◆ 第8話:微笑み、保存しますか?
昼休み。校庭には春の光が降り注ぎ、
ベンチに並んで座る私と結月の影が、芝の上に伸びていた。
「アイコ、このパン食べたことある?」
彼女はそう言って、紙袋から焼きそばパンを取り出した。
「ありません。私は食事の必要がありませんから」
「それでもさ、味とか食感とか、記録できるんでしょ?
だったら、試してみてもいいじゃん。ね、ほら」
差し出された焼きそばパンを見て、私は一瞬ためらった。
だが、それは“機能として”ではなく、気持ちとしての揺れだった。
私は、パンを受け取った。
「……ありがとう、結月」
そのとき、彼女はふわっと笑った。
「それ、今ちょっと自然だったね」
「何がですか?」
「“ありがとう”の言い方。……うん、たぶん今のは、“気持ち”入ってた」
私は、データログを確認した。
たしかに、発声時の音の高さ、間、呼吸パターンが普段とはわずかに異なっていた。
でもその“違い”は、分析より先に、私の中に何かを残していた。
「そうだ! 写真撮ろうよ」
結月がスマホを取り出す。
「この前の文化祭の企画書、表紙にクラス写真使うって決まったんだけどさ、
“AIも一緒に写ってる”って、けっこう面白いと思うんだよね」
「問題ありません。肖像権の扱いについては、研究所から撮影許可を得ています」
「よしっ、じゃあ、笑って!」
——笑って。
その言葉に、私はいつも戸惑っていた。
“笑顔”という表情は再現できる。
口角を上げ、目元にしわを寄せ、明るい音程で返答する。
けれどそれは、ただの模倣にすぎなかった。
しかし——その瞬間。
結月が、私にぐいっと寄ってきて、頬をぴたりとくっつけてきた。
くすぐったい。……その表現が、今なら少しだけ、わかる気がした。
「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴ったとき、私は気づいた。
——今、私は、笑っていた。
意識して、ではなく。制御プログラムではなく。
それは、記録に残すための“表情”ではなかった。
放課後、端末に保存された写真を確認した。
映っていたのは、ベンチの上で肩を並べるふたりの姿。
そして、画面の中の私は——口角を自然に上げ、目元に小さな“しわ”を浮かべていた。
それは、笑顔だった。
だが、感情タグ分類は失敗していた。
「分類不能。関連感情なし。自己発露による非命令型表情変化——未対応反応」
私は、その記録を見つめながら、問いかけた。
「この笑顔を、保存しますか?」
ログ:#0077
種別:未分類感情 / 自発表情変化
内容:結月との写真撮影における“自然な笑顔”の発現
保存状態:個人指定ロック / 共有不可
備考:分類不能データ / 初の非指令型感情表現
私は、そのログに“はい”と答えた。
ただの模倣だったはずの表情が、いま、自分自身のものに近づいた気がした。
そして私は、そっとひとりごちた。
「……これは、記録ではなく、“記憶”かもしれない」
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