王が死ぬまでお姫様
@ydhwigk
第1話
私はいつだって、お姫様だった。
平和な世では素敵な王子に恋して睫毛を震わす姫であり、戦火のなかでは国のため勇ましく剣振りかざす姫となる。
まれに革命により身を地に落としたこともあったけれど、その時だって高潔なる姫の魂を決して忘れない。
新たな国に生きる自分の民たちを支えるべく商会を興し奮闘した。
あるいは隣国に亡命し、亡くした者たちの安寧を神に祈りながら、身近な人を大切に思い真摯に生きた。
ティアラもドレスも必要ない。
酔った大衆に笑われながら、ぞんざいな仕草で食べ残しのスープをかけられたって構わない。
どれほど古びた板の上でも、痛み腐った板の上でも、地べたにただ立つだけだったとしても、私は胸をはり、瞳を輝かせ、優雅につま先立ちをして、いつだって完璧なお姫様を演じることができた。
父の脚本を、信じていたから。
違う。信じてる。
その父の書いた物語が、王家ひいては王妃を批判するものだとして舞台から引きずり落とされ、界隈を追われ、旅芸人として放浪してもいよいよ食うに困って、下級貴族の家の洗濯女に紛れた今でも、私は父ほど優れた劇作家を、他に知らない。
幸福な結末を生み出す名手。
彼の遺した役を演じる限り、私は彼の編み出す世界に息づき、創造主に心を守られる。
だから、赤く腫れた指先が幾度となく視界に写ろうとも、感じるべき水の冷たさや割れた傷の痛みを忘れてしまっても、微笑んでいられた。
胸をはり、瞳を輝かせ、頬を薔薇色に赤らめ、白鳥のように洗濯場内を渡る。
「今日もあんただけはご機嫌だね」
同じ洗濯場で働くのルディが、肩の力が抜けたように笑う。
広い敷地の片隅にある小屋に運ばれるあらゆる洗濯物を手際よく選別しながら、引っつめ髪からはぐれた一房を汗で濡らしてこめかみに張り付かせていた。
「名前は? 昨日みたいにフラジェって呼べばいいの?」
「そうねぇ。今日は、ライラって気分だわ。ちょっと夢見がちな子なの、歌うのが大好き。仕事中にうるさくしちゃっても、ライラの親切な友人ルディなら、見逃してくれるかしら」
「末端の雑用係にまでご丁寧に構ってくださる執事様が来ない時ならね。それと、今はいてる靴、今夜あたしに貸してくれる?」
私は水をためた桶にシーツを沈め、叱られた犬のように顔を曇らせた。
「だめよ。ルディったら、寝る間を惜しんでこれを直す気でしょう? また良い布きれを手に入れたら貼っとくから、平気よ」
つま先にあいた穴から、親指をひょこひょこと動かして見せる。
けれど彼女はそれを見ずに、優しげな眼差しで私の目をまっすぐに見た。
「いいのよ、ライラ。あたしがしたいの。あんたには親切でいたいのよ」
また手元の作業に視線を戻しても、ルディはかすかに笑っていた。
「まったく。半年前までは、変な子と一緒にさせられたと思って腹を立ててたのに、なんでだろうね」
「ルディが底抜けに良い人なのね。……思いついた。底抜けに良い人を称える歌」
手も動かしつつ、私は歌う。
高原に放たれた羊たちにふりそそぐ日差しを想像しながら、即興で言葉とメロディを繋げる。
じゃぶじゃぶ揺らす洗濯物や水のたてる音も取り入れて、アクセントにかかとを鳴らした。
ルディはなにも言わなかったし、もう私を見なかった。
私たちは背中合わせになって、粛々と互いの仕事を続けてる。
それでも彼女の意識がこちらに向けられているのはわかる。
観客から放たれる温度を探りつつ、それを少しずつ、あたためていく。
最後に、ルディ、ルディ、ルディと、彼女の名を連ねると背中側から笑い声が弾けた。
その余韻がひくのを待ってから、すこしだけ腰を屈めて礼をする。
「変な歌」
「どうもありがとう」
桶の上でシーツをかたく絞り上げる。
滴り落ちる雫たちが次々に水面を叩く音は、なりやまない拍手に似ている。
心地よく耳を澄まし、ふと、足音に気づいた。
「ルディ」
かしこまった報せに彼女もまた口を閉じる。
二人で黙々と作業に集中しだしてすぐ、戸口に人が立った。
「励んでいるか」
低い声がくぐもっているのは、彼が口許にハンカチを押し当てているからだ。
私はルディより先に彼を振り返り、偶然にも美しき花を見つけたかのように微笑んだ。
「ご覧の通りに」
彼は鋭い眼光でくまなく洗濯場を見回し、小さく頷く。
そしてじっと私を見た。
「失礼だが、本来見えるはずもないものが見えているようだ」
「あら、怖いお話をなさるおつもりかしら。ご心配なさらないで、きちんと足はありましてよ。ほら、この通りつま先まで、はっきりと」
靴に穴があいている方の足を持ち上げてふってみせる。
ルディがかすかに肩を揺らした。
けれど彼にはさして響かなかったらしく、むしろ眉間にシワを寄せられる。
私は大人しく足を下ろした。
「給金はどうした。新しい靴の一つくらい買えるだろう」
「淑女には色々と物入りがございましてよ、閣下。……ですが、御目汚しには違いありませわね」
私は支給品でもあるエプロンドレスをつまみ広げて、恭しく貴婦人を真似た礼をする。
「失礼致しました」
「…………」
男は黙り、肌に刺さるような視線を寄越してくる。その果てに、冷えた声を出した。
「ついてこい」
「ちょっと、それは!」
反応したのはルディだった。
男は突然の大声に驚いたように瞬き、すぐに常の顔に戻る。
「こちらには新たに人をつかわせる。しばし一人にさせるが、そのために仕事に支障を来していることは私から報告しておく」
「違う。そうじゃない。なんだってこの子を連れてこうっていうの」
その震える肩を後ろから優しく叩く。
「ルディ、大丈夫よ。すこしだけ閣下に顔をお貸しして、またすぐ帰ってくるからね」
「でも、リュカ、あんた」
本名を呼ばれ、私はいよいよ落ち着いた。
じっとルディの顔を覗き込む。不安げに揺れる瞳を、じっと、ただ見つめる。
すると、私の心の凪が伝わったかのように、彼女からもすうっと慌てた気配が抜けていった。
ここだ。
針さすように言葉を放つ。
「大丈夫よ、ルディ。信じて」
泣き出しそうな顔の彼女が、頷いた。
親切な友人、ルディの肩を軽く抱き締めて、私は男に駆け寄る。
「どちらに参りましょうか」
「ひとまずは、屋敷に」
踵を返す彼について、私は柔らかに床を蹴りあげる。まるで芝生の上を歩くかのように、跳ねるように。
私の退場を見送る大事な観客に、元気な後ろ姿を見せながら、私は次の場面を想像した。
恐怖はない。
来るべきときが来たのかと、ただそう思う。
たまに私たちの仕事を監視にやってきているらしきこの男を、ルディは執事だと言った。
確かに彼は執事の上着を羽織っている。
けれど、中身はただの白シャツだし、執事なら備えているはずの装飾品もない。
なにより彼の仕草は、使用人のそれではなかった。
それよりも、もっとずっと、訓練された動きをしている。たとえば、兵士のような。
彼がどうしてここにいて、どうして定期的に私たちのような洗濯女の働きぶりを確認するのか。
おそらく、私の父のことを知っているからだろう。作品により王家を批判したとして投獄され、そのまま二度と日差しを浴びることなく亡くなった、偉大なる劇作家。
その娘がわざわざこの家に雇われに来たのなら、警戒しても当然。
現に、ルディも以前は監視なんてなかったと言っていた。私が来てから始まったのだ。
ルディには悪いことしたな。
使用人の作業場を隠す雑木林を抜け、庭を通りすぎる。屋敷の青い屋根が曇天を背景に冴えていた。
まじまじと見るのは、これが初めてだ。
そして、最後になるだろう。
給金の使いどころを口にしなかったのが不味かったのかもしれない。なにかの準備資金に当てているとでも思われたか。
実際に、洗濯女にしてはなかなかに気前の良い額である給金はすべて、私の野望を叶えるために備えられていた。
もう一度、舞台に立つ。
どんなに小さな劇場でもいい。
もう一度、父のお姫様を演じる。
