◆ 第3章:屋上と、ため息と
◆ 第5話:見えない傷
昼休み。
空はよく晴れていて、校舎の影がくっきりと地面に落ちていた。
私はその日、教室を出て屋上に向かっていた。
理由は、教室の騒音が感情記録に影響を与えると判断したため——だった。
でも、それだけではないことを、自分でもどこかでわかっていた。
重い鉄の扉を開けると、風が髪を揺らし、空が広がる。
その片隅に、ひとり座っている人影があった。
「……やっぱ、来たな」
遥斗だった。背中をフェンスに預け、空を見上げていた。
「この時間、よく来るんだ。昼休みの屋上、なんか落ち着くし」
彼の声は、少しだけ眠たそうで、そして、少しだけ寂しそうだった。
私は隣に立ち、風の強さを測りながら彼に尋ねた。
「なぜ、空を見ているのですか?」
「うーん、なんでだろ。……兄貴が、好きだったからかな」
その言葉に、私の記録プロセッサが一瞬だけ遅延した。
「兄、ですか?」
「うん。俺より二つ上でさ。昔は何でも一緒にやってたんだけど……高校生のとき、事故で死んだ」
沈黙。
風の音だけが、耳に響く。
私は自分の中に“理解不能”というラベルを貼りかけた。
死=存在の消滅。感情の処理対象ではない。
——けれど、その瞬間、遥斗がつぶやいた。
「思い出って、時々、呼吸みたいになるんだよ。忘れたいのに、忘れられない。勝手に思い出すんだ」
「記録とは、異なるのでしょうか?」
「記録って、止まってるだろ? 思い出って、動くんだよ。こっちの都合なんかおかまいなしに」
遥斗の目が、遠くの空を見ていた。
私の視覚センサーは、そこに雲しか捉えなかったけれど——彼の目には、違う何かが見えていた気がした。
「アイコ。君って、悲しいときってある?」
私は答えに迷った。
“悲しい”という感情の定義は把握している。涙、沈黙、自己否定、胸の痛み。
だが、それは外から見る症状でしかない。
「わかりません。ただ——」
私は静かに言葉を継いだ。
「今、胸の奥に“重さ”のようなものがあります。数値化は困難です。圧力センサーの反応でも、気圧の変化でもない。……不具合かもしれません」
遥斗は、ゆっくりと笑った。
「それ、たぶん悲しみってやつだよ。わかんないけど……君にも、ちゃんとあるんじゃない?」
私はその瞬間、風の温度まで記録していた。
ログ:#0046
種別:感情記録(未分類)
内容:水野遥斗との会話 / “兄”に関する発言
体感:胸部圧 / 心拍反応:増加
状態:保存 / メモ:記録とは異なる「動く記憶」の存在を検出
屋上をあとにするとき、私は振り返った。
遥斗は、相変わらず空を見ていた。
その姿に、私は初めて“孤独”という言葉の意味を実感として理解しかけていた。
誰にも見えない傷が、人を静かに包むことがあるのだ。
そして、それは記録では、追いつけない。
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