天使のポケットは犯人でいっぱい

ユッキー(本島幸久)

第一話 地獄の沙汰も天使次第

 〈地獄の沙汰も天使ボク次第〉


『心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ。』

        


 生暖かい空には黒い雲が羊の様に群れ、隙間から覗く夕陽は赤い。

 黄昏と言うには赤過ぎる。

 そんな赤黒く霞んだ春宵の中、国道に架けられた古い歩道橋を若い男が渡っていく。

 サイドを刈り上げた金髪に革ジャン。イヤホンを耳に着けスマートフォンを見てニヤニヤしながら、左手に持った缶ビールをあおる。間もなく歩道橋を渡り切るという所で飲み干した空き缶を足元に投げ捨てて、金髪男は階段を降り始めた。橋の下を車が二台走り過ぎ、地上への最後の段差に足を掛けた時。

 カランッ。

「キャアッ…!」

 空から悲鳴が降ってきて、金髪男が振り向く間も無く鈍い音が転がり落ちてくる。肉の塊がコンクリートにぶつかる音。それは身を竦めて固まる男の脇を通り過ぎ、地面に激突して止まった。

 若い女が頭をアスファルトに叩き付けて倒れている。

 口や耳、鼻からも鮮血が飛び散り、首はおかしな角度に曲がっていた。

 降り注いでいた赤黒い夕陽が急速に光を失い、街路灯がスポットライトの様に血溜まりの中の女を照らす。

「え…え……」

 思考停止してしまった金髪男には何も出来ない。

「た、大変だっ…」「救急車っ!」

 歩道を通りがかった通行人が騒ぎ始める中、倒れた女のそばに呆然と立ち尽くしていた金髪男の肩がトンと叩かれた。

 振り向くと、少年・・が立っている。

 見た目は中学生くらいだろうか、細身で背丈は男の肩までしかない。目を惹くのはその髪で、眉に掛かるマッシュルームヘアは彼が羽織っているブカブカのパーカーと同じ色──真っ白だった。白髪の下の顔は美少年と言っていいだろうが、その端正な顔立ちを台無しにする仏頂面をしていた。

 少年・・は地面に転がる女を一瞥して溜息をつく。

「あ〜あ…やっちゃったね。

 殺しちゃった・・・・・・

「な…」

 驚愕する金髪男に、少年・・は右手に持っていた潰れた空き缶を掲げる。先ほど男が投げ捨てたビールの缶だ。

「あんたが捨てた缶を踏んで歩道橋から落ちたんだ。それで死んだんだよ。

 あんたが殺したんだ」

 少年・・は口をパクパクする男に缶を差し出し、流れで受け取った相手の顔に人差指を突き付けた。

 

「地獄行きだね、人殺し・・・

 少年・・はそう言って、笑った。

 それは見る者の心をとろけさせる、天使のエンジェルズ微笑スマイルだった。


「ふっ…ふざけんなっ!」

 一瞬その笑顔に見れていた金髪男は、我に返って慌てて叫ぶ。

「だ、誰が人殺しだっ…偶々たまたま俺が捨てた缶にこの女がつまずいただけだろっ?事故だ事故!」

「いいや、あんたは空き缶で誰かが躓いて、歩道橋から落っこちて死ぬかもしれないって予測してた。これは計画的な殺人だよ」

「はあ?予測なんてしてねえよ!」

「こういうの〈蓋然性プロバビリティの犯罪〉って言ってね、その缶みたいに人が通る所に危ないモノを置いておいたり、喫煙所に燃えやすいガスを撒いておいたりして、偶然に見せかけて危害を加える手口なんだ。成功する確率は高くないんだけど、何せ一見事故にしか見えないからね。人を傷付けたい、殺したいけど捕まりたくはないっていう姑息なヤツにはもってこいのやり方さ。しかもあんた、この女とは知り合いじゃないだろ?」

「し、知らねえよっ…」

「じゃあ無差別殺人だ。怨恨とかの動機も無いからますます事故っぽい。警察に取り調べられても『ホントに悪気は無かったんですぅ』とか言い続ければ逃げられる。ああ卑怯だ、卑怯だなあ…」

「いい加減にしてくれっ、俺ぁホントに殺す気なんかっ…!」

「そう、殺意。プロバビリティの犯罪で犯人が『これで誰かが傷付いてもいい』って思うのを〈未必の故意〉って言うんだけど、今回はその缶で人が躓いて死んでもいいっていう〈未必の殺意〉があったんだろ?やっぱりあんたは、姑息で卑怯な人殺し──」

「殺意なんかねえって言ってんだろ、ぶっ殺されてえのかこのガキがぁっ!」

 最高の笑顔で最悪な推理・・を畳み掛ける少年・・に、金髪男は遂に激昂した。彼がまさに少年・・の襟首を掴もうとした時──

「けぇ」

 耳元で間の抜けたき声がして、思わず振り返る金髪男。

 見れば歩道橋の手すりに変なモノが止まっている。

 両手で包み込めるくらいの黒い綿の固まりにチョコンと脚が生えていて、まるで真っ黒な綿菓子だが、よく見ると赤い点の様な目が二つあり、両脇で申し訳程度の小さい翼をパタパタさせている。どうやら鳥らしい。シマエナガのネガ状態と言えば通じるだろうか。その変な鳥が、黒い綿毛を逆立てる様に膨らませている。

「けえぇ」

「な、何だっ?」

「そいつはぬえって言ってね。近くに殺意を感じると、そうやって体の毛が膨らむんだ。ホラ、人間でも恐怖を感じると産毛うぶげが逆立つだろ?あれと同じ。だから昔から言うんだよ『ぬえの啼く夜は怖ろしい』って──ああ、だいぶ膨らんでるね…やっぱ相当の殺意あるじゃん、あんた」

「それは今!お前がテキトーな事ばっか抜かしてっからっ…」

「空き缶を捨ててからたかだか五分、永く生きてるボクからすればそんなの誤差・・だ。

 あんたは殺意を持って罠を仕掛け、そのせいでこの女が落ちて死んだ。

 ハイ、殺人罪成立──地獄行き。

 殺生せっしょう妄語うそも重なったから〈大叫喚地獄〉かな?大釜で煮られてきな」

 そう言う少年・・の笑顔は相変わらず天使で、変な鳥はけぇけぇ啼き続けている。

 街路灯がチカチカと点滅し出した。

 世界が明滅する。

 さすがに異状を感じた金髪男は恐怖を覚えて青め、周囲の野次馬も静まり返った。


「もぉ、いい加減にしなさい」


 少年・・を除くその場の全員が声の主を見る。

 血塗れの女が光と闇の中をコマ送りの様に起き上がって、腰に両手を当ててスックと立った。

 赤毛のウルフショートが凛々しい美女である。モデル並みの高身長でプロポーションも抜群、袖無しのファーのベストと革のミニスカートも黒で揃えてセクシーだが、折れた首は九十度に曲がっている。

「ねえキミ──」

 女はそう言って金髪男の方を向いた。見つめる切れ長の目は睫毛まつげも長く、ベビーブルーのアイシャドーも蠱惑的だが、首がグラグラと揺れる。

「危ないからポイ捨てしちゃダメよ」

 ニッコリと笑った女の口元から、泡立った血がボタボタとこぼれた。

「ひいいっ…!」「うわああーっ!」

 悲鳴を上げて金髪男は逃げ出し、野次馬も散る。

 残された二人をやっと点滅が収まった街路灯が照らす。少年・・は再び仏頂面に戻り、女は曲がった首を両手で持ち上げて直して、口元の血を拭った。

「けぇ」

 ぬえがパタパタと飛んできて女の右肩に止まる。膨らんでいた毛は落ち着いて、先ほどの半分くらいの大きさ─片手の拳ほどに縮んでいる。

 女は自分より頭一つほど小柄な少年に向かって、軽く咎める様な目を向けた。

「キミが『あのポイ捨て男に反省させるから死んでみせて・・・・・・』って言うんでノッてあげたけど…挑発して殺意を後出しさせるなんてやり過ぎ、証拠捏造の冤罪・・だからね?」

「チッ」

 少年・・は舌打ちして、腹部を覆う形のパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。

「せっかく地獄に一人送れそうだったのに邪魔すんなよな」

 拗ねた子供の様なその態度に、女は思わず笑う。

「どっちが卑怯なんだか。


 キミ、ホントに天使・・?」

「お前こそそれでもかよ」



 そう、天使と鬼の相棒バディで殺人者を地獄に送る──それがボク達の仕事だ。

 なのに…ったく、使えねえなこのお人好しは。

 これで名前が『邪悪鬼』と書いて『ジャッキー』って読むってんだから、冗談が過ぎる。

「あ〜またそんな不満げな顔して。仲良くやりましょ、テン・・ちゃん・・・

「その呼び方はやめろって言ってんだろ」

「だって名前が無いと呼びづらいじゃない。下級天使は名前が無いなんて可哀想ね、天使のテンちゃん♡」

 そう言ってジャッキーはケラケラ笑う。

 見た目が子供だからってガキ扱いすんじゃねえよ、鬼。同じくらいには永く生きてるんだからな、たぶん。


 そんな天使ボクジャッキーが何故現世でコンビを組んでいるのか──


 勿論、本来ボクは天国、ジャッキーは地獄に所属する。天国と地獄の仕組みについて人間界では西洋、東洋、宗教ごとに解釈が種々混ざっている様だが、こちら側の細かい事を説明しても人間あんたらにはどうせ分かるまい。だから面倒なので適当に人間界そっちの用語をつかってザックリ言うが、死者が天国に昇るか地獄に堕ちるかは基本、地獄側の審理と裁判で決められている。

 地獄には〈十王〉という十人の裁判官・・・がいるのだが、彼らによる死者の審理は通常七回行なわれる。死後七日ごと秦広しんこう王、初江しょこう王、宋帝そうてい王、五官ごかん王、閻魔えんま王、変成へんせい王、泰山たいざん王の七王が順に担当するが、七日周期で七回の審理をするのでそこで四十九日を迎え、だから遺族は初七日に始まる仏事の法要を四十九日まで繰り返して死者の減罪を嘆願する訳だ。

 その中でも特に五番目の担当の閻魔王がクローズアップされるのは、ほとんどの罪状と行き先がそこで決まるからである。というのも生前の善悪を映し出す〈浄玻璃鏡じょうはりきょう〉が閻魔王の宮殿にあり、その証拠動画・・・・を基に審理が推し進められるのだ。ここで被告人・・・が何をしたかが詳細に検証され、上は天国─極楽浄土から、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして最下層の地獄道へと行き先を決められる。更には犯した罪の数や種類によって、同じ地獄でも八熱地獄や八寒地獄などの辛口、激辛、獄辛なコースへとふるい落とされていく。そういう訳で閻魔王は、第一審が出る地方裁判所の裁判長だと思えばいい。

 そして四十九日までに審理に加わらない三王は、閻魔王の地裁が裁ききれなかった場合に動く高等裁判所の役割を担う。

 百日忌の平等びょうどう王。

 一周忌の都市とし王。

 三回忌の五道転輪ごどうてんりん王。

 それでも死者の罪状が確定しない場合の特別措置として、十王以外に更に三王がいたりもする。

 七回忌の蓮華れんげ王。

 十三回忌の祇園ぎおん王。

 三十三回忌の法界ほうかい王。

 こちらは再審請求を受理する役目だろうか。

 事程左様に地獄の裁判制度は、まあ、良く出来ている。

 ところがその地獄の裁判所が近年、上手く機能しなくなってきたのだ。

 十王の間で意見が分かれて審理が紛糾し、予定の四十九日を超えても判決が出ない。死者は初七日を終えると次に進む為に〈三途の川〉を渡るのだが、先がつかえているので順番待ちとなり、川岸の〈さいの河原〉はまるでハイシーズンのキャンプ場状態。やむなくあぶれた連中が現世に出戻って、街では幽霊達が毎日ハロウィーン・パーティー──

 そうなった理由は人間達のある意味進化・・にある。前世紀末くらいから急速に悪意も殺意も多様化し、その審理に時間と手間が掛かるようになってしまったのだ。

 互いに名前も顔も知らない者同士がネット上だけで罵り合い、騙し合う。

 愛してると言っては付きまとい、可愛いと言っては虐待する。

 そしてその日の気分で何となく、自らの人生を終わらせる。

 そんな過去の判例に無かったややこしい・・・・・連中が大挙して押し寄せるようになった結果、地獄の裁判官が年中無休で過重労働しても裁ききれなくなった。しかもそうやって残業を重ねて煩雑な審理を強いられた挙句、結局はどいつもこいつも有罪判決されるものだから、一面七万二千キロ四方が七層重なっている広大な地獄のキャパもどんどん厳しくなり、定員オーバー寸前。遂に十王も現場を管理する看守・・の鬼─〈獄卒〉も、『これじゃ地獄だ』と悲鳴とブーイングを上げたのだ──

 天国うえは何やってんだ。

 地獄したに丸投げかよ、と。

 一応、天国にも死者を管理する天使はいるんだけどね。

 アズラエルって大天使アークエンジェルは別名『死の天使』とも言われてて、死者の霊魂たましいが肉体を離れる時に迎えに行く。全ての人間の名前が記された書物を持っていて、死者はそこから名前が消えるのだ。そうするとアズラエルが光を照らして天国までその霊魂を導くんだけど…まあそれも、地獄の審理が済んで天国行きの判決を貰った少人数を連れてくるだけなので、閻魔王達と比べたらホワイトな勤務環境だろう。

 そんなこんなで天国と地獄で協議した結果、妥協案がまとまった。地獄の審理を少しでも楽にする為、現世で下調べ・・・を済ませておく事になったのだ。つまり、やらかした犯人の有罪の証拠を生きている間に集めておいて、死んだら即地獄行きのスピード判決が出せるようにしておこうという、人間界で言うところの〈公判前整理手続き〉みたいなモノである。

 そしてその為の人員を天国と地獄の双方から等しく出し、二人一組で動く事も取り決められた。これは表立ってはどちらかに偏ると公正な捜査と判断が出来ないという理由になっているが、当然それぞれの監視役も兼ねてである。管轄も役割も違う天国と地獄が、能天気に相手を信用できるはずもない。

 という訳で大勢の天使と鬼のコンビが選ばれて世界中に散ったのだが、そのうちのひと組がボクとジャッキーなのである。

 と言っても大した能力の無い下級天使と、ほぼ不死身の生命力だけが取り柄の鬼に、十王並みの細かい審理は出来ない。だからボク達は地獄に堕ちる罪の中でも、殺人のみ・・・・を担当する事になった。殺人─殺生は地獄への第一歩となる罪で、これを犯した者は問答無用で地獄の一丁目一番地である〈等活とうかつ地獄〉に堕ち、他の罪も重なっていると更に苛酷な地獄に堕ちていく。例えるならボク達は殺人コロシ犯人ホシを挙げるのが専門の殺人課の捜査員であり、それでお供に殺意で膨らむ変な鳥が付いてきたのだ。


(それにしても……)

 ボク達は国道沿いに当ても無くしばらく歩いていたが、やがて見付けた大きめの公園の中を通る事にした。曲がった首はすっかり快復したとはいえ、血塗れのジャッキーにすれ違う通行人が皆悲鳴を上げてうるさいからだ。

 雑木林に囲まれた昏い遊歩道で、隣を歩く彼女をジトッと見る。

「ウフフ、ポワポワ〜♡」

「けぇけぇ」

 肩に乗せたぬえを指で撫でてご満悦な鬼娘。顔の血は公園の水道で洗い流し、黒い服に付いた分も目立たないので、今は呑気で無害なネエちゃんにしか見えない。鬼らしさが全く無い。

 実際コイツは変わっていて、普通鬼のツノは頭の左右に生えているが、彼女は生まれつき赤髪から覗く左のかたツノ一本しかない。そのせいか鬼が本来備えるべき残虐性の欠片かけらも無く、獄卒として罪人達を処する役目が『可哀想だから』と出来なかったそうだ。それでずっと血の池の清掃や大釜の煮え湯の温度調節等の設備管理を担当していたのだが、それでも大釜を適温に沸かして怒られたりしていたという。地獄の責め苦に疲れた体を癒やして欲しかったそうだが……役立たずにも程がある。鬼に向いていない。


 と言っても、向いていないという点ではボクも他人ひとの事は言えない。

 熾天使セラフをトップとする天上の上級天使とは違い、地上で人間とじかに接するのが最下級の天使エンジェルであるボクの役目だ。基本人間界にいて天界にしょっちゅう出入りする訳ではないので、宗教画に描かれる様な天使の翼は無く、飛ぶ事も出来ない。よく間違われるピロピロ飛び回って愛の矢を放つ子供ガキは、天使ではなく恋愛の神・キューピッドだ。

 そんなボクらをただそばにいて寄り添ってくれる優しい守護天使──大半の人間がそう思っているだろう。実際に同僚は皆そういう平和な連中ばかりで、善悪の判断を地獄がやってくれているのもあって、大して考える事なく自分の担当する人間の周りをチョロチョロしてるだけ。平和過ぎて…腹が立つ。ボクが生来の捻くれ者なのは認める。しかしもう少し頭を使えと言いたい。本当に人間そいつらを善人だと簡単に信じて守護して、天国に連れてっていいのか?もっと疑った方がいいんじゃないのか?

 そもそも天使がずっと守ってきたのは人間じゃない、正義・・だ。かつての天使達は神の意思に背き怒りを買った不正義のやからを、容赦なく滅ぼしてきたではないか。ノアの大洪水然り、ソドムとゴモラ然り。そうやって天使が戦ってきたからこそ、天国の秩序は保たれてきたのだ。正義は甘くない。なのに今の天使は平和ボケしやがってのほほんと……

 だからボクはもうずっと、守護天使なんか辞めていた。ボイコットだ。人間の善性をでるなんて真っぴらだ。今天国にいる霊魂やつらだって、調べ直して叩けば埃が出てくるんじゃないか?そんな連中は正義の名の下に地獄に堕としてやる──そう思ったボクは或る日、天界に繋がる〈天使の梯子はしご〉を昇った。〈ヤコブの梯子〉とも呼ばれる、人間の目には雲の隙間から地上に幾筋もの光が差し込む自然現象にしか視えないヤツだ。それでこっそり雲の上の霊魂を任意で事情聴取していたら、下位の天使を統括する主天使ドミニオンに見付かって拘束、謹慎させられてしまった。正直、そのまま堕天クビになると覚悟したさ。

 だがその謹慎中に、今回の公判・・整理・・手続き・・・の話が舞い込んだのである。

 それはボクだけでなく、天国うえ上層部うえにとっても渡りに船だっただろう。確かに地獄側と協議して歩み寄ったものの、天国側としてはキャパに余裕があり平和に過ごせている現状の既得権益を守りたいのだ。その為には今まで通り、一人でも多く地獄あちらに送りたい。そういう意味では人を守るより突き堕とす方が得意な、鬼より鬼っ子な捻くれ者の天使は適任だった。ボク自身もぬるい守護天使なんかよりよっぽど面白そうな仕事だと思って引き受けた。

 しかし地獄てきもさる者で、人を処するよりゆるしたい、天使より天使な優し過ぎる鬼を送り込んできたのである。定員オーバーを回避しようと、多少グレーな死者も『可哀想だから』と天国こちらに送り付けるつもりなのだ。よりによってボクと真逆なヤツをぶつけてきやがった。共通しているのは、役立たずが厄介払いされた事だけである。


 そういう訳でボク達はぬえの殺意・・アンテナ・・・・に誰か引っ掛からないか、こうやって日夜パトロールしている。そう言えば聞こえはいいが、実際には当ても無く彷徨さまよっているだけでなかなか殺人犯とは出遭えない。つまらん。冤罪の一つや二つ、こしらえたくもなるじゃないか。

(くそっ、ボク一人だったらもうだいぶ地獄に堕とせてるのに…)

 忌々しい気分でジャッキーを見ていたら、鼻の頭に水滴が落ちてきた。

 見上げるとすっかり昏くなった空から雨が降ってくる。春雨と言うには冷たい雨だ。

 ジャッキーも剥き出しの肩を抱く。

「あら〜困ったわね。風邪引いちゃう」

「不死身で鈍感な鬼が何言ってんだ」

「あたしじゃなくてキミよ。ホラ、テンちゃん、フード被って…」

「だからテンちゃんって言うな!子供ガキ扱いもすんなって──」


「けええっ」


 天使と鬼が仲間割れしかけた時、ぬえがひと声鋭く啼いた。見ればジャッキーの肩の上で膨らんでいる。さっきの金髪野郎の時より二割増で大きい。声のトーンも高い。

 かなり強い殺意が近くにある──

 ボクとジャッキーは辺りを見回し、同じ場所に視線を止めた。ぬえほどではないが、ボク達異界の住人は異質な気配には敏感だ。

 公園の雑木林の向こうに五階建ての病院があり、その三階の窓から明かりが漏れている。

「けぇ」

 どうやら正解らしい。

「…じゃあ雨宿りさせてもらうか」

「そうね」

 闇から落ちてくる雨は徐々に強くなっていた。

 


 俺が病室に入ると、彼女は今日もいた。

「…今晩は、真澄ますみちゃん」

「いらっしゃい柊平しゅうへいさん。いつもありがとうございます!」

「君こそお疲れ様…どうだい、蓮人れんとの具合は?」

「うん、相変わらずなの」

 真澄はそう言って華やかに笑う。

 人懐っこそうなクリクリとした目が印象的な、愛嬌のある美人だ。緩やかなウェーブが掛かったセミロングの茶髪は綺麗にセットされ、ピンクの口紅も愛らしい。高級キャバクラで働いていると聞いたがこれなら人気もあるだろう。着ているワンピースも派手では無いがブランド品らしく、客からのプレゼントかもしれない。

 しかし俺は内心首を捻る。この違和感は何だ?どうしてこの状況でこんなに邪気無く笑えるのか。


 ここ・・は病室で。

 目の前では自分の恋人・・が意識不明で眠っているというのに。


 俺は入口のドアを閉めてベッドに近付く。

 入院着を着た蓮人は点滴と、心拍数や血圧などを測るベッドサイドモニターに繋がれている。室温が少し低い気がするのだが、その機械類を保全する為の設定だろうか。そんな中、枕元の脇に立つ真澄は彼を愛おしげに見下ろしていた。

「蓮人さん、ホントに良い親友を持ったね。毎日お見舞いに来てくれるなんて」

「いや、仕事帰りに寄ってるだけだから……

 真澄ちゃんこそ毎日夕方から、面会時間ギリギリの八時までいるじゃないか。それから電車乗って…お店も自宅も新宿なんだろ?ここ千葉だぞ。往復二時間以上は掛かる。それで朝まで働いて、次の日またここに来て…大変過ぎるよ。ちょっと見舞いのペースを緩めてもいいんじゃないか?」

「ウフフ、ダメよ、蓮人さんが寂しがるもん」

たまには仕事も休んで息抜きするとか…」

「大丈夫!わたし今の仕事好きだし、結構人気あるんだから♪柊平さんも是非お店に来て」

「そ、そうだな…」

 俺は思わず目線を落とす。ヨレヨレの作業服ツナギに薄汚れた靴。自宅のアパートから隣町の工務店に原付バイクで通っていて、さっきまで被っていたヘルメットのせいで髪の毛もクシャクシャだ。雨が降り出す前に病院に着いたので濡れずには済んだものの、何とも草臥くたびれた格好だ。これで朝から晩まで事務所と現場を行き来して施工管理の業務を行なっているが、地元の小口の客が大半の小さな工務店なので給料は安い。高級店に通う余裕など当然無い。彼女はそれを見越して嫌味を言っているのか?

 俺は顔を上げて蓮人を見る。

「真澄ちゃんはコイツと店で知り合ったんだろ?」

「そ〜そ〜、二年前かな。最初に会社の人と一緒に来た時わたしが付いてね。意気投合して、それから常連さんになってくれて〜♡」

 俺はやさぐれた気分を隠したくて強引に会話を捻じ曲げたが、真澄は嬉しそうに乗ってきた。頬を染めたその表情からも、彼女が蓮人の事を相当気に入っているのは伝わってくる。イケメンで一流商社に勤務する蓮人は、恋人・・としても客としても合格なのだろう。二年前か……

「柊平さんは蓮人さんとは高校からの親友なんでしょ?もう十年以上の付き合いって事?」

「うん、同じバスケ部でね。蓮人はレギュラーで俺は補欠だったけど、しょっちゅうツルんでたんだ。そのまま大学もスポーツ推薦で同じとこ行ったからさ…まあ腐れ縁だな」

「そっか、二人共スポーツマンなんだ。なら体は丈夫だよね。

 じゃあもうすぐ、目を覚ますよね…?」

 ハッとして見ると、真澄は笑顔のまま大きなを潤ませている。思い詰めた、泣き笑い。無理して明るく振る舞っている健気けなげな女性の、恋人を案じる本心が溢れ出た様にも見えるが……

「……蓮人を轢き逃げした犯人、まだ捕まってないんだろ?」

 俺がそう呟くと、遂に彼女から笑顔が消えた。

「うん…警察も逃げた車が見付けられないんだって」

「そっか…一ヶ月も経つのにな」

「酷いよね……き逃げなんて…事故じゃないわ。

 人殺し・・・よ!」

 それまで抑えていた感情が爆発したのか、真澄が声を荒らげる。俺を見つめる目に異様な光があった。

 俺は逆に感情を押し殺して静かに言う。

「…俺もそう思う」

 真澄は俯き、俺も口をつぐんだ。

 蓮人の心音を刻むベッドサイドモニターの心拍計だけが、規則的に鳴り続ける。

「人殺しなんて…ダメよ」

「ああ、許せないな……」

 

「えっ、殺したいんだろ?」


 驚いて入口の方を振り返ると、さっき閉めた扉が開いている。

 そこにはパーカーを着た白髪の中学生が、不機嫌そうな顔で立っていた。



 ボクが声を掛けると、病室内の男女はこちらを向いて固まった。

 冴えない作業服姿の男と小綺麗なワンピースの女。二人の前のベッドには点滴やらのチューブに繋がれた入院着の男が横たわっている。男二人は三十そこそこといったところか。女の方はもう少し若く見えるので二十代前半かもしれない。

「…だ、誰だ?殺したいってどういう──」

 作業服ツナギの男が口を開きかけたが、言い終わるより早くワンピースの女が動いた。スルスルとこちらに寄ってきたかと思うと、そのままボクの両肩に手を掛ける。何をする気…

「いらっしゃいませ〜!

 あらあらこんなに濡れちゃって、だいぶ雨が強くなってきたのね。ここ寒いからそのままだと風邪引いちゃう。上着預かるわね。お一人?」

 ニコニコしながら手早くボクのパーカーを脱がせる女。確かにこの部屋は寒いが……

貴方あなた、初めて見るけど蓮人さんの知り合い?

 お見舞いに来てくれたのね、ありがとう〜♡」

「いや……」

 虚を突かれて無抵抗でいるうちにパーカーは脱がされ、女は「水みになってもいけないしね」とか言いながら、取り出したハンカチで目立つ水滴を押さえる。何だこの流れる様な接待力は。思わず『この人に上着を預けて良かった』という安堵感を覚えた。しかしそこまでは達人の舞の如き所作を見せていた女が、ハタと動きを止める。キョロキョロと周りを見回して、服を掛けるハンガーでも探している様子だ。ベッドの奥にはロッカーがあるが、あれは入院患者用なのだろう。

 困り顔になった女に、ボクの背後から声が掛かる。

「あたしが預かるわよ。

 それにしてもテンちゃんを黙らせるなんてやるわね〜」

「テンちゃんじゃねえ」

 クスクス笑いながら病室に入ってきたジャッキーに、ワンピースの女の目が少し鋭くなった。

「なあにあんた…もしや同業者?わたしの客をるつもり?」

「違うってば」

 苦笑するジャッキー。確かにコイツは顔もボディラインも、地獄の鬼より夜の蝶の方がしっくりくるし稼げそうだ。そんなハラスメント含みで見ていたのが伝わったのだろう、ジャッキーは畳んだパーカーを受け取りながら軽くこちらを睨んでいた。

 ワンピースの女はまた笑顔になって自己紹介を始める。

「わたしは真澄。蓮人さんとお付き合いさせてもらってるの。

 こちらは彼の親友の柊平さん。

 貴方達は?蓮人さんとどういうお知り合い?」

 柊平と呼ばれた男は真澄の背後から、黙ってボクとジャッキーを見ていた。そういえばボクの『殺したい』発言を気にしていたな。正直に言ってやろう。

「知り合いじゃないさ。

 ボク達は殺人犯・・・を捜してる」

 真澄と柊平の表情が、揃ってサッと変わった。

 恐ろしく真剣な顔に。

「このジャッキーの肩に乗ってるぬえが、ここ・・で強い殺意が発生してるのを感知したんだ。だから殺人が起きたのかと思って来てみたけど……

 あんたらさっき、誰かを殺したいって思ったろ?」

 今度は二人揃って目を丸くした。

 ぬえを見ると今はジャッキーの肩で小さくなってうずくまり、パッと見ファーベストの飾りにしか見えない。眠っているのかもしれない。いずれにしても今は殺意を感じていないのだ。

 そう、殺意は基本、あまり持続しない。

 嫌いな相手を『アイツ殺してやりてえ』とか毎日ジメジメ思うのは日常的なストレス発散に過ぎず、実際の殺人に繋がるのはもっと強烈な感情だ。我を忘れる程の激しい怒りや積もり積もった恨み、ける様なねたみ──そんな負の感情が瞬間的に燃え上がると、人間の脳はアドレナリンを大量に分泌して興奮状態になり、冷静な判断が出来なくなる。殺意に支配されて、ぬえも啼く。そして衝動的に攻撃的な言動や相手を傷付ける行動を取ってしまうのである。

 しかしこの負の感情の爆発というのが長続きしないのだ。アドレナリン分泌のピークは『カッとしてから六秒後まで』と言われている。ぬえも目の前で感知すれば誰が殺意を発しているか分かるのだが、とっくに消えてしまった今となっては判別が付かない。

「ここには三人いるけど一人は意識不明だからな、殺意を抱くとしたらあんたらだ。瞬間的に発生する殺意の特性と強さを考えると、どこかの誰かじゃなく目の前の相手を殺そうとしたんだろう。もしかして喧嘩して、殺し合おうとしてたとか?…いや、二人分の殺意だったらぬえはもっと膨らんでるな。あんたらのどっちかがもう一方を殺そうとしていたか。それとも──」

「な、何を訳の分からない事をっ…」

 ようやく我に返った柊平が前に出てボクに詰め寄ろうとするが、構わず続ける。


「この蓮人とやらを殺したいのか?」


 病室内は静まり返った。

 心拍計の音が響く。

 ボクは確信した。

 本来なら入院患者に対する今の様な発言には、近しい人ほど『非常識だ』と怒るはずだ。なのに真澄も柊平も顔を強張らせたまま黙り込んでいる。不自然だ。そして真澄はジッと柊平の背中を見つめ、柊平も横目で背後の真澄に視線を送っていた。

 ボクの横に立つジャッキーも、二人を見て眉をひそめている。頭の切れるヤツではないと思っていたが、意外にもこの特異な状況を理解しているらしい。

 二人のうちどちらかが、蓮人に殺意を抱いている。

 そしてその事に、もう一人が気付いているのだ。

 恋人か親友──人殺しはどっちだ?


 ……しばらく続いた沈黙の後、目の前の柊平が口を開いた。

「…殺人犯を捜してるって言ったな。あんたら警察の人間か?それとも探偵?」

「どっちかと言うと検察に近いかな」

「そうか……」

 柊平は何度か頷いた後、肩越しに真澄に声を掛けた。

「真澄ちゃん、俺夕飯まだなんで、ちょっとコンビニ行ってくるよ。君は何かる?」

「わたしは…お腹空かないから……」

「じゃあえっと…ジャッキーさんだっけ」

 ジャッキーは急に名前を呼ばれてキョトンとする。

 柊平はボクの方を手で指し示して言った。

「俺はこの人と買い物行ってくるから、真澄ちゃんと留守番しててもらえる?」

 なるほど…そういう事か。天使も普通に食事はする。大天使ラファエルは最初の人類アダムの家でご馳走になり、奥さんのイヴにお酌させていたそうだ。しかし別にボクがひもじそうにしていた訳ではない。

 柊平コイツはボクに打ち明けたいのだ──真澄に聞かせたくない何かを。

 しかし一方の話だけでは決められまい。ジャッキーは持っていたパーカーをボクの肩に掛け、その隙にボクは背伸びして、彼女の耳元に顔を寄せてささやく。

「そっちも話聞いとけよ」

「オッケー♪」

 ウィンクして即答したところを見ると、ボクの意図を汲んでくれたらしい……意外とコイツも役に立つんだな。

 

 雨は本降りというほど強くはなく、かと言って霧雨にしては重たい。シトシトよりジトジトってとこか。鬱陶しい。

 ボクと柊平はそれぞれ病院の入口にあった傘を借り、連れ立って歩道を歩いていた。柊平は道すがらに事情を話し出す。

「…一ヶ月前、蓮人は残業帰りの深夜に自宅近くの道路沿いを歩いていて、黒い乗用車にねられたんだ。それでアイツは頭を強く打って、ずっと意識不明って訳さ。犯人はそのまま逃げて、今も捕まってない。人も車も通ってない時間帯で、目撃者もいなかった」

「でも黒い乗用車ってのは分かってんだ。近くに防犯カメラがあったとか?」

「いや…あいにく」

 ボクの質問に首を振る柊平。

 それなら何で車の色と車種が?

「現場の近くに〈エヌシステム〉があったんだ」

 ああ、なるほど。

 Nシステム──正式名称は〈自動車ナンバー自動読取装置〉。

 全国の道路網が整備された結果、自動車で広範囲に逃げられるになった犯罪者達。その捜査はかつて、通行止めにして一台一台チェックする〈検問〉が主流だった。しかしこれは渋滞を引き起こし交通が麻痺するのが難だ。そこで逃走する被疑車両や盗難車両を速やかに捕捉し、犯人検挙に繋げる為に整備されたのがNシステムである。小型化された装置は歩道橋や電柱、標識等に取り付けが可能で、現在、全国の高速道路や主要な国道など千五百ヶ所以上に設置されている。

 これを似た状態で設置されている〈オービス〉と混同している人も多いだろう。オービスはスピード違反のみを取り締まる装置であり、通過する車の走行速度を常に計測している。そして速度違反を検知した時だけ、搭載されたカメラでナンバープレートと運転手を自動的に撮影するのだ。

 一方、Nシステムは通過車両全てのフロントナンバープレートを常に撮影していて、最新式は運転手の顔も鮮明に撮れているそうだ。その映像のナンバーや車両の色、形状等のデータを警察の手配車両リストと自動的に照会する事が出来るので、近年社会問題になっているあおり運転の捜査などでも犯人検挙に貢献している。

 そのNシステムに黒い乗用車が映っていた訳だ。

「だけどそれなら、ナンバープレートだって映ってたんだろ?それで何で犯人がまだ捕まってないんだ?」

「それが…警察も情報を集めるのにその映像を公開したんだけど、ナンバープレートは外されてるし、運転手もマスクと帽子で顔を隠してるんだ。事故車も見付かってないって事は直後に処分したんじゃないかな」

「ふうん……」

 轢き逃げの詳細は分かった。

 しかし柊平がボクに話したかったのはその事じゃないだろう。

 傘の下の横顔を黙って見る。性根の良さそうな朴訥な顔立ちは本来、相手に好感を抱かせるタイプだろう。しかしどうにも顔色が悪く、けた頬と目の下の隈がすっかり人相を悪くしている。ロクに寝ていないといった風情で、正直、寝たきりの蓮人の方が健全に見えるくらいだ。

 そんな何かに取り憑かれた様な柊平が低い声で言った。

「…真澄ちゃん、蓮人の彼女だって自己紹介してたろ?知り合ったのは二年前らしいんだけど……

 でも蓮人は去年、他の女性と婚約してるんだよ。

 大手取引先の重役の娘でさ、結婚すれば出世にも繋がるいわゆる『逆玉の輿』ってやつ」

「つまり、二股かけてたって事?」

 じゃあ真澄がそれを恨んで、意識不明の相手にトドメを刺しに来たのか?その為にずっと蓮人の傍に……いや待て。

「だったら毎日お見舞いに来るべきはその婚約者じゃないの?何でそっちはいないんだ?」

「それは…破局したから」

「破局?」

「蓮人が事故に遭う直前、婚約破棄になったんだ」

「どうして?」

「ストーカー被害に遭ったからだよ」

「ストーカー……」

 ボクは思わず溜息をつく。

 愛情と執着を履き違えてこじらせ付きまとった結果、『愛してまーす』とナイフを突き立てる──近年地獄の審理をややこしくしてきた一大新興勢力だ。ここにもいやがったか……

「蓮人は昔からモテたから、恋人も何人も入れ替わってきた。最近その元カノの一人がアイツに付き纏っていたんだ。『やり直して』ってメールがしつこく送られてきて、ブロックしたら自宅のポストに直接手紙や贈り物が入ってる。引っ越してもすぐ突き止められて──

 そのストーカーが蓮人の婚約を知って、婚約者にも嫌がらせをするようになったんだよ。蓮人と別れろって電話やメールで脅迫し、彼女の会社にも『上司と不倫している』とか誹謗中傷の手紙を送り付けてさ。蓮人も何とかしようとしたんだけど……

 アイツ、ストーカーが誰なのか分かってなかった」

「分かってなかった?」

「そんだけ別れた恋人が多過ぎたんだ。

 さっき二股って言ってたけど、確かにアイツ、婚約する前後にも同時に付き合ってた相手が複数いたみたいでね。時期的には真澄ちゃんもその一人なんだろう。モテ過ぎるのも厄介だよなあ〜」

 柊平は冗談めかしているが、目は笑っていない。話を聞く限り蓮人は女にモテると言うより、女にだらしない男だ。親友ではあっても快く思っていなかった部分なのだろう。

「それで結局、婚約者の方が耐えられなくなって、蓮人との婚約を破棄して欲しいって言ってきたそうだ。逆玉もパーさ。

 蓮人も相当ショックだったのか、事故の直前に大学の同期と呑んだ時に婚約破棄の事を打ち明けて『何の為に他の女を切ったんだ』って酔っ払ってわめいてたらしい。後からその同期に聞いたよ。アイツがそんな事話すのは珍しいんだ。昔から恋愛に関しては秘密主義で、親友の俺にも誰と付き合ってるとか細かい事を話したためしは無い。それがその時は大荒れしてたってんだから、よっぽどだったんだな。それでも世間体を気にしたのか、婚約破棄の原因がストーカーだってのはその同期にも言わなかったそうだけど……」

「他の女を切った…つまり婚約してから現状、蓮人に恋人はいない?」

 それじゃあ今、彼の病室にいるのは……

 柊平はチラリとこちらに視線を寄越し、表情を歪めて頷いた。

「十日前…蓮人の面会謝絶が解けた初日に、俺は病室に見舞いに行ったんだ。

 そしたらドアの前に真澄ちゃんが立ってたよ。『初めまして、蓮人さんとお付き合いさせてもらってます!』って満面の笑顔でね。その時確信した──


 彼女が蓮人を追い詰めたストーカーなんだ。

 そして今度こそアイツを自分だけのモノにする為に、お見舞い・・・・に来たんだ。


 そして真澄ちゃんは、これから毎日お見舞いに来るって言ったよ。

 だから俺も毎日病院に行って、蓮人を守るって決めたんだ」 

 筋は通っている。

 それが本当ならさっきの殺意の主は真澄で、その実行前に間に合った柊平のお陰で蓮人は命拾いした訳だ。

「だから彼女にとって俺は、心底邪魔者なんだよ。キャバクラで磨いたスキルなのか、あんたにはあんなに愛想良くパーカー脱がしたりしてたよな?でも俺には近付いてもこない。まあ、貧乏そうで客にならないって値踏みされてるだろうし、こんなツナギじゃ上着脱がすも何も無いんだけどさ。それ以上に邪魔者にムカついてるんだろ。それでも何とか隙を見付けて蓮人を殺そうって狙ってるからさ。ムカつく俺相手に上辺は笑顔も見せながら弾まない会話を無理やり続けて、いつも面会時間ギリギリまで粘ってるんだ。

 でもあのコ、何か言動が怪しくてね。恋人が意識不明だってのに妙に明るかったり、かと思えばジトッとこっちを睨んで、急に『人殺しはダメだ』とか叫んだり…あの情緒不安定さはストーカー特有のモノなのかもしれない。いつ興奮してナイフを取り出してもおかしくないから、こっちは緊張しっ放しだよ……

 なあ、あんたら警察だか検察だかってんなら、あのコ捕まえてくれよ!」

 柊平は苛立った声で訴える。その親友を守ろうという使命感と恋人を名乗る女への警戒心で常に神経を尖らせて、心身共に疲弊しきっているという事か。

 彼の言う通りなら、真澄はだいぶ地獄の奥に足を突っ込んでいる。色欲に溺れたストーカーが殺人を犯せば、殺生と邪淫の罪で〈衆合しゅごう地獄〉行きだ。崩れ落ちてくる鉄の山にし潰されるか、つるぎの葉を持つ木に串刺しにされるか──

 ただし、判断するのは真澄の事情も聞いてからだ。 

 もし蓮人の命を狙っているのが柊平の方なら、ずっと蓮人ターゲットから離れない恋人こそ邪魔過ぎる。その為にストーカーなどと嘘をついて、ボク達に真澄を排除させようとしているのなら──こちらは殺生と妄語うそで大叫喚地獄の釜でが待っている。

 ジャッキーは上手く真澄から話を聞いてくれただろうか……?


「うわぁ〜ホントにポワポワ〜♡

 ぬえちゃんって言うの?可愛い〜」

「真澄ちゃんも可愛いわよ〜!

 そのプラチナのネックレスもいいけど、ワンピースも素敵♪落ち着いたサンドベージュがシックよねぇ〜。あたしもそんなの着たいなぁ……

 あたしがんでるとこなんか基本黒だもん。何かね、陰陽おんみょう道?それからすると地獄あそこ、黒じゃなきゃいけないらしいの。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青で、その三色を混ぜると黒になるから……だから節分で追われるのも赤鬼、黄鬼、青鬼なんだって」

「アハハ、よく分かんないけど…ジャッキーさんアダルトだから、黒がとっても似合うよ!脚も綺麗でセクシーだし」

「ウフ、ありがと♡」

「いや〜ん、そのスマイルもヤバ〜い!

 ね、ぬえちゃん?」

「けぇけぇ」

「あらあら、ぬえったらすっかり懐いちゃって」

「アハハッ…」

「ウフフッ…」


 ボク達がコンビニの袋を提げて帰ってくると、病室はすっかり女子会の会場と化していた。二人は井戸端会議の主婦よろしくベッドの横で賑やかに立ち話をしていたが、入口で憮然として立ち尽くしているボクに気付くと、ジャッキーはニコニコしながら寄ってきて耳打ちする。

「さっき真澄ちゃんと柊平さん、何か雰囲気悪かったもんね。

 言われた通りフレンドリーにトークして、楽しくご飯食べられるようにしといたよ」

 コイツに期待したボクが馬鹿だった……

 結局、真澄と柊平のどちらが蓮人を殺そうとしていたのか確証が掴めないまま、その日は面会時間が終わるまで食事会をする羽目になったのである。


「いいコよね〜真澄ちゃん、あたし気に入っちゃった。話も面白いし、テンちゃんの接客・・も上手だったし、お店で人気者なのも納得よね〜」

 解散して病院を出てからも、ジャッキーは上機嫌だった。食事会でもコイツが浮かれて真澄と喋り倒していて、肝心な事は訊けずじまいだったのだ。

 ボクは冷たく言い放つ。

「だったらアイツが蓮人を殺したら、お前が地獄に案内してやれ」

「そんなぁ、もしあのコが殺意を抱いてるんなら、止めてあげようよぉ」

 とことん使えねえ。

 しかしこれからどうしようか。恋人か、親友か──これが人間の警察なら任意同行して事情聴取したり、人海戦術で張り込みして現行犯で押さえるのも可能だろう。だがそれはボクには出来ない…というか、まどろっこしい。面倒くさい。最下級天使に警察力に代わる特殊な能力がある訳でもない。相棒おには頭が悪い。


─仕方無い。

 飛び道具・・・・を使うか──

 


 殺してやりたい。

 殺してやりたい。

 殺してやりたい。


 頭の中でそれだけがグルグル回り続ける。

 それだけを思い続けて、毎日毎日病室に通う。

 十八歳でキャバクラに勤め始めて五年が過ぎ、最近は完全な夜型生活になってしまったわたしは、今日も陽が沈み始める時間に目が覚めた。急いで蓮人さんの病室に向かう。今日もきっと柊平さんが来るだろう。彼よりも、誰よりも早くお見舞い・・・・に行かなくちゃ……昨日は思いがけない二人組もいて何も起きなかったけれど、今日こそ──


 殺してやりたい。


 泣きそうな気分で病室に入る。

「え……?」

 

 ベッドの上には誰もいなかった。


 

 生ぬる朧夜おぼろよの底、俺は国道を原チャリで飛ばす。

 雨こそ降っていないが、空気中の湿度は昨日より高い。前方の交差点に軽トラックが停まっているが、信号もテールランプも春霞はるがすみに赤くにじんでいる。

 …いや、もしかしたら俺の目に霞が掛かっているのかもしれない。大事な事が見えていなかった役立たずの目。距離感が掴めず、うっかりするとこのまま軽トラの荷台に激突してしまいそうだ。それならそれでもいいが……

 いや、まだだ。まだ早い。

 キャップ型のヘルメットなので、顔から水がしたたっている。てのひらで拭ったそれに涙は混じっていないと自分に言い聞かせて、俺は青信号に変わった交差点を左折した。目の前に病院が見えてくる。

 あの寒い病室で蓮人アイツが眠っている。

 俺は行かなくてはならない。

 昨日のおかしな二人組は、真澄を遠ざけてくれただろうか──


「柊平さん!」

 もうすぐ病院の正面玄関に着くという所で不意に名前を呼ばれて、俺は慌ててブレーキを掛ける。路肩にバイクを寄せて振り返ると、脇の歩道に真澄が立っていた。背後は公園の雑木林だが、街灯も無く真っ暗な場所なので気付かなかった。

「ど、どうしたの?病院に行かないの?」

 言いながら見れば、彼女は顔面蒼白で震えている。

「行ったの!でもいなかったっ…」

「えっ?」

「蓮人さん、ベッドにいなかったのよ!」

「……死んだ…のか…?」


「蓮人は意識を取り戻して、退院したんだって」


 そう言いながらパーカーの少年─テンちゃんが、正面玄関の方から歩いてきた。二人共先に病院に来ていたのか。

 しかし、退院だと……?

 真澄が取り乱す。

「どうしてっ?どうして何も言わずに行っちゃったの?どこに行ったの蓮人さんっ……わたしを置いていかないでよぉっ!」

「ボクが看護師から聞いた話だと、蓮人は『轢き逃げの犯人を知ってる』って言ってたそうだ。それで警察に知らせなきゃって…」

「どこ?どこの警察っ?」

「そこまでは分からないけど……」

 そんな…まさか……

 ハンドルを握る手が震える。


「あっ、あれっ……」

 真澄が叫び、公園の中を指差した。

 雑木林の向こう、200メートル程先の遊歩道を進む影。

 昏く霞んで判別出来なかったその顔が、薄暗い街灯の真下で照らされた。

「蓮人さん!」

 間違いない。

 白いスプリングコートを着た蓮人が歩いている。

 本当に快復したんだ──


 テンちゃんが呟く。

「確か公園を抜けた国道沿いに交番があったな…」

 刹那、俺はアクセルを手前に思い切り回し、歩道を走った。ハンドルを左に切って公園の入口に進入する。背後から真澄が何かを叫んでいるが、それを掻き消す様に叫び返した。

「蓮人を殺しに行かないように、その女を捕まえとけ!」 

 そう、病室ではずっと三すくみの状態だった。それが遂に崩れたのだ。

 俺の原チャリがそのまま遊歩道に乗り入れると、ライトで照らされた蓮人がハッと振り向いた。

「蓮人、お前狙われてるぞ!今そっち行くから待ってろ!」

 

 そう言って俺は──スピードを緩めずに突っ込んでいく。


 俺の意図に気が付いたのか、蓮人は逃げようときびすを返す。

 逃がすものか。

 間もなく追い付いて一気に撥ね飛ばそうとしたが、蓮人は脇のくさむらに飛び込んでかわしやがった。勢いでこちらも体勢を崩し、遊歩道上に点々と置かれているベンチのひとつに接触して倒れる。

「くそっ…」

 その隙に蓮人は叢から出て、遊歩道を駆けていく。やはり向こう側の国道に出るつもりだ。行かせるか。俺は原チャリを起こすがエンジンが止まっている。何度かスターターのボタンを押している間にも蓮人は逃げていく。逃さない──今度こそ。

「待てえっ…!」

 エンジンが掛かった。アクセル全開で追うが、蓮人は間もなく遊歩道を走り切ろうとしている。その先の国道まで100メートル…50メートル…10メートル……


 見てろ、未彩みさ──!


 地獄の沙汰も天使次第

  地獄の沙汰も天使ボク次第


『心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ。』

        


 生暖かい空には黒い雲が羊の様に群れ、隙間から覗く夕陽は赤い。

 黄昏と言うには赤過ぎる。

 そんな赤黒く霞んだ春宵の中、国道に架けられた古い歩道橋を若い男が渡っていく。

 サイドを刈り上げた金髪に革ジャン。イヤホンを耳に着けスマートフォンを見てニヤニヤしながら、左手に持った缶ビールをあおる。間もなく歩道橋を渡り切るという所で飲み干した空き缶を足元に投げ捨てて、金髪男は階段を降り始めた。橋の下を車が二台走り過ぎ、地上への最後の段差に足を掛けた時。

 カランッ。

「キャアッ…!」

 空から悲鳴が降ってきて、金髪男が振り向く間も無く鈍い音が転がり落ちてくる。肉の塊がコンクリートにぶつかる音。それは身を竦めて固まる男の脇を通り過ぎ、地面に激突して止まった。

 若い女が頭をアスファルトに叩き付けて倒れている。

 口や耳、鼻からも鮮血が飛び散り、首はおかしな角度に曲がっていた。

 降り注いでいた赤黒い夕陽が急速に光を失い、街路灯がスポットライトの様に血溜まりの中の女を照らす。

「え…え……」

 思考停止してしまった金髪男には何も出来ない。

「た、大変だっ…」「救急車っ!」

 歩道を通りがかった通行人が騒ぎ始める中、倒れた女のそばに呆然と立ち尽くしていた金髪男の肩がトンと叩かれた。

 振り向くと、少年・・が立っている。

 見た目は中学生くらいだろうか、細身で背丈は男の肩までしかない。目を惹くのはその髪で、眉に掛かるマッシュルームヘアは彼が羽織っているブカブカのパーカーと同じ色──真っ白だった。白髪の下の顔は美少年と言っていいだろうが、その端正な顔立ちを台無しにする仏頂面をしていた。

 少年・・は地面に転がる女を一瞥して溜息をつく。

「あ〜あ…やっちゃったね。

 殺しちゃった・・・・・・

「な…」

 驚愕する金髪男に、少年・・は右手に持っていた潰れた空き缶を掲げる。先ほど男が投げ捨てたビールの缶だ。

「あんたが捨てた缶を踏んで歩道橋から落ちたんだ。それで死んだんだよ。

 あんたが殺したんだ」

 少年・・は口をパクパクする男に缶を差し出し、流れで受け取った相手の顔に人差指を突き付けた。

 

「地獄行きだね、人殺し・・・

 少年・・はそう言って、笑った。

 それは見る者の心をとろけさせる、天使の微笑みエンジェルズ スマイルだった。


「ふっ…ふざけんなっ!」

 一瞬その笑顔に見れていた金髪男は、我に返って慌てて叫ぶ。

「だ、誰が人殺しだっ…偶々たまたま俺が捨てた缶にこの女がつまずいただけだろっ?事故だ事故!」

「いいや、あんたは空き缶で誰かが躓いて、歩道橋から落っこちて死ぬかもしれないって予測してた。これは計画的な殺人だよ」

「はあ?予測なんてしてねえよ!」

「こういうの〈蓋然性プロバビリティの犯罪〉って言ってね、その缶みたいに人が通る所に危ないモノを置いておいたり、喫煙所に燃えやすいガスを撒いておいたりして、偶然に見せかけて危害を加える手口なんだ。成功する確率は高くないんだけど、何せ一見事故にしか見えないからね。人を傷付けたい、殺したいけど捕まりたくはないっていう姑息なヤツにはもってこいのやり方さ。しかもあんた、この女とは知り合いじゃないだろ?」

「し、知らねえよっ…」

「じゃあ無差別殺人だ。怨恨とかの動機も無いからますます事故っぽい。警察に取り調べられても『ホントに悪気は無かったんですぅ』とか言い続ければ逃げられる。ああ卑怯だ、卑怯だなあ…」

「いい加減にしてくれっ、俺ぁホントに殺す気なんかっ…!」

「そう、殺意。プロバビリティの犯罪で犯人が『これで誰かが傷付いてもいい』って思うのを〈未必の故意〉って言うんだけど、今回はその缶で人が躓いて死んでもいいっていう〈未必の殺意〉があったんだろ?やっぱりあんたは、姑息で卑怯な人殺し──」

「殺意なんかねえって言ってんだろ、ぶっ殺されてえのかこのガキがぁっ!」

 最高の笑顔で最悪な推理・・を畳み掛ける少年・・に、金髪男は遂に激昂した。彼がまさに少年・・の襟首を掴もうとした時──

「けぇ」

 耳元で間の抜けたき声がして、思わず振り返る金髪男。

 見れば歩道橋の手すりに変なモノが止まっている。

 両手で包み込めるくらいの黒い綿の固まりにチョコンと脚が生えていて、まるで真っ黒な綿菓子だが、よく見ると赤い点の様な目が二つあり、両脇で申し訳程度の小さい翼をパタパタさせている。どうやら鳥らしい。シマエナガのネガ状態と言えば通じるだろうか。その変な鳥が、黒い綿毛を逆立てる様に膨らませている。

「けえぇ」

「な、何だっ?」

「そいつはぬえって言ってね。近くに殺意を感じると、そうやって体の毛が膨らむんだ。ホラ、人間でも恐怖を感じると産毛うぶげが逆立つだろ?あれと同じ。だから昔から言うんだよ『ぬえの啼く夜は怖ろしい』って──ああ、だいぶ膨らんでるね…やっぱ相当の殺意あるじゃん、あんた」

「それは今!お前がテキトーな事ばっか抜かしてっからっ…」

「空き缶を捨ててからたかだか五分、永く生きてるボクからすればそんなの誤差・・だ。

 あんたは殺意を持って罠を仕掛け、そのせいでこの女が落ちて死んだ。

 ハイ、殺人罪成立──地獄行き。

 殺生せっしょう妄語うそも重なったから〈大叫喚地獄〉かな?大釜で煮られてきな」

 そう言う少年・・の笑顔は相変わらず天使で、変な鳥はけぇけぇ啼き続けている。

 街路灯がチカチカと点滅し出した。

 世界が明滅する。

 さすがに異状を感じた金髪男は恐怖を覚えて青め、周囲の野次馬も静まり返った。


「もぉ、いい加減にしなさい」


 少年・・を除くその場の全員が声の主を見る。

 血塗れの女が光と闇の中をコマ送りの様に起き上がって、腰に両手を当ててスックと立った。

 赤毛のウルフショートが凛々しい美女である。モデル並みの高身長でプロポーションも抜群、袖無しのファーのベストと革のミニスカートも黒で揃えてセクシーだが、折れた首は九十度に曲がっている。

「ねえキミ──」

 女はそう言って金髪男の方を向いた。見つめる切れ長の目は睫毛まつげも長く、ベビーブルーのアイシャドーも蠱惑的だが、首がグラグラと揺れる。

「危ないからポイ捨てしちゃダメよ」

 ニッコリと笑った女の口元から、泡立った血がボタボタとこぼれた。

「ひいいっ…!」「うわああーっ!」

 悲鳴を上げて金髪男は逃げ出し、野次馬も散る。

 残された二人をやっと点滅が収まった街路灯が照らす。少年・・は再び仏頂面に戻り、女は曲がった首を両手で持ち上げて直して、口元の血を拭った。

「けぇ」

 ぬえがパタパタと飛んできて女の右肩に止まる。膨らんでいた毛は落ち着いて、先ほどの半分くらいの大きさ─片手の拳ほどに縮んでいる。

 女は自分より頭一つほど小柄な少年に向かって、軽く咎める様な目を向けた。

「キミが『あのポイ捨て男に反省させるから死んでみせて・・・・・・』って言うんでノッてあげたけど…挑発して殺意を後出しさせるなんてやり過ぎ、証拠捏造の冤罪・・だからね?」

「チッ」

 少年・・は舌打ちして、腹部を覆う形のパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。

「せっかく地獄に一人送れそうだったのに邪魔すんなよな」

 拗ねた子供の様なその態度に、女は思わず笑う。

「どっちが卑怯なんだか。


 キミ、ホントに天使・・?」

「お前こそそれでもかよ」



 そう、天使と鬼の相棒バディで殺人者を地獄に送る──それがボク達の仕事だ。

 なのに…ったく、使えねえなこのお人好しは。

 これで名前が『邪悪鬼』と書いて『ジャッキー』って読むってんだから、冗談が過ぎる。

「あ〜またそんな不満げな顔して。仲良くやりましょ、テン・・ちゃん・・・

「その呼び方はやめろって言ってんだろ」

「だって名前が無いと呼びづらいじゃない。下級天使は名前が無いなんて可哀想ね、天使のテンちゃん♡」

 そう言ってジャッキーはケラケラ笑う。

 見た目が子供だからってガキ扱いすんじゃねえよ、鬼。同じくらいには永く生きてるんだからな、たぶん。


 そんな天使ボクジャッキーが何故現世でコンビを組んでいるのか──


 勿論、本来ボクは天国、ジャッキーは地獄に所属する。天国と地獄の仕組みについて人間界では西洋、東洋、宗教ごとに解釈が種々混ざっている様だが、こちら側の細かい事を説明しても人間あんたらにはどうせ分かるまい。だから面倒なので適当に人間界そっちの用語をつかってザックリ言うが、死者が天国に昇るか地獄に堕ちるかは基本、地獄側の審理と裁判で決められている。

 地獄には〈十王〉という十人の裁判官・・・がいるのだが、彼らによる死者の審理は通常七回行なわれる。死後七日ごと秦広しんこう王、初江しょこう王、宋帝そうてい王、五官ごかん王、閻魔えんま王、変成へんせい王、泰山たいざん王の七王が順に担当するが、七日周期で七回の審理をするのでそこで四十九日を迎え、だから遺族は初七日に始まる仏事の法要を四十九日まで繰り返して死者の減罪を嘆願する訳だ。

 その中でも特に五番目の担当の閻魔王がクローズアップされるのは、ほとんどの罪状と行き先がそこで決まるからである。というのも生前の善悪を映し出す〈浄玻璃鏡じょうはりきょう〉が閻魔王の宮殿にあり、その証拠動画・・・・を基に審理が推し進められるのだ。ここで被告人・・・が何をしたかが詳細に検証され、上は天国─極楽浄土から、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして最下層の地獄道へと行き先を決められる。更には犯した罪の数や種類によって、同じ地獄でも八熱地獄や八寒地獄などの辛口、激辛、獄辛なコースへとふるい落とされていく。そういう訳で閻魔王は、第一審が出る地方裁判所の裁判長だと思えばいい。

 そして四十九日までに審理に加わらない三王は、閻魔王の地裁が裁ききれなかった場合に動く高等裁判所の役割を担う。

 百日忌の平等びょうどう王。

 一周忌の都市とし王。

 三回忌の五道転輪ごどうてんりん王。

 それでも死者の罪状が確定しない場合の特別措置として、十王以外に更に三王がいたりもする。

 七回忌の蓮華れんげ王。

 十三回忌の祇園ぎおん王。

 三十三回忌の法界ほうかい王。

 こちらは再審請求を受理する役目だろうか。

 事程左様に地獄の裁判制度は、まあ、良く出来ている。

 ところがその地獄の裁判所が近年、上手く機能しなくなってきたのだ。

 十王の間で意見が分かれて審理が紛糾し、予定の四十九日を超えても判決が出ない。死者は初七日を終えると次に進む為に〈三途の川〉を渡るのだが、先がつかえているので順番待ちとなり、川岸の〈さいの河原〉はまるでハイシーズンのキャンプ場状態。やむなくあぶれた連中が現世に出戻って、街では幽霊達が毎日ハロウィーン・パーティー──

 そうなった理由は人間達のある意味進化・・にある。前世紀末くらいから急速に悪意も殺意も多様化し、その審理に時間と手間が掛かるようになってしまったのだ。

 互いに名前も顔も知らない者同士がネット上だけで罵り合い、騙し合う。

 愛してると言っては付きまとい、可愛いと言っては虐待する。

 そしてその日の気分で何となく、自らの人生を終わらせる。

 そんな過去の判例に無かったややこしい・・・・・連中が大挙して押し寄せるようになった結果、地獄の裁判官が年中無休で過重労働しても裁ききれなくなった。しかもそうやって残業を重ねて煩雑な審理を強いられた挙句、結局はどいつもこいつも有罪判決されるものだから、一面七万二千キロ四方が七層重なっている広大な地獄のキャパもどんどん厳しくなり、定員オーバー寸前。遂に十王も現場を管理する看守・・の鬼─〈獄卒〉も、『これじゃ地獄だ』と悲鳴とブーイングを上げたのだ──

 天国うえは何やってんだ。

 地獄したに丸投げかよ、と。

 一応、天国にも死者を管理する天使はいるんだけどね。

 アズラエルって大天使アークエンジェルは別名『死の天使』とも言われてて、死者の霊魂たましいが肉体を離れる時に迎えに行く。全ての人間の名前が記された書物を持っていて、死者はそこから名前が消えるのだ。そうするとアズラエルが光を照らして天国までその霊魂を導くんだけど…まあそれも、地獄の審理が済んで天国行きの判決を貰った少人数を連れてくるだけなので、閻魔王達と比べたらホワイトな勤務環境だろう。

 そんなこんなで天国と地獄で協議した結果、妥協案がまとまった。地獄の審理を少しでも楽にする為、現世で下調べ・・・を済ませておく事になったのだ。つまり、やらかした犯人の有罪の証拠を生きている間に集めておいて、死んだら即地獄行きのスピード判決が出せるようにしておこうという、人間界で言うところの〈公判前整理手続き〉みたいなモノである。

 そしてその為の人員を天国と地獄の双方から等しく出し、二人一組で動く事も取り決められた。これは表立ってはどちらかに偏ると公正な捜査と判断が出来ないという理由になっているが、当然それぞれの監視役も兼ねてである。管轄も役割も違う天国と地獄が、能天気に相手を信用できるはずもない。

 という訳で大勢の天使と鬼のコンビが選ばれて世界中に散ったのだが、そのうちのひと組がボクとジャッキーなのである。

 と言っても大した能力の無い下級天使と、ほぼ不死身の生命力だけが取り柄の鬼に、十王並みの細かい審理は出来ない。だからボク達は地獄に堕ちる罪の中でも、殺人・・のみを担当する事になった。殺人─殺生は地獄への第一歩となる罪で、これを犯した者は問答無用で地獄の一丁目一番地である〈等活とうかつ地獄〉に堕ち、他の罪も重なっていると更に苛酷な地獄に堕ちていく。例えるならボク達は殺人コロシ犯人ホシを挙げるのが専門の殺人課の捜査員であり、それでお供に殺意で膨らむ変な鳥が付いてきたのだ。


(それにしても……)

 ボク達は国道沿いに当ても無くしばらく歩いていたが、やがて見付けた大きめの公園の中を通る事にした。曲がった首はすっかり快復したとはいえ、血塗れのジャッキーにすれ違う通行人が皆悲鳴を上げてうるさいからだ。

 雑木林に囲まれた昏い遊歩道で、隣を歩く彼女をジトッと見る。

「ウフフ、ポワポワ〜♡」

「けぇけぇ」

 肩に乗せたぬえを指で撫でてご満悦な鬼娘。顔の血は公園の水道で洗い流し、黒い服に付いた分も目立たないので、今は呑気で無害なネエちゃんにしか見えない。鬼らしさが全く無い。

 実際コイツは変わっていて、普通鬼のツノは頭の左右に生えているが、彼女は生まれつき赤髪から覗く左のかたツノ一本しかない。そのせいか鬼が本来備えるべき残虐性の欠片かけらも無く、獄卒として罪人達を処する役目が『可哀想だから』と出来なかったそうだ。それでずっと血の池の清掃や大釜の煮え湯の温度調節等の設備管理を担当していたのだが、それでも大釜を適温に沸かして怒られたりしていたという。地獄の責め苦に疲れた体を癒やして欲しかったそうだが……役立たずにも程がある。鬼に向いていない。


 と言っても、向いていないという点ではボクも他人ひとの事は言えない。

 熾天使セラフをトップとする天上の上級天使とは違い、地上で人間とじかに接するのが最下級の天使エンジェルであるボクの役目だ。基本人間界にいて天界にしょっちゅう出入りする訳ではないので、宗教画に描かれる様な天使の翼は無く、飛ぶ事も出来ない。よく間違われるピロピロ飛び回って愛の矢を放つ子供ガキは、天使ではなく恋愛の神・キューピッドだ。

 そんなボクらをただそばにいて寄り添ってくれる優しい守護天使──大半の人間がそう思っているだろう。実際に同僚は皆そういう平和な連中ばかりで、善悪の判断を地獄がやってくれているのもあって、大して考える事なく自分の担当する人間の周りをチョロチョロしてるだけ。平和過ぎて…腹が立つ。ボクが生来の捻くれ者なのは認める。しかしもう少し頭を使えと言いたい。本当に人間そいつらを善人だと簡単に信じて守護して、天国に連れてっていいのか?もっと疑った方がいいんじゃないのか?

 そもそも天使がずっと守ってきたのは人間じゃない、正義・・だ。かつての天使達は神の意思に背き怒りを買った不正義のやからを、容赦なく滅ぼしてきたではないか。ノアの大洪水然り、ソドムとゴモラ然り。そうやって天使が戦ってきたからこそ、天国の秩序は保たれてきたのだ。正義は甘くない。なのに今の天使は平和ボケしやがってのほほんと……

 だからボクはもうずっと、守護天使なんか辞めていた。ボイコットだ。人間の善性をでるなんて真っぴらだ。今天国にいる霊魂やつらだって、調べ直して叩けば埃が出てくるんじゃないか?そんな連中は正義の名の下に地獄に堕としてやる──そう思ったボクは或る日、天界に繋がる〈天使の梯子はしご〉を昇った。〈ヤコブの梯子〉とも呼ばれる、人間の目には雲の隙間から地上に幾筋もの光が差し込む自然現象にしか視えないヤツだ。それでこっそり雲の上の霊魂を任意で事情聴取していたら、下位の天使を統括する主天使ドミニオンに見付かって拘束、謹慎させられてしまった。正直、そのまま堕天クビになると覚悟したさ。

 だがその謹慎中に、今回の公判・・整理・・手続き・・・の話が舞い込んだのである。

 それはボクだけでなく、天国うえ上層部うえにとっても渡りに船だっただろう。確かに地獄側と協議して歩み寄ったものの、天国側としてはキャパに余裕があり平和に過ごせている現状の既得権益を守りたいのだ。その為には今まで通り、一人でも多く地獄あちらに送りたい。そういう意味では人を守るより突き堕とす方が得意な、鬼より鬼っ子な捻くれ者の天使は適任だった。ボク自身もぬるい守護天使なんかよりよっぽど面白そうな仕事だと思って引き受けた。

 しかし地獄てきもさる者で、人を処するよりゆるしたい、天使より天使な優し過ぎる鬼を送り込んできたのである。定員オーバーを回避しようと、多少グレーな死者も『可哀想だから』と天国こちらに送り付けるつもりなのだ。よりによってボクと真逆なヤツをぶつけてきやがった。共通しているのは、役立たずが厄介払いされた事だけである。


 そういう訳でボク達はぬえの殺意・・アンテナ・・・・に誰か引っ掛からないか、こうやって日夜パトロールしている。そう言えば聞こえはいいが、実際には当ても無く彷徨さまよっているだけでなかなか殺人犯とは出遭えない。つまらん。冤罪の一つや二つ、こしらえたくもなるじゃないか。

(くそっ、ボク一人だったらもうだいぶ地獄に堕とせてるのに…)

 忌々しい気分でジャッキーを見ていたら、鼻の頭に水滴が落ちてきた。

 見上げるとすっかり昏くなった空から雨が降ってくる。春雨と言うには冷たい雨だ。

 ジャッキーも剥き出しの肩を抱く。

「あら〜困ったわね。風邪引いちゃう」

「不死身で鈍感な鬼が何言ってんだ」

「あたしじゃなくてキミよ。ホラ、テンちゃん、フード被って…」

「だからテンちゃんって言うな!子供ガキ扱いもすんなって──」


「けええっ」


 天使と鬼が仲間割れしかけた時、ぬえがひと声鋭く啼いた。見ればジャッキーの肩の上で膨らんでいる。さっきの金髪野郎の時より二割増で大きい。声のトーンも高い。

 かなり強い殺意が近くにある──

 ボクとジャッキーは辺りを見回し、同じ場所に視線を止めた。ぬえほどではないが、ボク達異界の住人は異質な気配には敏感だ。

 公園の雑木林の向こうに五階建ての病院があり、その三階の窓から明かりが漏れている。

「けぇ」

 どうやら正解らしい。

「…じゃあ雨宿りさせてもらうか」

「そうね」

 闇から落ちてくる雨は徐々に強くなっていた。

 


 俺が病室に入ると、彼女は今日もいた。

「…今晩は、真澄ますみちゃん」

「いらっしゃい柊平しゅうへいさん。いつもありがとうございます!」

「君こそお疲れ様…どうだい、蓮人れんとの具合は?」

「うん、相変わらずなの」

 真澄はそう言って華やかに笑う。

 人懐っこそうなクリクリとした目が印象的な、愛嬌のある美人だ。緩やかなウェーブが掛かったセミロングの茶髪は綺麗にセットされ、ピンクの口紅も愛らしい。高級キャバクラで働いていると聞いたがこれなら人気もあるだろう。着ているワンピースも派手では無いがブランド品らしく、客からのプレゼントかもしれない。

 しかし俺は内心首を捻る。この違和感は何だ?どうしてこの状況でこんなに邪気無く笑えるのか。


 ここ・・は病室で。

 目の前では自分の恋人・・が意識不明で眠っているというのに。


 俺は入口のドアを閉めてベッドに近付く。

 入院着を着た蓮人は点滴と、心拍数や血圧などを測るベッドサイドモニターに繋がれている。室温が少し低い気がするのだが、その機械類を保全する為の設定だろうか。そんな中、枕元の脇に立つ真澄は彼を愛おしげに見下ろしていた。

「蓮人さん、ホントに良い親友を持ったね。毎日お見舞いに来てくれるなんて」

「いや、仕事帰りに寄ってるだけだから……

 真澄ちゃんこそ毎日夕方から、面会時間ギリギリの八時までいるじゃないか。それから電車乗って…お店も自宅も新宿なんだろ?ここ千葉だぞ。往復二時間以上は掛かる。それで朝まで働いて、次の日またここに来て…大変過ぎるよ。ちょっと見舞いのペースを緩めてもいいんじゃないか?」

「ウフフ、ダメよ、蓮人さんが寂しがるもん」

たまには仕事も休んで息抜きするとか…」

「大丈夫!わたし今の仕事好きだし、結構人気あるんだから♪柊平さんも是非お店に来て」

「そ、そうだな…」

 俺は思わず目線を落とす。ヨレヨレの作業服ツナギに薄汚れた靴。自宅のアパートから隣町の工務店に原付バイクで通っていて、さっきまで被っていたヘルメットのせいで髪の毛もクシャクシャだ。雨が降り出す前に病院に着いたので濡れずには済んだものの、何とも草臥くたびれた格好だ。これで朝から晩まで事務所と現場を行き来して施工管理の業務を行なっているが、地元の小口の客が大半の小さな工務店なので給料は安い。高級店に通う余裕など当然無い。彼女はそれを見越して嫌味を言っているのか?

 俺は顔を上げて蓮人を見る。

「真澄ちゃんはコイツと店で知り合ったんだろ?」

「そ〜そ〜、二年前かな。最初に会社の人と一緒に来た時わたしが付いてね。意気投合して、それから常連さんになってくれて〜♡」

 俺はやさぐれた気分を隠したくて強引に会話を捻じ曲げたが、真澄は嬉しそうに乗ってきた。頬を染めたその表情からも、彼女が蓮人の事を相当気に入っているのは伝わってくる。イケメンで一流商社に勤務する蓮人は、恋人・・としても客としても合格なのだろう。二年前か……

「柊平さんは蓮人さんとは高校からの親友なんでしょ?もう十年以上の付き合いって事?」

「うん、同じバスケ部でね。蓮人はレギュラーで俺は補欠だったけど、しょっちゅうツルんでたんだ。そのまま大学もスポーツ推薦で同じとこ行ったからさ…まあ腐れ縁だな」

「そっか、二人共スポーツマンなんだ。なら体は丈夫だよね。

 じゃあもうすぐ、目を覚ますよね…?」

 ハッとして見ると、真澄は笑顔のまま大きなを潤ませている。思い詰めた、泣き笑い。無理して明るく振る舞っている健気けなげな女性の、恋人を案じる本心が溢れ出た様にも見えるが……

「……蓮人を轢き逃げした犯人、まだ捕まってないんだろ?」

 俺がそう呟くと、遂に彼女から笑顔が消えた。

「うん…警察も逃げた車が見付けられないんだって」

「そっか…一ヶ月も経つのにな」

「酷いよね……き逃げなんて…事故じゃないわ。

 人殺し・・・よ!」

 それまで抑えていた感情が爆発したのか、真澄が声を荒らげる。俺を見つめる目に異様な光があった。

 俺は逆に感情を押し殺して静かに言う。

「…俺もそう思う」

 真澄は俯き、俺も口をつぐんだ。

 蓮人の心音を刻むベッドサイドモニターの心拍計だけが、規則的に鳴り続ける。

「人殺しなんて…ダメよ」

「ああ、許せないな……」

 

「えっ、殺したいんだろ?」


 驚いて入口の方を振り返ると、さっき閉めた扉が開いている。

 そこにはパーカーを着た白髪の中学生が、不機嫌そうな顔で立っていた。



 ボクが声を掛けると、病室内の男女はこちらを向いて固まった。

 冴えない作業服姿の男と小綺麗なワンピースの女。二人の前のベッドには点滴やらのチューブに繋がれた入院着の男が横たわっている。男二人は三十そこそこといったところか。女の方はもう少し若く見えるので二十代前半かもしれない。

「…だ、誰だ?殺したいってどういう──」

 作業服ツナギの男が口を開きかけたが、言い終わるより早くワンピースの女が動いた。スルスルとこちらに寄ってきたかと思うと、そのままボクの両肩に手を掛ける。何をする気…

「いらっしゃいませ〜!

 あらあらこんなに濡れちゃって、だいぶ雨が強くなってきたのね。ここ寒いからそのままだと風邪引いちゃう。上着預かるわね。お一人?」

 ニコニコしながら手早くボクのパーカーを脱がせる女。確かにこの部屋は寒いが……

貴方あなた、初めて見るけど蓮人さんの知り合い?

 お見舞いに来てくれたのね、ありがとう〜♡」

「いや……」

 虚を突かれて無抵抗でいるうちにパーカーは脱がされ、女は「水みになってもいけないしね」とか言いながら、取り出したハンカチで目立つ水滴を押さえる。何だこの流れる様な接待力は。思わず『この人に上着を預けて良かった』という安堵感を覚えた。しかしそこまでは達人の舞の如き所作を見せていた女が、ハタと動きを止める。キョロキョロと周りを見回して、服を掛けるハンガーでも探している様子だ。ベッドの奥にはロッカーがあるが、あれは入院患者用なのだろう。

 困り顔になった女に、ボクの背後から声が掛かる。

「あたしが預かるわよ。

 それにしてもテンちゃんを黙らせるなんてやるわね〜」

「テンちゃんじゃねえ」

 クスクス笑いながら病室に入ってきたジャッキーに、ワンピースの女の目が少し鋭くなった。

「なあにあんた…もしや同業者?わたしの客をるつもり?」

「違うってば」

 苦笑するジャッキー。確かにコイツは顔もボディラインも、地獄の鬼より夜の蝶の方がしっくりくるし稼げそうだ。そんなハラスメント含みで見ていたのが伝わったのだろう、ジャッキーは畳んだパーカーを受け取りながら軽くこちらを睨んでいた。

 ワンピースの女はまた笑顔になって自己紹介を始める。

「わたしは真澄。蓮人さんとお付き合いさせてもらってるの。

 こちらは彼の親友の柊平さん。

 貴方達は?蓮人さんとどういうお知り合い?」

 柊平と呼ばれた男は真澄の背後から、黙ってボクとジャッキーを見ていた。そういえばボクの『殺したい』発言を気にしていたな。正直に言ってやろう。

「知り合いじゃないさ。

 ボク達は殺人犯・・・を捜してる」

 真澄と柊平の表情が、揃ってサッと変わった。

 恐ろしく真剣な顔に。

「このジャッキーの肩に乗ってるぬえが、ここ・・で強い殺意が発生してるのを感知したんだ。だから殺人が起きたのかと思って来てみたけど……

 あんたらさっき、誰かを殺したいって思ったろ?」

 今度は二人揃って目を丸くした。

 ぬえを見ると今はジャッキーの肩で小さくなってうずくまり、パッと見ファーベストの飾りにしか見えない。眠っているのかもしれない。いずれにしても今は殺意を感じていないのだ。

 そう、殺意は基本、あまり持続しない。

 嫌いな相手を『アイツ殺してやりてえ』とか毎日ジメジメ思うのは日常的なストレス発散に過ぎず、実際の殺人に繋がるのはもっと強烈な感情だ。我を忘れる程の激しい怒りや積もり積もった恨み、ける様なねたみ──そんな負の感情が瞬間的に燃え上がると、人間の脳はアドレナリンを大量に分泌して興奮状態になり、冷静な判断が出来なくなる。殺意に支配されて、ぬえも啼く。そして衝動的に攻撃的な言動や相手を傷付ける行動を取ってしまうのである。

 しかしこの負の感情の爆発というのが長続きしないのだ。アドレナリン分泌のピークは『カッとしてから六秒後まで』と言われている。ぬえも目の前で感知すれば誰が殺意を発しているか分かるのだが、とっくに消えてしまった今となっては判別が付かない。

「ここには三人いるけど一人は意識不明だからな、殺意を抱くとしたらあんたらだ。瞬間的に発生する殺意の特性と強さを考えると、どこかの誰かじゃなく目の前の相手を殺そうとしたんだろう。もしかして喧嘩して、殺し合おうとしてたとか?…いや、二人分の殺意だったらぬえはもっと膨らんでるな。あんたらのどっちかがもう一方を殺そうとしていたか。それとも──」

「な、何を訳の分からない事をっ…」

 ようやく我に返った柊平が前に出てボクに詰め寄ろうとするが、構わず続ける。


「この蓮人とやらを殺したいのか?」


 病室内は静まり返った。

 心拍計の音が響く。

 ボクは確信した。

 本来なら入院患者に対する今の様な発言には、近しい人ほど『非常識だ』と怒るはずだ。なのに真澄も柊平も顔を強張らせたまま黙り込んでいる。不自然だ。そして真澄はジッと柊平の背中を見つめ、柊平も横目で背後の真澄に視線を送っていた。

 ボクの横に立つジャッキーも、二人を見て眉をひそめている。頭の切れるヤツではないと思っていたが、意外にもこの特異な状況を理解しているらしい。

 二人のうちどちらかが、蓮人に殺意を抱いている。

 そしてその事に、もう一人が気付いているのだ。

 恋人か親友──人殺しはどっちだ?


 ……しばらく続いた沈黙の後、目の前の柊平が口を開いた。

「…殺人犯を捜してるって言ったな。あんたら警察の人間か?それとも探偵?」

「どっちかと言うと検察に近いかな」

「そうか……」

 柊平は何度か頷いた後、肩越しに真澄に声を掛けた。

「真澄ちゃん、俺夕飯まだなんで、ちょっとコンビニ行ってくるよ。君は何かる?」

「わたしは…お腹空かないから……」

「じゃあえっと…ジャッキーさんだっけ」

 ジャッキーは急に名前を呼ばれてキョトンとする。

 柊平はボクの方を手で指し示して言った。

「俺はこの人と買い物行ってくるから、真澄ちゃんと留守番しててもらえる?」

 なるほど…そういう事か。天使も普通に食事はする。大天使ラファエルは最初の人類アダムの家でご馳走になり、奥さんのイヴにお酌させていたそうだ。しかし別にボクがひもじそうにしていた訳ではない。

 柊平コイツはボクに打ち明けたいのだ──真澄に聞かせたくない何かを。

 しかし一方の話だけでは決められまい。ジャッキーは持っていたパーカーをボクの肩に掛け、その隙にボクは背伸びして、彼女の耳元に顔を寄せてささやく。

「そっちも話聞いとけよ」

「オッケー♪」

 ウィンクして即答したところを見ると、ボクの意図を汲んでくれたらしい……意外とコイツも役に立つんだな。

 

 雨は本降りというほど強くはなく、かと言って霧雨にしては重たい。シトシトよりジトジトってとこか。鬱陶しい。

 ボクと柊平はそれぞれ病院の入口にあった傘を借り、連れ立って歩道を歩いていた。柊平は道すがらに事情を話し出す。

「…一ヶ月前、蓮人は残業帰りの深夜に自宅近くの道路沿いを歩いていて、黒い乗用車にねられたんだ。それでアイツは頭を強く打って、ずっと意識不明って訳さ。犯人はそのまま逃げて、今も捕まってない。人も車も通ってない時間帯で、目撃者もいなかった」

「でも黒い乗用車ってのは分かってんだ。近くに防犯カメラがあったとか?」

「いや…あいにく」

 ボクの質問に首を振る柊平。

 それなら何で車の色と車種が?

