第24話『仮面の来訪者と紙袋の少女』
屋敷の正面を避け、僕たちは調理場へと通じる勝手口へ足を向けた。
まさか、帰宅するだけでここまで神経をすり減らすことになるなんて――。
扉を開いた瞬間、香草と炒めた肉の香りがふわりと鼻先をくすぐる。空腹の胃にはあまりに刺激が強い。
「……お腹すいたニャ……」
ニアがぽつりと呟く。耳をぴくりと動かし、鼻をくんくんと鳴らして匂いの出どころを探っている。
調理場の脇を抜け、誰もいない廊下へと出る。屋敷内は静まり返っており、幸いにも人の姿は見当たらない。
「今は我慢して。よし、誰もいないうちに急ごう!」
僕が小声でそう言った、まさにその瞬間――
――がぶりっ。
やけに大きな咀嚼音が響いた。反射的に振り返ると、そこには紙袋を小脇に抱え、りんごにかぶりついているニアの姿があった。
「……ニア……」
呆れを通り越して脱力する僕に、ニアはもぐもぐと口を動かしながら、そっと目を逸らしてつぶやく。
「こ、これはその……事前補給ニャ。動くにはエネルギーが必要ニャ!」
言い訳がましい声に、僕は肩をすくめて、ひとつ息を吐いた。
「まったく……仕方ないな」
気を取り直して、僕たちは歩みを進めた。廊下の先にある階段まで来れば、あとは上がるだけで僕の部屋だ。屋敷内に人の姿は見当たらない。
「よし、今のうちに僕の部屋まで急ぐよ」
僕の合図にあわせて、それぞれが短く返事を返す。
「わかったニャ!」
「はい、承知しました」
「さっさと行くぞ」
「坊ちゃまのお部屋ですね。畏まりました」
――ん?
四人目の声に、僕は思わず足を止めて振り返る。
そこには、いつの間にか列の最後尾にぴたりと並んでいたエリーゼの姿があった。
「エ、エリーゼ!? い、いつからそこに……!」
「調理場の方から、坊ちゃまたちがひっそりと戻られるご様子が見えまして。あまりに楽しそうでしたので……つい、ご一緒させていただきました」
いつも通りの完璧な笑みを浮かべて、さらりと言ってのける彼女に、僕は額を押さえる。
「……だったら普通に声かけてよ。驚くじゃないか……!」
「てっきり、坊ちゃまがようやく年相応の遊びをなされているのだと……微笑ましくて、口を挟むのも野暮かと思いました。」
「そんなわけないでしょ……!」
ため息をつきつつ、僕は話題を切り替えた。
「……それより、エリーゼ。冒険者の方が屋敷に来ていると聞いたんだけど、まだいらっしゃるのかな?」
「はい。Sランク冒険者の方ですね。現在、旦那様の執務室にてお話を続けておられます」
「……やっぱり、まだいたのか……」
思わず漏れた僕の声に、空気が少しだけ重くなる。
――今この瞬間も、スライムスレイヤーが屋敷の中にいる。
どこかで鉢合わせするかもしれないと思うと、気が気じゃなかった。
「とにかく……今は僕の部屋に行こう。話はそれからだ」
僕が小声でそう言うと、皆は無言で頷いた。
急ぎ足で階段を上がり、廊下を抜けて、ようやく僕の部屋の前までたどり着く。
「ここまで来れば、ひと安心かな……よし、みんな入って――」
「クラウス。やっと戻ったか。心配していたのだぞ」
背後から響いた父上の声に、思わずその場で硬直する。
「っ……!」
恐る恐る振り返ると、そこには執務服姿の父上、そして――その隣に立つ人物。
顔全体を無機質な仮面で覆い、頭には深くフードを被っている。その旅装は簡素ながらも隙がなく、細部に上質な作りを感じさせた。
姿勢ひとつ崩さず、静かに立ち尽くすその気配には、不思議な緊張感がある。まるで空間ごと沈黙に支配するような、ひやりとした存在感だった。
性別も年齢も分からない。なのに、ただそこにいるだけで、目が離せなくなる――そんな得体の知れなさに、僕は思わず言葉を失った。
――ああ、最悪だ。
まさかここで、鉢合わせしてしまうとは。
「こちらは、冒険者のネーヴェ殿だ。森の異常を察知し、わざわざ知らせに来てくださった方だよ」
「そ、そうでしたか……私はクラウスと申します。」
「ネーヴェ。よろしく」
淡々と名乗る仮面の人物――ネーヴェの視線が、僕の背後へと流れた。
――まずい!
咄嗟に振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは――紙袋を手にしたニア。
「ニャッ!」
すばやく、プルメアの頭に紙袋をすっぽりと被せる。その袋には、さりげなく視界用の穴まで備えている。
ニアと目が合った。ふふんと得意げに口元を吊り上げる彼女。
(ナイスだ、ニア! まさにファインプレー!)
心の中で全力のガッツポーズを決めながら、僕は目だけでその功績を讃えた。
――実際、プルメアの髪は見るからにスライムを連想させる質感をしている。逆に言えば、そこさえ隠してしまえば、彼女はどこにでもいる普通の人間の少女にしか見えないのだ。
――が。
「……何をしているの? それは」
淡々とした問いかけが、空気を切り裂いた。無機質な仮面の奥から放たれる視線は鋭く、まるで一切の曖昧さを許さないかのようだ。
――しまった。逆に目立たせてしまった……!
「はは、すまんネーヴェ殿。あれは息子の専属メイドたちでしてね。見ての通り、ちょっと変わり者が多くて。息子も含めて、ですが」
父上が即座に笑って場を和ませようとする。その言葉にほんの少し救われる。
「……そう」
ネーヴェの反応は相変わらず無感情で、それがかえって、不気味なほどだった。
「さぁ、行きましょう」
父上がそう言って歩き出す。ネーヴェも静かにそれに続く。
(ナイス父上!)
心の中で父上に全力で感謝しながら、僕は安堵の息をついた。
――鉢合わせはしてしまったけれど、なんとか無事にやり過ごせた。
階段を降りていく父上とネーヴェの背中を見送りながら、僕たちもようやく部屋へ入ろうとした、まさにそのとき。
「……あぁ、そうだクラウス」
父上がふと思い出したように立ち止まり、何気ない声で告げる。
「ネーヴェ殿には、しばらく屋敷に滞在してもらうことになったからな」
その瞬間、僕の中で何かが音もなく崩れ落ちた。
世界が静まり返る中、僕の思考だけが無言で絶叫していた。
なにしてくれてんのぉぉぉ父上ぇぇぇぇぇ!!
心の中の絶叫が、喉元までこみ上げたのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます