帆は、もう一度、ブースの向こうにいるハルカを見た。

 彼女はプロのシンガー。でも、それは香帆の存在を否定するものじゃない。


 SNS『この曲が好きだな』が頭をよぎり、思う。私には、私の歌がある!


 心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していくのを感じた。

 ヘッドホンをつけたスタッフが、再び合図を送る。

 ハルカは目を閉じ、そして、再び歌い始めた。

 香帆は、その歌声を静かに聞きながら、さっきまでのため息とは違う、熱い息を吐いた。


 望月ハルカがブースから出てきた。

 スタッフの労う声に、ハルカは少しだけ微笑んで頷いた。けれど、その表情にはまだ緊張の名残がある。

 香帆は、胸の奥に残る熱を感じながら、ハルカの姿を目で追った。先ほどの歌声が、まだ耳の奥で響いている。


「……すごかった」


 思わず漏れた言葉に、ハルカがこちらを向く。


「え?」


 香帆はドキドキしながらも、勇気を出して口にする。


「いや、その……さっきの歌。すごくよかったです」


 香帆の言葉に、ハルカは少し目を見開いた。だがすぐに、ふっと肩の力を抜くように笑った。


「ありがとう。やっと……歌えた気がする」


 その言葉に、香帆は「やっと?」と首をかしげる。だが、ハルカはそれ以上何も言わず、軽く髪をかき上げた。

 ハルカが見つけようとしている「本当の歌」。それは、香帆自身が探している「本当の声」と、どこか似ているのかもしれない。

 

「じゃあハルカちゃん、一旦休憩しようか?」


 スタッフの声に促され望月ハルカは部屋から出ていった。

 残ったスタッフは、休憩の合間に作業を終わらせようとモニターやヘッドホンに手を当て、ボリュームやスイッチを忙しなく調整している。


「こんにちは、香帆ちゃん。今日は見学だったね?」


 モニターを見ていた斎藤さんが、椅子をくるりと回して声を掛けてきた。


「こんにちは」


「どうだった? 彼女の歌」


 どうして私なんかに、と考えたが「すごく良かったです。声が透き通ってるというか。心に響きました」と興奮気味に語った。


「そう、よかった。彼女の声の透明感って、香帆ちゃんにもあるよ」


「えっ、あ、ありがとうございます」


「今日のレコーディングは、あと四、五回あるから、そのあともう一度再録しようか?」


「私の、ですか?」


「そうだよ。前回は緊張していたからね。今日は二回目だし、リラックスして歌ってみてよ」


 斎藤さんはそう言うと笑顔を見せ、再び仕事に取り掛かった。

 香帆は深く息を吸い込み、秘めた決意を胸に刻んだ。



 (第5話に続く)

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