第42話『旅路のひととき』
王都までの道のりは一週間。
街道を抜け、いくつかの町を越え、旅はおおむね順調に進んでいた。
見知らぬ景色に心を弾ませながら、笑って、食べて、眠って――
気づけば、屋敷を出て五日目の夜を迎えていた。
街道脇の林のそばで火を起こし、僕たちは今夜初めての野営の準備を終えた。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、赤い光が木々の影を揺らす。
小鳥の声も虫の羽音も遠ざかり、夜の静けさが少しずつ広がっていく。
「ふぅ……なんとか日が落ちる前に終わったね」
テントの張り具合を確かめて、僕はほっと息をついた。
「ご主人様、紅茶をどうぞ」
プルメアが湯気の立つカップを両手でそっと差し出してくる。
焚き火の光に照らされたその笑顔は、どこか家庭的で温かい。
「ありがとう、プルメア」
受け取ったカップを口に運ぶと、やわらかな香りが鼻をくすぐった。
外で飲む紅茶は少し煙の香りが混じっていて、それが妙に心地いい。
「こうして外で飲む紅茶も悪くないな」
「ふふっ、気に入っていただけてうれしいです」
そんな穏やかなひととき。
焚き火を囲みながら、ようやく皆が腰を下ろす。
「さて、そろそろ夕食にしようか」
馬車から運び出された荷には、旅定番の食料が並んでいた。
干し肉、固いパン、乾燥果実。保存の利くものばかりだ。
「……うん、見事に“旅飯”って感じだね」
「贅沢を言うな。腹を満たせれば十分だろう」
セラが淡々と答える。火の粉がぱちりと弾けた。
「せめて何か温かいものがあればいいんだけどな」
そう呟いた僕に、意外な人物が反応した。
「それなら、私が作る」
顔を上げると、声の主はネーヴェさんだった。
表情はいつもどおり淡々としている――けれど、ほんの少し口元が緩んでいるようにも見えた。
彼女は無言で包みを開き、中から小さな束を取り出す。
キノコと山菜。さっき周囲を見回った時に集めていたらしい。
彼女は迷いなく手を動かし、鍋に水を張って火にかけた。
焚き火の上で湯が沸き立ち、山菜の香りがふわりと漂う。
「……うわ、いい匂い」
「これは……スープ、ですか?」
「そう。味は薄いけど、身体は温まる」
出来上がったスープを口に含む。
優しい塩気と山菜の香りが、冷えた身体の奥まで染み渡っていく。
干し肉の塩辛さとは違う、静かに息を整えてくれる味だった。
「……美味しい」
思わず漏らした声に、ネーヴェさんがわずかに目を伏せる。
「……悪くない」
セラも珍しく口元を緩めた。
焚き火の炎がぱちぱちと揺れ、橙の光が皆の頬を優しく照らしていた。
だが、そんな中で――ひとり、ニアは不満を顕にするように尻尾をゆらゆら揺らす。
「確かにうまいけどニャ、でもやっぱり、干し肉じゃなくてこう……“じゅわっ”と脂の乗ったお肉が食べたいニャ~」
セラが呆れたように息をつき、肩をすくめる。
「そんなに食べたいのなら、そのへんで獲物でも探して狩って来たらどうだ?」
いつもの軽口。
喧嘩の始まりの合図みたいなものだった。
だが、ニアの耳がぴくりと動く。
焚き火の弾ける音の合間で、何かを感じ取ったように。
「そうニャ! 狩ってくればいいのニャ!」
勢いよく立ち上がり、尻尾をピンと立てる。
「自分で仕留めれば、新鮮なお肉が食べられるニャ!」
セラが眉をひそめて言い捨てた。
「……冗談に決まっているだろ。真に受けるな」
だが、ニアはもう聞いていなかった。
耳をぴんと立て、鼻をひくひくと動かし、林の方へと気配を探る。
その視線の先――林の向こう、闇が濃く沈む奥をじっと見つめている。
「……ニャ?」
いつもの調子で声を漏らすが、その瞳は真剣だった。
「どうしたの?」
僕の声に、ニアの耳がぴくりと震える。
「やっぱり……なんかいるニャ」
「まさか、魔物か?」
セラの手が、無意識に腰の剣へ伸びた。
夜の空気が張り詰める。焚き火の光だけが、皆の表情を照らしている。
「違うニャ。これは……馬車の音ニャ」
「馬車? こんな時間に?」
ニアは耳をすませ、低く呟いた。
「間違いないニャ……しかも、鎖の音が混じってるニャ」
その一言で、場の空気が一気に変わる。
焚き火の弾ける音さえ、妙に遠くに感じた。
セラが立ち上がり、ニアの指し示す方へ目を細める。
「馬車に鎖……わざわざ街道を外れて林を進むなんて――訳ありだろうな」
そう言われて、僕は思わず息を呑む。
夜の移動でさえ危険だというのに、ましてや街道を外れてまで林の奥を行くなんて、常識ではありえない。
「どうしますか、ご主人様?」
プルメアがそっと声を落とす。
その手には、まだ温もりの残るスープの器が握られていた。
正直、面倒ごとに関わりたいわけじゃない。
けれど――この胸騒ぎを無視するのも、なんだか気持ち悪い。
僕は焚き火を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……道に迷ってるだけかもしれない。けど、もし違法なことなら――見過ごせないよね」
言葉を終えると同時に、誰もが立ち上がる。
セラが剣の柄に手を添え、プルメアが灯りを消した。
夜の闇が、静かに僕たちを包み込む。
緊張と一抹の警戒を胸に、僕たちは音のする方へ――
そっと、歩き出した。
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