第29話『仮面越しの視線と出撃令』


 あまり自由に動けない日々が続いていた。


 ネーヴェという厄介な来訪者を屋敷に迎えて以来、僕たちの生活は、どこかずっと緊張感に包まれていた。ふとした瞬間――


 廊下の奥。階段の影。食堂の出入口。


 あの仮面の人物が、ぽつんと佇んでいる。


 声もかけず、動きもしない。ただ、じっとこちらを見つめてくる。無表情な仮面と、無音の佇まいが妙に怖い。


 まるで、ホラーだ。


 おかげでこちらは、下手に行動を起こすこともできず、森に出ることすら叶わなかった。瘴気溜まりの調査も、魔物の様子を探ることも、すべて“保留”。ただ徒に日々が過ぎていく。


 そして、ついに――


 父からの召集がかかった。


「父上、遅くなりました」


 重厚な扉を開けて執務室に足を踏み入れると、父――フレデリック・フォン・ヴァイスベルグが、机越しにこちらを見据えていた。その隣には、やはりネーヴェの姿がある。


 無言のまま仮面をこちらに向けるネーヴェ。その視線がどこまで僕の本音を見透かしているのか、分からない。けれど今は、それを気にしている場合ではない。


「クラウス、よく来た」


 父は静かに地図を指差した。そこには森全体が描かれており、赤い印があちこちに記されている。


「例のスタンピードの件だが――ネーヴェ殿、そして斥候たちの報告を照らし合わせた結果、瘴気溜まりの発生が日に日に増していることが判明した。……もはや自然に消える見込みはない。このまま放置すれば、確実にスタンピードが起こるだろう」


 地図の上に置かれた父の指が、赤い印をひとつ強く押さえた。


「森の各所で瘴気が濃くなっている。点在していた小さな瘴気の核が、今では互いに干渉を始めている。最悪の場合、これらが融合し、巨大な瘴気の核が形成される可能性もある」


「……そうなれば、魔物の発生も加速し、手がつけられなくなる」


 僕が言葉を継ぐと、父は深く頷いた。


「その通りだ、クラウス」


 その眼差しには鋭さと共に、どこか託すような信頼の色が混じっていた。


「そこで――お前にも出てもらう」


 父の声には迷いがなかった。


 僕は一瞬のためらいもなく、静かに頷く。


「はい。もとより、そのつもりです、父上」


 その返答に、父の表情がわずかにやわらぐ。だがすぐに、地図の上に視線を戻し、声の調子を引き締める。


「親としては、本来こんな任を課すべきではないと分かっている。だが……お前の実力は、もはや私をも上回っている。今のヴァイスベルグ家にとって、お前は欠かすことのできない戦力だ」


 そう言って、父は地図の上に手を滑らせ、複数の印が集まる一帯に目をやった。


「そして――お前の“専属メイド”たちもな」


 その一言に、隣で静かに佇んでいたネーヴェの仮面が、わずかにこちらを向いた。興味を持ったのか、静かな空気の中で、その視線だけが妙に際立って感じられる。


「……メイドが、戦うの?」


 中性的な声が、執務室にひたりと響いた。感情の色はほとんどないのに、なぜか冷たいものが背筋を撫でてくる。


「変わり者だとは言ったが、息子のメイドたちは、見かけによらず頼りになる。猫獣人に、元騎士……そして――スラ」


「父上!」


 僕は思わず声を張り上げ、父の言葉を遮った。


 しまった。少し声が大きすぎた。けれど、これ以上はまずい。


「スラ……?」


 仮面の奥から、ネーヴェの声が再び響く。疑問というより、ただ言葉を繰り返しただけのような調子。それでも、心臓が一つ脈打つたびに、冷や汗が浮かんでくる。


「スラ……イス! ええと、スライス担当です。朝の食卓でね、パンをきれいにスライスしてくれるんですよ! すごく几帳面で……頼れる、という意味で!」


 我ながら苦しい。いや、苦しすぎる言い訳だった。


 けれどネーヴェは、それを聞いても特に反応を返さなかった。ただ、わずかに首を傾けて――


「……そう」


 それだけを残し、再び沈黙に戻る。


 ……セーフ、か? 本当に今のでセーフなのか?


 疑念と安堵がないまぜになった感情が、じわじわと背中に汗を滲ませる。  だが、よく考えれば――


 “書庫”でも、彼は「そう」と言って引き下がったあと、結局あとをつけてきた。  それからも、屋敷のあちこちで、こちらを監視するような視線を投げかけてきたのだ。


 ……つまり、「そう」=納得、ではない。


 むしろ“観察対象としてマークした”合図なんじゃ……?


 そう考えた瞬間、背筋がひやりと凍りついた。


「と……とにかく、三人とも僕の信頼する“従者”です。彼女たちとなら、瘴気溜まりの掃討も問題ないと判断しています」


 ネーヴェの仮面の奥から、感情の読めない相槌が返ってくる。


 どこまで納得しているのかは、まったく分からなかった。


 父は小さく咳払いをひとつすると、話を本筋へと戻した。


「ともかく――お前とその従者たち、そしてネーヴェ殿には、先行して瘴気溜まりの掃討にあたってもらう」


 父の言葉に、僕は静かにうなずいた。


「はい」


「今回の掃討任務は、二手に分かれて行動してもらう。ネーヴェ殿には北東側の瘴気溜まりを、お前たちには北西から西にかけての区域を任せる。手分けして、一つでも多く潰すことが肝要だ」


 その言葉に、僕は思わず胸をなでおろしそうになった。


(……よかった。一緒に行動なんてことになったら、プルメアの正体を隠しながらの探索なんて無理がある)


 ネーヴェの前でボロを出さないよう注意を払いながら行動する、そんな苦行を強いられずに済んだのは僥倖だった。

 

「ただし、問題もある。掃討しても、翌日にはまた別の場所に新たな瘴気溜まりが出現している。……いたちごっこだな」


「つまり、根本的な解決には至らないということですね」


 そう口にすると、父は苦々しい面持ちで頷いた。


「その通りだ。だが、瘴気溜まりを生む原因の一つは――魔物たちの死体だ。連中が殺し合い、遺骸がそのまま放置されれば、そこから瘴気が発生し、新たな瘴気溜まりとなる。つまり、戦って倒すだけでは意味がない」


 父の声音が、ひときわ重くなる。


「火をつけて焼く、埋める、あるいは魔法で処理する……死体の処理方法はいくつもあるが、問題はその“量”だ。数が多すぎる。常套の手段では、とても間に合わん」


 そこで一呼吸置き、父は続ける。


「ネーヴェ殿からも、昨日その点についての指摘があった。お前たちが行った――“跡形もない処理”。あれは非常に有効だったと聞いている。何らかの方法があるのなら、今回もぜひ活用してくれ」


「……はい、善処します」


 苦笑しそうになるのを堪えながら、僕は短く答えた。


(“何らかの方法”も何も……プルメアが全部食べてるだけなんだけどな……)


 喉元まで出かかった本音を、何とか飲み込む。


「我が軍は街の守りを固める。スタンピードが発生した場合に備え、街と森の境界に防衛線を築くつもりだ。クラウス、お前たちは……どうかその“前”に、少しでも多くの火種を潰しておいてくれ」


「……わかりました」


 決意を込めて、僕は深くうなずいた。


「ふむ。それでは出発は明朝とする。今夜は準備と休息にあてろ」


「はい」


 執務室を後にするとき、ちらりとネーヴェを見る。


 仮面の奥――その視線はどこまでも無感情で、ただ静かに、僕を見つめていた。

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