【百歳超恋愛短編小説】九十五年目の桜・もうひとつの物語 ~ある介護士の記録~
藍埜佑(あいのたすく)
プロローグ 約束の本
春の柔らかな日差しが斜めに差し込む午後、藤原誠は一冊の本を大切そうに抱え、陽だまりの丘介護施設の庭へと足を運んだ。彼の足取りは静かながらも確かで、目指す場所は庭の中央に並んで佇む二本の若い桜の木――「千代子桜」と「正雄桜」だった。
満開の桜が風に揺れ、淡いピンク色の花びらが舞い散る光景に、藤原は立ち止まり深呼吸をした。二年前のこの季節、百十一歳の太田千代子さんはこの庭で最期の春を迎えたのだ。
藤原は「千代子桜」の前に正座し、緑色の表紙の本を丁寧に取り出した。『百歳の回想 ―― 大正から令和まで 太田千代子の証言』。一年以上かけて編纂した本が、ついに出版されたのだ。
「千代子さん、約束の本ができました」
風が止み、辺りが静寂に包まれる。藤原の声だけが、柔らかに空気を震わせていた。
「あの日、『私の話が誰かの役に立つなら残してほしい』と言われたこと、覚えていますか? 僕は必ず形にすると約束しました。時間がかかってしまいましたが……ようやく、その約束を果たすことができました」
藤原は本の表紙を優しく撫でた。千代子さんの百十一年の人生が詰まった一冊。大正から令和まで四つの時代を生きた証が、そこにはあった。
桜の花びらが一枚、本の上に舞い降りる。それはまるで千代子さんからの応答のようだった。
「あなたの語りを書き起こしながら、僕は何度も涙しました。関東大震災の記憶、戦争の苦しみ、高度成長期の喜び、そして……九十五年越しの再会」
藤原の脳裏に、百十歳の千代子さんと百十二歳の田中正雄さんが桜の下で写真を撮った日の光景が浮かぶ。二人の穏やかな笑顔と、九十五年の時を超えた約束の重み。それは彼の人生で最も美しい瞬間の一つだった。
「この本は多くの人に読まれています。大学の歴史の授業でも使われているんですよ。あなたの記憶が、次の世代に受け継がれているんです」
風が再び吹き始め、二本の桜の枝が触れ合う。その様子はまるで踊るようで、千代子さんと正雄さんの魂が再会を喜んでいるかのようだった。
「『人生に遅すぎることはない』――あなたが教えてくれたこの言葉を、僕は大切にしています。どんなに歳を重ねても、新しい出会いや発見、幸せがあるということを」
藤原は本を開き、最後のページを桜の木に向けて広げた。そこには千代子さんの言葉が記されていた。
「百十一年生きて学んだこと。一、愛には期限がない。九十五年の時を超えても、本物の愛は生き続ける……」
彼の声は静かに春の空気に溶けていった。言葉を読み終えると、一筋の涙が頬を伝った。それは悲しみの涙ではなく、深い感謝と感動の涙だった。
しばらくして藤原は立ち上がり、本を桜の根元に寄り添うように置いた。
「千代子さん、あなたの物語は終わりませんよ。この本を通して、あなたの声は多くの人の心に届き続けるでしょう。そして来年も、再来年も、この桜が咲くたびに、九十五年越しの約束と愛の物語は蘇るのですから」
彼は深く一礼すると、ゆっくりと歩き始めた。振り返ると、桜の花びらが風に舞い、本の周りに美しい円を描いていた。春の陽光に照らされたそれは、まるで時間の円環を表しているかのようだった。
始まりと終わりが出会う場所で、一冊の本と一本の桜が、百十一年の記憶を静かに伝え続けていた。
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●百歳の回想 ―― 大正から令和まで 太田千代子の証言
著:藤原誠
※はじめに
私が太田千代子さんと出会ったのは、彼女が百十歳、私が二十六歳の時だった。陽だまりの丘介護施設で働き始めて三年目のことである。当時、私は単に若い介護士の一人に過ぎなかった。史学科で日本近現代史を学んだ知識は、実務ではほとんど役に立たないと思っていた。
しかし、千代子さんとの出会いは、私の人生観と歴史観を根本から変えることになる。彼女は百十年以上の人生で四つの時代――大正、昭和、平成、令和――を生き抜き、その記憶を驚くほど鮮明に保っていた。関東大震災、太平洋戦争、高度経済成長、バブル崩壊……教科書で読んだ出来事が、彼女の口から生きた体験として語られるのを聞くうちに、私は歴史の本質が「事実の羅列」ではなく「人々の物語」であることを深く理解するようになった。
本書は、太田千代子さんの語りを基に編纂した記録である。しかし、これは単なる一個人の回想録ではない。一世紀以上の日本の変容を、一人の女性の目を通して見た壮大な記録でもある。そして何より、九十五年の時を超えた奇跡的な再会と、百十歳の春に咲いた愛の物語である。
千代子さんが亡くなられて一年後の今、彼女の言葉を余すところなく記録し、後世に伝えたいという思いで、この本をまとめた。これは私からの、太田千代子さんへの感謝の証である。
藤原誠
令和七年三月
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