第50話:拓かれた道の先を拓く
ドームの中は、少しひんやりしていた。
天井の照明が静かに灯り、床にうっすらと白い光を落としている。
誰も声を出さない。空気が、薄く感じる。……それは、たぶん気のせい。
渡航の同意手続きは、昨日までに終わっていた。
今日は、いよいよ試験当日。
ゲートを越える、その一歩を、実際に踏み出す。
短時間の渡航。それだけといえばそれだけ。でも、私たちにとっては、決定的なはじまりだ。
木製の車イスが、ひとつ。
それに座って、逆向きに線を越える。
線の向こうがゲート——という設定で、練習も済んでいた。
越えたらすぐに、“向こう”の人が押し返してくれる。もし何かあったら、そのまま立ち上がって、まっすぐ前に進めばいい。目を閉じて、そうする練習もした。
体は覚えている。あとは、順番を待つだけだ。
私がここにいるのは、きっと適性が高かったから。
それが理由なんだったら、私は最初に行こうと決めていた。
それがここで果たす役割なんだと思った。
渡航前に、私たちは服を着替え、事前診察を受けることになっていた。
観測ドームの一角に並んだ仕切り付きのスペース。私は、指示された通りに、配布されたチュニック型の衣服に袖を通した。
生成り色の布は、少しざらっとしているけど、やけに丁寧に縫われていた。
下着も交換するように言われたのは、ちょっと……いや、かなり気が重かった。
「この下着、ダサくない?」という誰かの声が聞こえて、別の誰かが「通れば何でもいいっしょ」と笑って返していた。
私も、笑えばよかったのかもしれない。けど、笑えなかった。
着替えを終えてカーテンを開けると、すぐに診察が始まった。
バイタルのチェック、問診、採血。
スタッフの手際は冷静で、整っていて、だから余計に、こちらの鼓動だけが浮いて聞こえた。
「気分は悪くありませんか?」
「直近で睡眠に問題は?」
問われたことには答える。口数は、必要なだけ。
採血針が刺さる瞬間、ふと、自分が“身体ごと実験に組み込まれている”感覚になった。
片山先生が、前に出た。
「今日は数秒だからな。ここにいる研究員は、だいたい体験してる。……三者面談のとき、聞いた子もいると思うけどな」
トラックジャケットではなく、みんなと同じチュニックを着ている。
先生は、すっと車イスに座って、全体を見渡した。
周りの研究者も、私たちを安心させるようにうなずく。
数秒っていうのは、そんなことなんだと、場の空気がわずかにほぐれる。
先生の車イスが押され、ゲートを越えていく。
誰も息を詰めていたけれど、何も起きなかった。
そして、先生は何事もなかったかのように、すっと戻ってきた。
「では——最初に行ってみたい者は?」
その瞬間、私の胸が跳ねた。行くなら、今だ——そう思った。
たぶん私が最初に行けば、みんなも安心できる。
そういう役割なんだって、どこかで決めていた。
……けれど。
「オレ、いきまーす!」
「やってみたいっす」
「じゃあ俺も!」
男子たちの声が、重なるように挙がった。
一瞬で、列ができる。
「じゃんけんだ! じゃんけん」
「よっしゃ、勝負!」
……え? そんな気軽に決めていいの?
私は、立ち上がるタイミングを逃していた。
カイトが、じゃんけんに勝ち残った。
少し笑いながら、でもその目は真剣で、彼は静かに車イスへと座った。
押し出されていく彼の背中を、私はただ見つめていた。
まるで儀式みたいに、静かで、重たい空気の中。
それでも、ゲートは何も語らず、ただそこにあった。
一秒。二秒。たぶん三秒くらい。
カイトが、ゆっくりと戻ってきた。
きょとんとした顔だったけど、平気そうだった。
誰かが「おかえり」と言って、場にほんの少し笑いが戻った。
それから、次々に渡航が行われた。
中には、ちょっと顔色を悪くした子もいた。
「目が回った」「ふわっとした感じ」と口々に言うけれど、数分でみんな回復していた。
「緊張しすぎたからじゃないかな」
セリナがぽつりとそう言って、うなずく子が何人かいた。
私は、まだ順番を待っていた。
手のひらを見ていた。汗は出ていない。指先は、少しだけ冷たい。
でも、心は落ち着いていた。
順番が来る。車イスに座り、ゲートを越える。
……たとえ、何か起きても、引き受ける覚悟だけはしてきた。
────
ゲートの向こうの景色が水面のように揺らぎ、水面に入ったと思ったら、揺らぎがなくなって、向こうの世界があった。
これが異世界……と思った瞬間に、グルキア卿に話しかけられる。
「
「
……短いやり取りが、終わるか終わらないかのうちに、もう私は、戻ってきていた。
でも——あとから来た。
目の裏に焼きついていたのは、天井の高い、石の部屋。声が反響して、誰も動かないのに、空気が震えていた。
空気は乾いていて、でも冷たくはなくて、匂いもないのに、何かが詰まっていた気がする。
あの壇。まっすぐな通路。誰も私に触れていないのに、確かに“通された”感じがした。
言葉にするには、まだ、整理できていない。けれど、私の中の何かは、もうそれを“違う世界”として刻んでいた。
トリックでもなんでもない。間違いなく、異世界に行ったんだ。
────
戻ってきたとき、ふと目が合った子がいた。
……でも、その子は、何も言わなかった。
ただ、じっと私を見ていて、そして、すぐに視線をそらした。
その仕草の意味を、私は問い返さない。
でも、たぶん——あの子の中で、何かが動いたのだと思う。
「なんか……思ったより、普通だったな」
「うん、怖いかと思ってたけど、全然。ていうか、早すぎた」
「拍子抜けしたわ、マジで」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
それに、私は——たしかに、うなずいていた。
でも……それでも、いいのだと思えた。
誰かが、そうなるように支えてくれたんだと思う。
私たちは、確かに一歩、異世界に踏み込んだんだ。
それができたのは、先に道を拓いてくれた人たちがいたから。
私たちは、今日は初めてじゃなかった。
でも、これから先は——
私たちが、次に続く誰かのために、道を拓いていく番なんだ。
……そう、静かに、思った。
異世界……グルキア卿の表情に、“終わった”空気はなかった。
あの人は、まっすぐこちらを見ていた。
威圧ではなく、観察。歓迎でもなく、受容。
まるで、私たちがどう応えるのかを、静かに測っているようなまなざしだった。
声も、短かった。でも、はっきりと意味が込められていた。
名前でも、命令でもない。あれは、たぶん——通行を認める言葉。
……見透かされた気がした。
でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。
私たちは、今日までは、誰かが拓いた道を歩いてきた。
でも、この先は、違う。
私は、まだ何もできていない。
成果も、実績もない。たぶん適性がある——それだけだ。
でも、その適性で、誰かを守れるなら——私は、きっと前に出る。
誰かが危ないとき、どうしても越えなきゃいけない壁が現れたとき——
そのときは、私が前に出る。
私の適性は、きっとそのためにある。
私がここにいる意味は、たぶん、そういうことだ。
……それだけは、もう心の奥で、ずっと決まっていた気がする。
【第50話:了】
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