「現場の近くに〈エヌシステム〉があったんだ」

 ああ、なるほど。

 Nシステム──正式名称は〈自動車ナンバー自動読取装置〉。

 全国の道路網が整備された結果、自動車で広範囲に逃げられるになった犯罪者達。その捜査はかつて、通行止めにして一台一台チェックする〈検問〉が主流だった。しかしこれは渋滞を引き起こし交通が麻痺するのが難だ。そこで逃走する被疑車両や盗難車両を速やかに捕捉し、犯人検挙に繋げる為に整備されたのがNシステムである。小型化された装置は歩道橋や電柱、標識等に取り付けが可能で、現在、全国の高速道路や主要な国道など千五百ヶ所以上に設置されている。

 これを似た状態で設置されている〈オービス〉と混同している人も多いだろう。オービスはスピード違反のみを取り締まる装置であり、通過する車の走行速度を常に計測している。そして速度違反を検知した時だけ、搭載されたカメラでナンバープレートと運転手を自動的に撮影するのだ。

 一方、Nシステムは通過車両全てのフロントナンバープレートを常に撮影していて、最新式は運転手の顔も鮮明に撮れているそうだ。その映像のナンバーや車両の色、形状等のデータを警察の手配車両リストと自動的に照会する事が出来るので、近年社会問題になっているあおり運転の捜査などでも犯人検挙に貢献している。

 そのNシステムに黒い乗用車が映っていた訳だ。

「だけどそれなら、ナンバープレートだって映ってたんだろ?それで何で犯人がまだ捕まってないんだ?」

「それが…警察も情報を集めるのにその映像を公開したんだけど、ナンバープレートは外されてるし、運転手もマスクと帽子で顔を隠してるんだ。事故車も見付かってないって事は直後に処分したんじゃないかな」

「ふうん……」

 轢き逃げの詳細は分かった。

 しかし柊平がボクに話したかったのはその事じゃないだろう。

 傘の下の横顔を黙って見る。性根の良さそうな朴訥な顔立ちは本来、相手に好感を抱かせるタイプだろう。しかしどうにも顔色が悪く、けた頬と目の下の隈がすっかり人相を悪くしている。ロクに寝ていないといった風情で、正直、寝たきりの蓮人の方が健全に見えるくらいだ。

 そんな何かに取り憑かれた様な柊平が低い声で言った。

「…真澄ちゃん、蓮人の彼女だって自己紹介してたろ?知り合ったのは二年前らしいんだけど……

 でも蓮人は去年、他の女性と婚約してるんだよ。

 大手取引先の重役の娘でさ、結婚すれば出世にも繋がるいわゆる『逆玉の輿』ってやつ」

「つまり、二股かけてたって事?」

 じゃあ真澄がそれを恨んで、意識不明の相手にトドメを刺しに来たのか?その為にずっと蓮人の傍に……いや待て。

「だったら毎日お見舞いに来るべきはその婚約者じゃないの?何でそっちはいないんだ?」

「それは…破局したから」

「破局?」

「蓮人が事故に遭う直前、婚約破棄になったんだ」

「どうして?」

「ストーカー被害に遭ったからだよ」

「ストーカー……」

 ボクは思わず溜息をつく。

 愛情と執着を履き違えてこじらせ付きまとった結果、『愛してまーす』とナイフを突き立てる──近年地獄の審理をややこしくしてきた一大新興勢力だ。ここにもいやがったか……

「蓮人は昔からモテたから、恋人も何人も入れ替わってきた。最近その元カノの一人がアイツに付き纏っていたんだ。『やり直して』ってメールがしつこく送られてきて、ブロックしたら自宅のポストに直接手紙や贈り物が入ってる。引っ越してもすぐ突き止められて──

 そのストーカーが蓮人の婚約を知って、婚約者にも嫌がらせをするようになったんだよ。蓮人と別れろって電話やメールで脅迫し、彼女の会社にも『上司と不倫している』とか誹謗中傷の手紙を送り付けてさ。蓮人も何とかしようとしたんだけど……

 アイツ、ストーカーが誰なのか分かってなかった」

「分かってなかった?」

「そんだけ別れた恋人が多過ぎたんだ。

 さっき二股って言ってたけど、確かにアイツ、婚約する前後にも同時に付き合ってた相手が複数いたみたいでね。時期的には真澄ちゃんもその一人なんだろう。モテ過ぎるのも厄介だよなあ〜」

 柊平は冗談めかしているが、目は笑っていない。話を聞く限り蓮人は女にモテると言うより、女にだらしない男だ。親友ではあっても快く思っていなかった部分なのだろう。

「それで結局、婚約者の方が耐えられなくなって、蓮人との婚約を破棄して欲しいって言ってきたそうだ。逆玉もパーさ。

 蓮人も相当ショックだったのか、事故の直前に大学の同期と呑んだ時に婚約破棄の事を打ち明けて『何の為に他の女を切ったんだ』って酔っ払ってわめいてたらしい。後からその同期に聞いたよ。アイツがそんな事話すのは珍しいんだ。昔から恋愛に関しては秘密主義で、親友の俺にも誰と付き合ってるとか細かい事を話したためしは無い。それがその時は大荒れしてたってんだから、よっぽどだったんだな。それでも世間体を気にしたのか、婚約破棄の原因がストーカーだってのはその同期にも言わなかったそうだけど……」

「他の女を切った…つまり婚約してから現状、蓮人に恋人はいない?」

 それじゃあ今、彼の病室にいるのは……

 柊平はチラリとこちらに視線を寄越し、表情を歪めて頷いた。

「十日前…蓮人の面会謝絶が解けた初日に、俺は病室に見舞いに行ったんだ。

 そしたらドアの前に真澄ちゃんが立ってたよ。『初めまして、蓮人さんとお付き合いさせてもらってます!』って満面の笑顔でね。その時確信した──


 彼女が蓮人を追い詰めたストーカーなんだ。

 そして今度こそアイツを自分だけのモノにする為に、お見舞い・・・・に来たんだ。


 そして真澄ちゃんは、これから毎日お見舞いに来るって言ったよ。

 だから俺も毎日病院に行って、蓮人を守るって決めたんだ」 

 筋は通っている。

 それが本当ならさっきの殺意の主は真澄で、その実行前に間に合った柊平のお陰で蓮人は命拾いした訳だ。

「だから彼女にとって俺は、心底邪魔者なんだよ。キャバクラで磨いたスキルなのか、あんたにはあんなに愛想良くパーカー脱がしたりしてたよな?でも俺には近付いてもこない。まあ、貧乏そうで客にならないって値踏みされてるだろうし、こんなツナギじゃ上着脱がすも何も無いんだけどさ。それ以上に邪魔者にムカついてるんだろ。それでも何とか隙を見付けて蓮人を殺そうって狙ってるからさ。ムカつく俺相手に上辺は笑顔も見せながら弾まない会話を無理やり続けて、いつも面会時間ギリギリまで粘ってるんだ。

 でもあのコ、何か言動が怪しくてね。恋人が意識不明だってのに妙に明るかったり、かと思えばジトッとこっちを睨んで、急に『人殺しはダメだ』とか叫んだり…あの情緒不安定さはストーカー特有のモノなのかもしれない。いつ興奮してナイフを取り出してもおかしくないから、こっちは緊張しっ放しだよ……

 なあ、あんたら警察だか検察だかってんなら、あのコ捕まえてくれよ!」

 柊平は苛立った声で訴える。その親友を守ろうという使命感と恋人を名乗る女への警戒心で常に神経を尖らせて、心身共に疲弊しきっているという事か。

 彼の言う通りなら、真澄はだいぶ地獄の奥に足を突っ込んでいる。色欲に溺れたストーカーが殺人を犯せば、殺生と邪淫の罪で〈衆合しゅごう地獄〉行きだ。崩れ落ちてくる鉄の山にし潰されるか、つるぎの葉を持つ木に串刺しにされるか──

 ただし、判断するのは真澄の事情も聞いてからだ。 

 もし蓮人の命を狙っているのが柊平の方なら、ずっと蓮人ターゲットから離れない恋人こそ邪魔過ぎる。その為にストーカーなどと嘘をついて、ボク達に真澄を排除させようとしているのなら──こちらは殺生と妄語うそで大叫喚地獄の釜でが待っている。

 ジャッキーは上手く真澄から話を聞いてくれただろうか……?


「うわぁ〜ホントにポワポワ〜♡

 ぬえちゃんって言うの?可愛い〜」

「真澄ちゃんも可愛いわよ〜!

 そのプラチナのネックレスもいいけど、ワンピースも素敵♪落ち着いたサンドベージュがシックよねぇ〜。あたしもそんなの着たいなぁ……

 あたしがんでるとこなんか基本黒だもん。何かね、陰陽おんみょう道?それからすると地獄あそこ、黒じゃなきゃいけないらしいの。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青で、その三色を混ぜると黒になるから……だから節分で追われるのも赤鬼、黄鬼、青鬼なんだって」

「アハハ、よく分かんないけど…ジャッキーさんアダルトだから、黒がとっても似合うよ!脚も綺麗でセクシーだし」

「ウフ、ありがと♡」

「いや〜ん、そのスマイルもヤバ〜い!

 ね、ぬえちゃん?」

「けぇけぇ」

「あらあら、ぬえったらすっかり懐いちゃって」

「アハハッ…」

「ウフフッ…」


 ボク達がコンビニの袋を提げて帰ってくると、病室はすっかり女子会の会場と化していた。二人は井戸端会議の主婦よろしくベッドの横で賑やかに立ち話をしていたが、入口で憮然として立ち尽くしているボクに気付くと、ジャッキーはニコニコしながら寄ってきて耳打ちする。

「さっき真澄ちゃんと柊平さん、何か雰囲気悪かったもんね。

 言われた通りフレンドリーにトークして、楽しくご飯食べられるようにしといたよ」

 コイツに期待したボクが馬鹿だった……

 結局、真澄と柊平のどちらが蓮人を殺そうとしていたのか確証が掴めないまま、その日は面会時間が終わるまで食事会をする羽目になったのである。


「いいコよね〜真澄ちゃん、あたし気に入っちゃった。話も面白いし、テンちゃんの接客・・も上手だったし、お店で人気者なのも納得よね〜」

 解散して病院を出てからも、ジャッキーは上機嫌だった。食事会でもコイツが浮かれて真澄と喋り倒していて、肝心な事は訊けずじまいだったのだ。

 ボクは冷たく言い放つ。

「だったらアイツが蓮人を殺したら、お前が地獄に案内してやれ」

「そんなぁ、もしあのコが殺意を抱いてるんなら、止めてあげようよぉ」

 とことん使えねえ。

 しかしこれからどうしようか。恋人か、親友か──これが人間の警察なら任意同行して事情聴取したり、人海戦術で張り込みして現行犯で押さえるのも可能だろう。だがそれはボクには出来ない…というか、まどろっこしい。面倒くさい。最下級天使に警察力に代わる特殊な能力がある訳でもない。相棒おには頭が悪い。


─仕方無い。

 飛び道具・・・・を使うか──

 


 殺してやりたい。

 殺してやりたい。

 殺してやりたい。


 頭の中でそれだけがグルグル回り続ける。

 それだけを思い続けて、毎日毎日病室に通う。

 十八歳でキャバクラに勤め始めて五年が過ぎ、最近は完全な夜型生活になってしまったわたしは、今日も陽が沈み始める時間に目が覚めた。急いで蓮人さんの病室に向かう。今日もきっと柊平さんが来るだろう。彼よりも、誰よりも早くお見舞い・・・・に行かなくちゃ……昨日は思いがけない二人組もいて何も起きなかったけれど、今日こそ──


 殺してやりたい。


 泣きそうな気分で病室に入る。

「え……?」

 

 ベッドの上には誰もいなかった。


 

 生ぬる朧夜おぼろよの底、俺は国道を原チャリで飛ばす。

 雨こそ降っていないが、空気中の湿度は昨日より高い。前方の交差点に軽トラックが停まっているが、信号もテールランプも春霞はるがすみに赤くにじんでいる。

 …いや、もしかしたら俺の目に霞が掛かっているのかもしれない。大事な事が見えていなかった役立たずの目。距離感が掴めず、うっかりするとこのまま軽トラの荷台に激突してしまいそうだ。それならそれでもいいが……

 いや、まだだ。まだ早い。

 キャップ型のヘルメットなので、顔から水がしたたっている。てのひらで拭ったそれに涙は混じっていないと自分に言い聞かせて、俺は青信号に変わった交差点を左折した。目の前に病院が見えてくる。

 あの寒い病室で蓮人アイツが眠っている。

 俺は行かなくてはならない。

 昨日のおかしな二人組は、真澄を遠ざけてくれただろうか──


「柊平さん!」

 もうすぐ病院の正面玄関に着くという所で不意に名前を呼ばれて、俺は慌ててブレーキを掛ける。路肩にバイクを寄せて振り返ると、脇の歩道に真澄が立っていた。背後は公園の雑木林だが、街灯も無く真っ暗な場所なので気付かなかった。

「ど、どうしたの?病院に行かないの?」

 言いながら見れば、彼女は顔面蒼白で震えている。

「行ったの!でもいなかったっ…」

「えっ?」

「蓮人さん、ベッドにいなかったのよ!」

「……死んだ…のか…?」


「蓮人は意識を取り戻して、退院したんだって」


 そう言いながらパーカーの少年─テンちゃんが、正面玄関の方から歩いてきた。二人共先に病院に来ていたのか。

 しかし、退院だと……?

 真澄が取り乱す。

「どうしてっ?どうして何も言わずに行っちゃったの?どこに行ったの蓮人さんっ……わたしを置いていかないでよぉっ!」

「ボクが看護師から聞いた話だと、蓮人は『轢き逃げの犯人を知ってる』って言ってたそうだ。それで警察に知らせなきゃって…」

「どこ?どこの警察っ?」

「そこまでは分からないけど……」

 そんな…まさか……

 ハンドルを握る手が震える。


「あっ、あれっ……」

 真澄が叫び、公園の中を指差した。

 雑木林の向こう、200メートル程先の遊歩道を進む影。

 昏く霞んで判別出来なかったその顔が、薄暗い街灯の真下で照らされた。

「蓮人さん!」

 間違いない。

 白いスプリングコートを着た蓮人が歩いている。

 本当に快復したんだ──


 テンちゃんが呟く。

「確か公園を抜けた国道沿いに交番があったな…」

 刹那、俺はアクセルを手前に思い切り回し、歩道を走った。ハンドルを左に切って公園の入口に進入する。背後から真澄が何かを叫んでいるが、それを掻き消す様に叫び返した。

「蓮人を殺しに行かないように、その女を捕まえとけ!」 

 そう、病室ではずっと三すくみの状態だった。それが遂に崩れたのだ。

 俺の原チャリがそのまま遊歩道に乗り入れると、ライトで照らされた蓮人がハッと振り向いた。

「蓮人、お前狙われてるぞ!今そっち行くから待ってろ!」

 

 そう言って俺は──スピードを緩めずに突っ込んでいく。


 俺の意図に気が付いたのか、蓮人は逃げようときびすを返す。

 逃がすものか。

 間もなく追い付いて一気に撥ね飛ばそうとしたが、蓮人は脇のくさむらに飛び込んでかわしやがった。勢いでこちらも体勢を崩し、遊歩道上に点々と置かれているベンチのひとつに接触して倒れる。

「くそっ…」

 その隙に蓮人は叢から出て、遊歩道を駆けていく。やはり向こう側の国道に出るつもりだ。行かせるか。俺は原チャリを起こすがエンジンが止まっている。何度かスターターのボタンを押している間にも蓮人は逃げていく。逃さない──今度こそ。

「待てえっ…!」

 エンジンが掛かった。アクセル全開で追うが、蓮人は間もなく遊歩道を走り切ろうとしている。その先の国道まで100メートル…50メートル…10メートル……


 見てろ、未彩みさ──!


 ゴッ。

 ガシャッ。

 バキバキッ……

 国道に出る直前の歩道で蓮人を捉えた。

 背中から突っ込んだ原チャリとガードレールに挟まれて、蓮人の肉が潰れ骨がきしむ。そのまま俺達はもつれる様にガードレールを飛び越え、原チャリ共々路肩に放り出された。

 俺は原チャリから転げ落ち、右腰をアスファルトに叩き付けられる。激痛にうめいていたら、視界の隅にヨロヨロと起き上がる蓮人が見えた。まだ生きているのか。口からゴボゴボと大量の血を吐き出している。手も脚も折れ曲がっていて、這うのがやっとの様だ。俺は横倒しの原チャリを再び起こして、もう一度エンジンを掛ける。そして路肩に赤い体液の筋をヌメヌメと引きずる蛞蝓なめくじに向かって、ハンドルを切った──


「死ね、蓮人ぉ━━っ!」


「やめてええ━━━━っ!」


 飛び出してきた真澄が両手を広げて立ち塞がる。

 俺が殺したいのは蓮人だけだ。

 慌ててブレーキを掛けると、原チャリはつんのめる様にバランスを崩した。車体はうずくまる蓮人をかする様に横転し、俺は再び路上に放り出される。体中が痛い。

「大丈夫かっ?」「怪我はっ…」

 車線を走ってきた他の車が次々に停まり、降りてきた運転手が俺と蓮人に声を掛けてくる。救急車を呼ぼうとスマホを取り出す。

「ああ大丈夫。ボクらで病院連れてくよ」

 パーカーのポケットに両手を突っ込んで悠然と歩いてきたテンちゃんが、何気ない口調でそう言った。そのあまりにも場の緊迫感にそぐわない雰囲気に一同が呆気に取られていると──

 蹲っていた蓮人が立ち上がった。

 そして倒れている俺を、折れた人差指で差す。

「この人はあたしが運ぶから任せて♪」


 それは蓮人ではなく、あのジャッキーという女だった。


 格好も昨日と同じミニスカートで、さっきまでのコート姿ではない。

 その女が体中バキバキの血塗れで、爽やかに笑っている。

 ブラブラしていた人差指が千切れて地面に落ちたが、「あらあら」と言いながら拾って、元の場所にくっつけた。瞬時にくっつく指。

「うわっ?」「ひえっ?」

 運転手達は悲鳴を上げて自分の車に飛び乗り、次々に発進していった。

 俺は体の痛みも忘れるほど、完全に思考停止していた。目の前の女はさっきまで確かに蓮人だったのだ。何故?どうして──

 その蓮人だったモノが俺の背後に声を掛ける。

「大丈夫?真澄ちゃん」

 ハッとして振り返ると真澄が立っていた。原チャリの前に立ち塞がった位置のまま、今は両手を下ろし、背中を向けて俯いている。正面衝突こそ避けられたが、それでも轢いてしまったのではと思っていた。しかしどうやら無傷だった様だ。

 

やっぱり・・・・あんただったか」

 気が付くと、傍らでテンちゃんが俺を見下ろしていた。笑ってる…?

 春霞ソフトフォーカスに包まれて柔らかく煌めく天使の微笑。

 そんな見ているこちらが幸せになる様な尊い笑顔で、彼は言った──


「さあ懺悔の時間だ、人殺し野郎」

 


 カツン……カツン……

 薄暗い病院の廊下を並んで歩くボクと真澄の後ろに、柊平とジャッキーが続く。

 左脚が折れている柊平は松葉杖を付き、ジャッキーが背中を支えていた。甲斐甲斐しく「大丈夫?」とか声を掛けているが、それは応急処置をしてくれた医師と看護師がこの女に対してずっと思っていた事だろう。見た目は柊平よりよほど重傷なのだ。それが血塗れの顔をザバザバ洗っただけでケロッとしているのだから、病院関係者が処置後にそそくさといなくなったのもまあ当然だろう。服の血はまた地獄の基本色─黒に馴染んで目立たなくなっている。公園の木の枝に避難していたぬえも肩の上に戻っていた。

 柊平はすっかり魂が抜けた様な虚ろな声でジャッキーに問いかける。

「一体どういう事なんだ…確かにあんたは蓮人だったのに……それが一瞬で……」

「ああ、それはテンちゃんのお陰♪」

 背中に視線を感じたので、ボクはポケットに突っ込んでいた右手を出して肩まで上げた。

 指先には紫色の羽根をつまんでいる。

「大天使ラミエルの羽根だ。幻視を司る天使なんでね、その羽根だけでも短時間なら幻を視せる事が出来る。これで視せたい姿を思い浮かべながらその対象をサッと撫でればいい」

「それで…この人が蓮人に視えた…?」

「凄いよね〜そのお腹のポケットって天国に繋がってて、好きな秘密の道具を出せるんだって!あたしなんて何にも支給されてないのにぃ〜」

「地獄の様な職場と鬼の様な上司だからな。

 でもその分お前、まあまあ不死身だろ」

「ウフフ、そこは自信あるんだ♪今回も役に立ったでしょ?キミが頭と秘密兵器を使う分、あたしは体使わないとね。

 でもやっぱりいいな、その異次元なポケットぉ〜」

 羨ましそうに言うジャッキーだが、下級天使がそんな優遇をされる訳がない。これはただのポケットだ。最初に鬼に説明するのが面倒くさくて嘘をついたら、すっかり感心して言う事を聞くようになったのでそのままにしている。

 実際にはこんな天使の羽根が各種入っているだけで、しかも下級天使のボク達に支給される羽根は要は上級天使の抜け毛・・・、だいぶ霊力ちからが弱く、一回使うとしばらく天日干ししないと効力が復活しない。猫型ロボットのチートアイテムというよりせいぜいカプセル入りの怪獣だ。おまけに使ったら後は細かい報告書を提出しなければならないという、なるべくなら使いたくない飛び道具である──羽根だけに。

 チラリと振り返って見ると、柊平は呆然としていた。天使だの鬼だの人智を超えた内容も、様々目の前で見せ付けられた今となっては受け容れるしかないだろう。

 やがて辿り着いた蓮人の病室の前で呻く様に呟く。

「…じゃあ蓮人が病室ここにいなかったってのも、その羽根の幻だったんだな。俺はまんまと罠に嵌ったのか……」 

「意識不明の蓮人ヤツにトドメを刺そうとしてるくらいの強い殺意だ。これまでは常にかち合う見舞い客を警戒して実行できなかったとしても、殺したい相手が快復して逃げたとなったら、カッとなって行動を起こすんじゃないかと思ってね。それで柊平あんたと真澄、どっちが犯人かもハッキリするし、一石二鳥だろ?

 あんた・・・はまんまとそれに引っ掛かった訳だ」

 そう言うボクを柊平は睨み付けてくる。

 生意気なので畳み掛けてやった。


「そもそも蓮人を轢き逃げしたのもあんただろうが。

 それで警察に行くって聞いて、バレると思って余計に慌てたんだろ?」


 睨んでいた目が丸くなった。

「な、何言ってんだっ…そんな証拠どこにある?」

「あるさ。あんた、ちょうど国道に出た所で蓮人の姿のジャッキーに原チャリぶつけただろ。その時記録・・のが、轢き逃げ事故の時のと一致したんだ。国道にはシステム・・・・があったからさ」

「システム?Nシステムか?

 言っただろ、轢き逃げ事故の時、Nシステムにはナンバーも運転手も映ってなかったってっ──」 

「誰がNシステムって言った?

 記録されたのはあんたの殺意・・だ」

「はあ?」

「交通事故は馬車の時代からあったけど、人間共が自動車なんて走る・・凶器・・に乗り始めたから死亡事故が急増したろ?地獄の交通裁判も増え過ぎて大変なんだよ。それでNシステムがナンバーを記録する様に、殺意を記録しとけば証拠集めも楽になるだろうって開発・導入されたのが〈自動車マーダー自動読取装置〉なんだ。これも地獄の負担を減らそうという取り組みの一環でね。

 あの世の裁判でも現世と同様に、交通事故の罪状と量刑は運転手の行動で変わる。危険運転や飲酒運転、事故後に救護活動せずに逃げるのだって、それはもう立派な殺意だよ。『パニックになって逃げ出した』とか『殺すつもりはありませんでした』とか誤魔化すヤツも、殺意の記録が残ってれば妄言うその罪も加わって、より深い地獄に叩き堕とせる。形の無い殺意は人間の裁判ではなかなか明確な証拠に出来ないけど、こっちには感知できるヤツがいるからな」

「けぇ」

 ボクの言葉に応える様にぬえが啼いた。

「そのぬえの能力を封じ込めたシステムを、Nシステムに紛れ込ませて主要な道路に設置してるんだ。そこで記録された殺意はデータベース化されていて、近くにいるぬえはテレパシー的な能力でそのデータにアクセス可能。それで自分が感知した殺意と、過去の殺意を照合、個人を特定できるんだ。殺意の波形ってのは指紋同様人それぞれで、同じモノはひとつも無いからね。

 という訳で通称〈ぬえシステム〉」

「けぇ」

「その照合の結果、さっきあんたが轢き殺そうとした時の殺意と、轢き逃げの時に記録されていた殺意の波形パターンが一致したんだ。これでもまだシラを切るか?」

「……」

 柊平は観念したのか目を閉じて俯いた。

「あんたは蓮人を轢き殺そうとしたが失敗、その時使った黒い乗用車は即座に処分して証拠隠滅したんだろ。それでも懲りもせずこの病室に通っては、ずっと息の根を止めるチャンスを窺ってた訳だ。

 あとは動機だが…親友なんだろ?何でそこまでの殺意を抱いたんだ?」

「……」

 柊平は俯いたまま答えない。

「いいのか?これで蓮人がこのまま意識が回復せず死ねば、あんたの殺人は成立する。地獄ツアーの予約は完了、お一人様ご案内〜で、こちらとしてはまあそれでいいんだが、動機次第では情状酌量が無い事もない。まあ地獄のフルコースの品数が若干減るくらいだが……何かの恨みか?貸した金を踏み倒されでもしたか?」

「………」

 やはり返事は無い。


「未彩ちゃんの為…ですよね?」

 それまで黙っていた真澄が呟き、柊平は弾かれた様に顔を上げた。

「お、お前っ…何故未彩を知ってるっ?

 妹と何の繋がりがっ……」

「なるほど──


 ストーカー・・・・・あんたの妹・・・・・だった・・・


 ボクの言葉に、柊平の表情かおは驚愕と恐怖がぜとなった。

「元々気になってたんだ。あんた、真澄がストーカーで、蓮人を殺そうとしてるって言ったよな?何故それ・・を知ってる?蓮人がストーカー被害に遭ってた詳しい事情をさ」

「そ、それは蓮人に聞いて…」

「蓮人は恋愛に関しては秘密主義で、親友の自分にも何も話してなかった──そう言ったのはあんただろ?蓮人が事故に遭う直前一緒に呑んだ大学の同期も、ストーカーが原因で婚約破棄になった事は聞いてないんだよな?」

 しまったという顔で柊平は黙る。

「となるとストーカーについてあんたは被害者からではなく、加害者・・・から事情を聞いたという事になる。身近にそのストーカーがいるんだろうと思ってたけど、そっか、妹か……」

 柊平の顔が歪む。そこにはさっきまでとは違う感情が顕れていた。強烈な怒りだ。

「ああ、そうさ!蓮人アイツは妹を…未彩をたぶらかして、夢中になっちまった未彩に結婚をチラつかせては散々貢がせて、挙げ句に玉の輿に乗る為にあっさり捨てやがったっ!

 未彩は…アイツに『まだ家庭を持つ自信が無いから』って言われるがままに、妊娠した子を中絶までしたのにっ……」

 その妹の恨みが動機という訳か。

 柊平を支えるジャッキーが悲痛な表情かおになっている。鬼のくせに同情し過ぎだ。

 柊平は真澄の背中に問いかける。

「それで結局あんたは誰なんだ?何で未彩を知ってる?」

「それは…この春知り合って……」

「じゃあ未彩から蓮人の事を聞いたのか?それなら未彩がどんな酷い目に遭ったかも知ってるんじゃないのか?それで何で毎日見舞いに来ていた?何で蓮人ヤツを轢き殺すのを止めたんだっ…!」

 質問は詰問へと変わっていったが真澄は答えない。

 ボクは蓮人の病室のドアを開けた。

 途端、柊平が戸惑った様な声を上げる。


「え…いる・・じゃないか…?」


 彼の言う通り、蓮人は昨日までと変わらずベッドに横たわっていた。

 心拍計の信号音だけが室内に響く。

「こっちも幻を視せる羽根とやらの効果が消えたのか?それとも…」

 柊平は前に立つ真澄に再び鋭い声を浴びせた。

「もしかしてあんた、この連中とグルだったのか?それでずっと俺を見張ってて、今度は蓮人コイツが退院したって嘘をついて俺を罠にっ…!」


「何言ってるの…いない・・・じゃない……」


 そう言って振り向いた真澄は明らかに怯えていた。

 異変を感じたのか柊平も次の言葉を呑み込む。

 代わりにボクがゆっくりベッドに向かいながら言った。

「〈耳なし芳一〉って知ってんだろ?平家の怨霊に取り憑かれた琵琶法師が墓場で毎晩ライヴさせられて、もう限界って坊さんに泣きついてさ。体中に梵字─般若心経を書いて怨霊から視えない様にしてもらうんだけど、耳だけ書き忘れて千切られちゃうってヤツ。

 そのありがたいお経と同じ効果がこれ・・にもあって──」

 そう言って蓮人の胸の上に載せていた茶色い羽根を摘み上げた。

「例の、死者を司る大天使アズラエルの羽根だよ」

 真澄が小さく悲鳴を上げた。

「蓮人さんっ…」

 口に両手を当てて固まる真澄。

 それを柊平が震える手で指差す。

「耳なし芳一と同じって…まさか……このコに蓮人が視えなかったのは……」


「勿論、とっくに・・・・死んでる・・・・からさ」


 不意に真澄の周りが昏くなる。

「言ってたろ、真澄は接待力の塊みたいなのに、柊平あんたの上着は脱がそうともしなかったって。そりゃそうだよ、霊が生身の人間に触ったってすり抜けるだけだ。さっき、バイク・・・みたいにね。その点、ボクは生者にも死者にも関われるから、パーカーだって脱がせられるさ。その後ハンガーとかには触れないから困ってたみたいだけど。

 情緒不安定なのも仕方ないさ。実体をくした精神体なんだから、精神的昂揚とか精神的動揺とかがそのまんま表に出る。だから笑ったり泣いたり怒ったりの感情の起伏が不自然で極端になり、違和感がある訳だ。生きてる人間はあんまり『イヒヒヒヒ』って笑ったり、『恨めしや〜』って泣かない。

 そんな精神体としての霊が人の姿を保てるのは、人間の思考や感情が電気信号だからだ。それによって磁気が発生し、立体映像ホログラム的に霊体を形成する。しかし昼間は太陽の影響で地球自体の地磁気が強まり、微弱な霊の磁気は乱されて、自身の姿形を上手くビジュアル化できないんだ。だから霊は昼間は動けず、完全な夜型・・生活・・になる。それで見舞いに来られるのも夜だけって訳さ。

 当然腹も減らないし…あと病室ここって寒いだろ?霊は周囲の生体エネルギーを吸収しようとするからさ、そのせいで寒かったんだ」

「霊…幽霊……?」

「だから助かったよ、幽霊の目を誤魔化すならアズラエルの羽根が使える。ラミエルのは蓮人の幻に使っちゃったからさ」

「そ、そんな…だって、足も普通にあるじゃないかっ!」

「あー…幽霊に足が無いって思ってるのは日本人くらいだ。そういう幽霊画を描いた円山応挙のせい。それも枕元に立ったかつての奥さんの霊を慌ててスケッチしたら、途中で消えて足まで描けなかっただけって説もあるそうだからね。まあ、テキトーだよな、人間のやる事は」

「それじゃ…それじゃ俺はこの病室でずっと幽霊と過ごしてたのか?幽霊なんて今まで視た事なかったのに……」

「……」

 柊平は青褪め、真澄は立ち尽くす。それぞれ黙り込む生者と死者。

 そういう訳でボクも、そして勿論ジャッキーにも、真澄が幽霊である事は分かっていた。ジャッキーが接してみて『いい』と言っていたのは『〈悪霊〉ではない』という意味だ。悪しき霊は霊能力者の様な自分の存在を認識できる相手を嫌がるものだが、鬼とガールズトーク出来るならそりゃ違うだろう。そして病室から出られるという事はこの場所に取り憑いた〈地縛霊〉でもない。現世をフラフラ彷徨う〈浮遊霊〉だ。

 しかしそれでも蓮人に殺意を抱いているのが真澄なのか柊平なのか、断定は出来なかった。浮遊霊でも特定の人間を強く恨めば、り殺す事は可能である。だから両方に罠を仕掛ける事にしたのだ。

 ジャッキーがポツリと言う。

「真澄ちゃんのワンピース、サンドベージュって言うんだけど濃いベージュでしょ?この色使うのって秋物・・なのよね。

 つまり彼女が亡くなったのは去年・・って事よ」

 そう、大抵の霊は死んだ時の格好で化けて出るのだ。

 柊平が掠れた声を絞り出す。

「じゃあ…あんたがこの春、未彩と知り合ったってのは……」

 真澄がようやく振り向き、真っすぐ柊平を見つめた。

「ハイ、知り合ったのはあの世・・・です。

 一ヶ月ちょっと前、三途の川の賽の河原で知り合ったの。

 わたしも未彩ちゃんも蓮人さんに捨てられて自殺・・したから、関連があるって事で地獄の裁判を待ってる場所が近かった。時期は違うけどね。

 わたしは去年蓮人さんにフラれた後しばらく寝込んでて、秋に婚約したのを知ったショックですぐ、お店のあるビルから飛び降りちゃった。

 でも未彩ちゃんはフラれても粘ってストーカーになって、婚約を知っても挫けずに破棄させて…でもそれで虚しくなったんだって。それで春になってすぐ、睡眠薬んじゃったって……」

 やはりそうか。

 柊平があそこまでして恨みを晴らそうとするからには、妹は死んでいるだろうと思っていた。

 そして前に言った通り、初七日後に行く賽の河原は先の審理の順番待ちで死者が溢れている。自殺した時期がズレている真澄と未彩がそこで出遭ったのも不思議ではない。

 柊平の口元が引きった様に歪む。

「そうか…あんたも蓮人の犠牲者・・・だったのか……じゃあ分かるだろ?未彩の未練も俺の恨みも分かるだろ…?」

「…未彩ちゃん、ずっと言ってたんでしょ?

