第18話

「だから、魔王になるんですよね、エリシア様」


 ずるりとエリシアの影から姿を現したユーグが、そっとエリシアの肩に手をかけて、優しく囁く。


「ユーグ……」


 顔を上げて、縋るようにエリシアはその名を呟いた。最後に残った、自分に価値を見出してくれる相手として。


「魔王になれば貴女こそが唯一になれますから。ラクスさんの方こそ、必要がなくなりますもんね」

「……必、要……は」


 小さくかぶりを振ったエリシアに、ユーグは心に染み込ませるように、毒の言葉を注ぎ込む。抗えない的確さで。


「貴女じゃないと駄目だって言ってほしいんでしょう? だったら魔王になって、もっと沢山のものを手に入れないと。ラクスさんの代わりがいっぱいいる中で、それでも選んでやるんだって言ってやりたいんでしょう? 貴女が彼にそうされた様に」

「エリシア……」


 ぞくりと背中に走ったのか、悪寒だったのか快感だったのか、ラクスには分からなかった。

 愛されるだけ、愛するだけでは足りない。縛りつける力を得ようとする支配欲と執着を向けられることに、慄いた。

 同時に、それほどまでに求められているのだと歓喜に震える。


「ラクスさんが欲しいなら、彼に負けちゃ駄目ですよ、エリシア様。それじゃあまた、貴女だけが彼のものになっちゃいますよ? 貴女は彼のものになりたいんじゃない。彼を貴女のものにしたいんでしょう」

「欲しいわ」

「!」


 まだ涙に潤んではいたが、顔を上げたエリシアの瞳には、はっきりとラクスの姿が映っていた。


「わたしだけのものに、するの!」

闇の黒霧オーラ・ブラックカーテン!」


 エリシアがうなずいた瞬間、ユーグが魔力で発生させた黒い霧が、ラクスたちの視界を遮った。それがただの目くらまし用の魔法だと知っていたため、ラクスにもバルヴァラにも動揺はない。

 遠ざかって行く二人の魔力の方向へ一歩だけ足を踏み出して、ラクスはそこで足を止める。


「追わんのか?」

「……ああ。いや、うん。いいかな」


 ぼんやりとしたまま、ラクスは何度か意味のない音を口にしてから、そう答えた。


「お前はいいのか?」

「お前が追わんのに、我が追う理由があるか?」


 エリシアを追うだけの拘りを、ラクスは見せなかった。

 仇を前にしてラクスの心がそれだけ凪いでいるのなら、バルヴァラにはもう追う理由がない。

 エリシアが吐露した本心がラクスにとって心地良いものだったことを、バルヴァラは見抜いていた。


「すさまじい女だったな」

「そうだな。……あいつがあんなに俺に執着してるなんて、思わなかった」


 くっ、と小さくラクスは笑う。

 自分が蔑ろにしてもラクスが付いてくることを確認するために、エリシアはわざと、ユーグだけを構う様子を見せつけてきたのかもしれない。

 エリシアがどこまでラクスに対する劣等感を明確に意識していたかは分からないが、抱いた感情に嘘をつくことはできなかったはずだ。

 エリシアにとって、ラクスより上位に立てたのは気持ちしかない。それさえも結局、支配されていたものだったけれど。

 分かってしまえば笑うしかない。


(バカな女)


 失うのを怖がっていたくせに、恐れている事実を見つめたくなくて、自分から突き離しさえした。

 離れたことそのものが、最大の復讐だったのだ。


「お前も、なかなか最低な男だな」


 エリシアの泣き顔を思い出して愉悦に浸るラクスに、バルヴァラは呆れたように言う。


「愛想尽きたか?」


(俺はその方がいいんだが)


 バルヴァラの信念には共感するし、貫ける強さは尊敬するが、色恋の相手としては遠慮したい。

 バルヴァラには負ける予感がするのだ。彼女のペースに引きずり込まれ、抜け出せなくなってしまうような、強い忌避感を覚えている。


 ――それは、負けだ。


 自覚はなかった。嫌悪もしていた。それでも、ラクスもまたエリシアによって引きずり出された自分の真実に、気が付いてしまった。


(所詮、俺は淫魔だったってことだ)


 エリシアが可愛かったのは、エリシアには自分しかいなかったことを、ラクスが本能的にかぎ取っていたからだ。自分が支配しているのだと、ラクスは感覚的に知っていた。

 ラクスはエリシアに、支配者ごっこを強要していたにすぎない。エリシアがそれに耐えられなくなった。

 今の状況は、ただそれだけの話。


「いいや? その方が支配し甲斐がある。むしろ我は今、胸が高鳴るのを抑えられん。お前を屈服させる瞬間を思い描くだけでゾクゾクする」


 言葉通り、バルヴァラの眼はらんらんと輝いている。


「……やっぱ、お前も俺を支配したいわけな」

「お前はそれだけ甘美なのだ。側に置き、心ゆくまですべてを堪能したい。そのためには心の底から屈服させ、支配しておかねば心配だろう? ふっ、さすが淫魔だ。惑わし、狂わせ、破滅に追い込む最強種だよ、貴様らは」


 その魅惑の力の前には、いかなる暴力もただ利用されるだけの代物と化す。


「生憎、貪られんのは好きじゃないんだ。俺が欲しけりゃ、お前が俺のものになれ」

「それを決めるのは実力だ、ラクス」


 手に入れるか。手に堕ちるか。

 しばし、互いの視線が絡み合う。

 先にその均衡を破ったのは、バルヴァラだった。唇にどこか甘みのある笑みを浮かべて、足を引く。


「だが、今は時ではない」

「支配するかされるかに、時期なんてあるか?」

「あるとも。ただ力尽くで降すだけでは意味はない。条件の一つではあるが。それより大切なのは、お前の心をへし折り、我なくしてはいられぬようにすることだ。お前があの女にしたようにな」


 そんなつもりはなかった、というのは言い訳ですらないのだろう。

 間違いなくラクスは本能で知っていたのだから。


「……お前、やっぱり俺に似てる気がするわ」

「我もそう思う」

「ただなあ、俺が別にお前を欲しいわけじゃないってのが不利……」

「うん? なんだ、今すぐ両手両足再起不能にされ我に飼われたいかそーか」

「うん、これから互いをメロメロにさせるべく全力を尽くそう! 互いにッ!」

「うむ」


 不穏にコキコキ音を鳴らしていた手を、バルヴァラは満足気に笑って下ろした。ほっと安堵の息をつく。


「ラクス、我はお前となら、それでもいいと思っているのだ。種族上、お前には不安なのだろうが」

「それ?」

「ただ、互いの愛を感じられればいい」

「っ……」


 真摯な瞳で優しく見つめてきたバルヴァラに、どく、と心臓が大きく跳ねる。


 ――綺麗、だったからだ。


 支配するだのされるだの、気持ちに上下を付けようとしたことが馬鹿馬鹿しくなるほど、それは柔らかに温かく、心に沁み込む美しい表情だった。

 理想であり、それこそが本当に愛と呼べる代物なのだと、理性でラクスは知っている。

 自分だけは理想を求めているのだと、今までラクスはそう思い込んできた。望んだ通りの清廉さで生きていたかった。

 だが、淫魔の本能が容赦なく打ちのめす。


「……だから、お前は嫌なんだよ」


 ラクスたち淫魔にとって、愛は武器だ。恋情に堕とすことで相手を支配する。

 だから自分が恋に堕ちることは、敗北を意味するのだ。

 違うのだと、ラクスは知っている。知っていても拒否感が強く働き、心が拒む。


 エリシアには抱かなかったこの怖れが、ラクスがエリシアに恋をしていたわけではないという証明だ。

 そんな自分が、堪らなく嫌だと思う。

 嫌なのに、そうしてエリシアを堕としたことには、誤魔化しようなく愉悦を感じる。対してバルヴァラに感じるのは、抵抗感だ。


「俺の方が堕とされそうで」

「堕としてやると言っている」


 する、と横から伸びたバルヴァラの手が首に巻き付き、耳元に囁かれる。誠実な愛という、ラクスにとっては最大の毒が。


「我を堕としたのだからな。当然、お前も道連れだ」

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