『殺してやりたい…殺してやりたい…』って。

 それを柊平さんはずっと慰めて、励まして……でも未彩ちゃんは死んじゃった。

 未彩ちゃん、話してました。お通夜の時に貴方があのコの枕元で『仇は取ってやる』ってずっと言ってたの、聴こえてたって……」

「そうさ…俺は…未彩の代わりに俺はっ……」

 柊平は真澄の向こうの蓮人を睨んだ。

 その目に狂気が宿る。

 ジャッキーの肩の上のぬえがビクリとふるえた。


「殺してやるっ……!」


 真澄が再び両手を広げて、柊平の前に立ち塞がった。


「何だっ…何で邪魔をするっ?あんたも蓮人を憎んでるから化けて出たんだろっ?」

「未彩ちゃんは確かに賽の河原でも『殺してやりたかった』って言ってた。でもそれはとっても悲しそうで、寂しそうだったの。あれはホントに殺す気は無かったと思う」

「うるせえっ、どけっ、このオバケっ!」

 悪態をつく柊平にボクは冷たく言い放つ。

「『殺してやる』と『殺してやりたい』は全然違うからな。『殺してやる』は意志─まさに殺意だけど、『殺してやりたい』は願望に過ぎない。あんたの妹は叶わない、叶えちゃいけない願いを吐き出していただけだ。

 あんたがやるべきだったのはそれを真に受けるんじゃなく、忘れさせてやる事だった」

「違うっ!蓮人を殺さなきゃ未彩は成仏できないんだ!」

 口から泡を吹いて狂った様に叫ぶ柊平を、真澄は黙って真っすぐ見つめていた。どちらが亡者か分からない。

 やかて真澄は静かに語り始めた。

「……三途の川を眺めながら二人で話してる時でした。

 突然、未彩ちゃんが着てたピンクのカーディガンが後ろから脱がされたの。

 ビックリして振り返ったら、体の大っきなお婆ちゃんがカーディガン抱えてニタニタしてた。それで後ろに向かって『ハイよ、あんた!』って叫んで、そのカーディガン投げたの。そしたらそれをやっぱり大男のお爺ちゃんが受け取って、側にあった木の枝に掛けてね。『結構枝がしなっとるのう。ネエちゃん何やった?』とか言って……」

 話に出てきたのは奪衣婆だつえば懸衣翁けんえおうという夫婦で、三途の川のほとりで死者の衣服を使ってその罪を判定する鬼の眷属けんぞくである。彼らもボク達と同じ公判前整理手続きの担い手と言えるが、剥ぎ取った服を〈衣領樹〉という大樹に掛けて、その枝の撓り具合で罪の重さをザックリ量るだけだ。どこまで後の審理に役立っているのか疑問はあるが、ストーカーをしていた未彩のカーディガンはそれなりに重かっただろう。

「それでね、未彩ちゃんが蓮人さんの名前を出して事情を話したら、そのお婆ちゃんとお爺ちゃんは顔を見合わせたわ。二人はその名前を最近聞いた気がするって言って、そして思い出した。

 それは轢き逃げに遭って死にかけて、いったんこっち・・・に来そうになった霊魂ヤツ──

 その瞬間、未彩ちゃんが叫んだの。

『お兄ちゃんがやったんだ!』って。

 そして泣き出した。

 お兄ちゃんを止めなきゃって。

 自分が余計な事言ったからだって……」

「嘘だっ!」

「でも未彩ちゃん、カーディガン脱がされちゃってるから、もう賽の河原から動けないんだって。向こう・・・で服を脱いだり、何か食べたり、生活感のある事したらかえれなくなる決まりだって…」

 それがあちら側のルールだ。かつて伊邪那美命いざなみのみことが黄泉の国の食べ物を口にして、現世に還れなくなったのと同じである。

「だから、わたしが来たの。

 例のお婆ちゃんとお爺ちゃんに相談したら、最初は渋ってたけど、あの二人、割とお金にがめつくて。三途の川の渡し賃は六文らしいんだけど、結構それを誤魔化して自分達のふところに入れてるんだって。だからわたしが着けてるこのネックレス、後であげるって約束したら、河原をこっそり抜け出させてくれた。どうせ死者ひとで溢れてるからバレないって…」

 何だ、ジャッキーはボクが冤罪でもいいから地獄に堕とそうとしたのを咎めてたけど、地獄そっちの連中もテキトーな事してるじゃないか。四十九日の間の死者はまだ未決囚・・・だから彼岸あっち此岸こっち浮遊フラフラするのはそりゃ可能だが、保釈金・・・がプラチナのネックレスとは……

 真澄は柊平の目を真摯に見つめ続ける。

「だから、わたしは蓮人さんを恨んで化けて出たんじゃないの。

 わたしは貴方を止めに来たの。

 未彩ちゃんの代わりに止めに来たの」

「嘘だ嘘だ嘘だっ…」

 真澄の目から涙が溢れた。

「柊平さんにわたしが視えたのは、きっとわたしが未彩ちゃんの伝言・・を預かってたから。

 未彩ちゃん、言ってた。


 自分は地獄に行くけど・・・・・・・・・・、お兄ちゃんには来て欲しくない。

 さよなら、って──」


 支えるジャッキーを振りほどこうと暴れていた柊平の動きが止まった。

「地獄…未彩が……?」

「ああ、自分を殺すのも立派な殺生だからな。それにストーカーが重なってるから、だいぶ下まで堕ちていくだろう」

「そんな…そんな馬鹿なっ!」

「そうだ、中絶もしてたっけ。子殺しも加わるな」

「ああああっ!」

 ボクの言葉に柊平は悲鳴を上げて、再び暴れ始めた。暴れながら泣いている。その目は真っ赤に充血し、流れる涙が血の様だ。

「未彩が、未彩が何をしたって言うんだっ…全部蓮人のせいだっ!地獄に行くなら蓮人の方だろうっ?コイツが、コイツさえいなければっ…!」

 蓮人に襲いかかるつもりだろう、ジャッキーに羽交い締めにされながらもボロボロの体で必死に藻掻もがいている。

「殺してやるっ…殺させろっ……」

 殺意のたかまりに伴って、ぬえの産毛がみるみる膨らみ始めた。

「コイツを殺せば俺も地獄に行けるんだろ?

 未彩のとこに行けるんだろっ?

 殺させてくれええっ……!」

「けえっ」

「だったらっ!」 

 こちらも止めどなく涙を流しながら真澄が叫んだ。

「だったらわたしが殺す!

 わたしも自殺したからどうせ地獄に行くもんっ…柊平さんは未彩ちゃん悲しませないでよぉっ!」

 真澄は髪が逆立ち目は吊り上がり、全身が赤く発光し始めた。霊体は色によってその危険度が分かれるのだが、赤は相当マズい。無害だった浮遊霊が蓮人に執着し、人を憑り殺す〈憑依霊〉になりかけている。

「蓮人さんっ…わたしと一緒に死んでえええっ!」

「けえええっ!」

 ぬえが断末魔の様な金切り声で啼いた。その体は二人分の殺意でパンパンに膨らんでいる。突付けば破裂しそうだ。このままだと二人同時に蓮人に襲いかかって、どっちも殺人犯になるかもしれない。

 しかしそれなら一遍いっぺんに二人地獄に送れる。そうやって堕とした人数でボーナスが出たりする訳でもないが、仕事なのだから成果を出せた方がやり甲斐もある。だから別に静観していても構わなかったのだが──

 柊平を掴まえているジャッキーが縋る様な目でこちらを見た。

 ボクは深い溜息をつく。

 仕方ねえなあ……


「つまり全ての殺人・・を引き起こした犯人ホシは──あんた・・・って事だ」


 そう言ってボクは、ベッドの上の蓮人を指差した。


 真澄も柊平もピタリと動きを止めた。

 二人共目を丸くして口もポカンと開け、真澄の赤い発光も収まっている。毒気を抜かれたというやつだ。病室はさっきまでの狂騒が嘘の様に静まり返り、ぬえもシュルシュルと縮んでいった。


 ボクはおごそかに続ける。

「〈殺人教唆きょうさ〉って知ってるよな?

 他人に殺人をするようそそのかし、それに基づいて犯行が実行された場合、実際に殺人を行なった者も唆した者も共に重罪となる。まあ『殺人教唆罪』という刑法上の罪名は無くて、正確には『殺人罪における教唆の罪』だけどね。日本の刑法第六十一条にも『人を教唆して犯罪を実行させた者には正犯の刑を科する』とある。

 自殺の教唆も罪になるけど…ここはまあ、なるべく罪が重くなるよう調節・・しとこう。

 蓮人、お前は真澄と未彩に自分・・自身・・、未彩には殺人教唆、及び、真澄と柊平に蓮人・・殺人教唆未遂の罪で、死後の行き先決定な」


 そしてボクは、ニッコリと微笑んだ。


「地獄に堕ちろ──クズ野郎」


「……アハ…アハハッ……!」

 唖然とする真澄と柊平をよそに、ジャッキーが笑い始めた。

「確かに二人共凄い殺意だったけど…そうよ、全ての殺意を生んだのは蓮人このひとよ。全部この人のせい。

 この人のせいで凄い殺意を抱いて、真澄ちゃんは仕方無く自分を殺した。

 未彩ちゃんも

 だから真澄ちゃんも未彩ちゃんも自分を殺した主犯・・じゃない。だから地獄に堕ちない──そうだよね?」

「ホ、ホントか…?ホントに未彩は地獄に堕ちないのか……?」

「勿論よ、犯人・・蓮人このクズだけ。せっかく妹ちゃんが地獄に行かなくて済むんだもん、お兄ちゃんも行っちゃダメよ!」

 そう言って柊平を抱き締めるジャッキー。

 柊平は憑き物が落ちた様な顔で無抵抗だ。

 真澄が戸惑いつつ言う。

「で、でも…今の殺意でわたしが自分を殺したって……自殺したのは去年の秋だよ…?」

「大丈夫、そんなのは誤差・・だから♪

 ね、テンちゃん?」

「テンちゃんって言うな」

「だってぇ、ホントに天使なんだもぉ〜ん♡」

 ジャッキーのハートマークを飛び散らかしたウィンクに、ボクは笑顔を引っ込めて、苦虫を噛み潰した様な顔でそっぽを向いた。こういう捏造・・とか冤罪・・はお咎め無しらしい。都合の良い鬼だ。



「──で、結局、真澄ちゃんと未彩ちゃんはそのまま賽の河原にいるの?」

 ガードレールに腰掛けたジャッキーは、コンビニで買った葡萄ぶどうのジェラートを舐めながらそう訊いてきた。鬼は葡萄が好物らしい。 

 ボクは缶コーヒーを一口すすってから答える。

「ああ、ラミエルとアズラエルの羽根を使った件の報告書を天国うえに提出した時、連絡役の大天使が教えてくれた。

 未遂だった柊平はともかく、実際に自殺した実行犯・・・の二人は殺人教唆の罪同様の重罪人だからね。それでも真澄と未彩を問答無用で地獄に堕とすには、情状酌量の余地がかなりあるのも確かだ。これに加えて柊平が熱心に二人を供養し、遺族として減罪を嘆願し続ければ、結局再審再審で三十三回忌の法界王のとこまで審理がいっちゃうかもしれない。それじゃまた地獄の裁判官がオーバーワークになっちゃうだろ?だからボク達の言い分をそれなりに聞き入れる事にしたらしい。

 賽の河原は天国でもないけど地獄でもない、いわゆる〈煉獄れんごく〉だからな。そこで苦行を積んで罪を浄化できれば、まだ救われる可能性がある場所だ。親より先に死ぬ〈逆縁ぎゃくえん〉の罪を犯した子供が賽の河原で延々と石を積み続けるのも、その魂の浄化を目指した苦行だろ。積んだ石をお前ら鬼が蹴飛ばして崩すのは教育的とは言えないけどな。

 それで真澄と未彩にもそんな苦行─労働・・をしてもらう事になった。ブラックな労働環境に耐えてしばらくせっせと働けば、その働き次第では更なる免罪も考えてもらえるって訳さ。でも二人共もう両親亡くしてるから、逆縁の石積みは出来ない。だから別の仕事が与えられたんだ」

「なるほど…それで、奪衣婆・・・になったのね」

「真澄は流れる様に客の上着脱がせるプロだからな。未彩の指導も出来るし適任だろ」

「ウフフ、そうね〜。きっと今頃『お客さん初めて?どこから来たの〜?』とか言いながら亡者きゃくの上着脱がせて、頑張ってるわよ」

 そう言ってジャッキーは目を細めて夜空を見上げた。ボクもつられて顔を上げる。

 今夜も春らしい朧夜で、満月が柔らかく辺りを照らしていた。

 視線を下げると雑木林の向こうに蓮人が入院している病院が見える。

 面会時間の終わり際に病室を訪ねてみたが、勿論、真澄も柊平もいなかった。あの犯人特定の日から一週間経つが、ナースステーションで確認したところ、あれ以来蓮人を訪ねてきた見舞い客はいないようだ。今は消灯時間も過ぎて、病室の明かりは全て消えている。蓮人は暗い病室で独り、未だ意識不明のままである。

 それはもしかしたら、あの罪深い男の煉獄なのかもしれない──

「…柊平は轢き逃げ犯として、警察に自首したそうね」

「ああ。それがアイツの煉獄だ」

 やがてジャッキーはジェラートを食べ終わり、ボクはコーヒーを飲み干した。鬼が目ざとく言う。

「空き缶は危ないからちゃんとゴミ箱に捨てなさいよ」

 だから子供扱いをするな。

 ムッとしながら周りを見るがゴミ箱は見当たらない。とりあえずポケットに空き缶を入れると、ジャッキーは小さく笑って隣に立った。その肩の上のぬえはすっかり眠りこけている。

 仄かな月光が降り注ぐ中、ボク達は並んで歩き出した。



 トクン……トクン……トクン……

 心拍計の音が響く。

 生きながらにして地獄行きを宣告されたベッドの上の男が、かろうじて現世と繋がる音だ。

 右腕の点滴のチューブ注射筒シリンジが接続されている。その筒に挿し込まれた押し子プランジャーと呼ばれる部分を押す事で注射液を送り出せるのだが、今は筒内に何の液体も入っていない。代わりに入っているのは気体─空気だ。

 その押し子プランジャーが押され、空気が点滴のチューブに入っていく。

 一回…二回…三回……

 繰り返し繰り返し、空気が送り込まれる。

 チューブから右腕の血管へ、大量の空気が送り込まれていく。

 血管に空気が詰まれば、急激に血液の循環が悪化して〈空気塞栓症くうきそくせんしょう〉を引き起こすが、その致死量と言われる200CCには一般的な注射筒シリンジで十回注入すれば到達する。空気は人を生かしも殺しもするのだ。

 七回…八回…九回……

 トクン……トクッ…………トクンッ……

 心拍計が乱れてきた。不整脈を起こしている様だ。

 十回…十一回…十二回……

 トクッ…………トクッ……………

 ヒクッヒクッとしゃっくりをするかの様に胸部が上下する。呼吸がままならないらしい。心拍計は更に乱れ、徐々に弱々しくなっていく。

 十五回……

 ……トクッ…………

 十八回……

 ………ト…………クッ……………

 ピ━━━━━………………………

 二十回を超えた頃、心拍計はもう役目を終えた。計測すべき心音が途絶えた事を知らせる高い信号音が鳴り響く。

 やがて当直の看護師がバタバタと飛び込んできた。すぐに心臓マッサージを施し始めたが、まあ無駄だろう。送り込まれた空気の量は致死量を遥かに超えている。

 男の顔にもはや生気は無く、虚無のしるしが刻まれていた。

 殺生に加え、幾つもの邪淫と妄語うそに塗れていた愚か者の呆気なくも哀れな最期だ。

 死因は空気塞栓症による心筋梗塞となる。脳の損傷は直接の死因ではないので、轢き逃げ犯が殺した事にはならない。これからこの男は唯一人、くらい地の底を彷徨い、やがて辿り着くのだ。

 くぐる者は一切の望みを捨てよと掲げられた、その門の前に──



『どこへ逃げたらこの無限の怒り、この無限の絶望から脱することができるのか?どこへ逃げようが、そこに地獄がある!いや、わたし自身が地獄だ!』


 (第一話 了)

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