ある意味では、王家への復讐ともいえるその権利を買うため、私は下級とはいえ王より爵位を賜って暮らす貴族に雇われることを決めたのに。
「リュカ・プラエダ」
男が庭の半ばで立ち止まり、振り返る。
さすがにもうハンカチは口に当てていなかった。
はじめて全貌を見たが、なかなか整った顔立ちだと思う。生真面目そうな感じが、騎士の役に良さそう。
そういう作品もあった。
破天荒な王子様の冒険物語。生真面目で忠誠心に溢れるせいで、すっかり王子の小間使いにされてしまう騎士。
王子に恋するお姫様もついつい彼を頼ってしまうのだ。無理やり密会する場を作らせたりとか。
「私の顔に、見覚えがあるか」
低い声に、はっとする。
少々、不躾なほどに見惚れてしまった。
「恐れながら、覚えはありませんわ。あなたのような良きお方にどこかで出会っているのに忘れたのだとしたら、惜しゅうございますね」
「……いや、それならばいい」
彼はどこかほっとしたように息をつき、手に握りしめたままだったハンカチをポケットにしまった。
「連れ出してきておいて悪いが、私はこの屋敷の人間ではない。ややこしいのだが、この屋敷の主に許可を得て潜り込ませてもらっていた」
「私の監視のために?」
「監視ではない。だが、あなたを目的としていた」
彼は動揺しなかった。さすがにそうした訓練も受けているのだろう。
淡々と話を続けてくる。
「あなたに頼みたいことがあって近づいた。ただあなたは……事情をおもちだ、いろいろと。見極める時間を必要だった」
「お眼鏡に叶いまして? それとも、不合格だったかしら」
「合格だ。……あなたにとってそれが、幸か不幸かは、わからないが」
彼は一瞬だけうつむいた。
また私の破れた靴を見たのかもしれない。苦々しげに表情を濁らせ、目をつむり、また顔をあげる一連の動作には、彼なりの苦悩を感じ取れた。
「リュカ・プラエダ。あなたに、とある舞台で演じてほしい役がある」
今度は私が息をつまらせる番だった。
演じる。私が? 役がある。私に?
「その役というのが「やります」…………は?」
私は高らかに手を掲げた。
「その役、やります」
「待て。話を全部聞いてからにしろ。それでも遅くない。一回、受けたら後戻りはできないし、後悔しては務められない役目なんだ」
「もうずいぶんと待ちました。父が……いえ、私が舞台から離れて、もう五年です。もちろん、この五年をブランクだとは思っていません。私は演じることをおろそかになんてしなかった」
毎日、誰かを演じてた。
昨日はドジな娘フラジェ。今日は歌謡のライラ。
ベースは父の遺したお姫様たちだったけれど、設定を自分なりに足して、市井に生きる彼女たち一人一人を演じ分けてきたつもりだ。
そうやって、日々をやり過ごし、お金を貯めて、狙ってた。
もう一度、舞台に立つ日を。
その機会が向こうからめぐってくるなんて。
「舞台はどこですか。演じる人の名前は誰が名付けた、どんな意味の言葉ですか? 女性ですよね。男性でもやってみせるけれど。年齢はどれくらい? 私は今、十九ですが、舞台の上なら何歳にだってなれます。どこで生まれたか、どんな親に育てられたかの設定はありますか? なければ私なりに考えてみるので、物語のなかでの立ち位置を教えてください」
「ま、まて、落ち着け。私では処理しきれん量を話されても困る。私の今の役目はあなたに頼みたいことを話して、了承を得たら、主のもとに連れ帰るというだけなのだ」
「了承はしました。連れていってください」
「だから、その前に頼みたいことを話させてくれ」
困惑しきった彼に、しぶしぶ口を閉じる。他の演者の役目を果たさせてあげるのも、物語には必要なことだ。
彼は深呼吸し、また真面目な顔に戻った。
「あなたに頼みたいのは姫の役だ。この国の王子の、仮の婚約者になってほしい」
そう言いきった後で、彼は瞳を揺らす。
「……あなたには、酷なことだ。演技といえど、親の仇の婚約者になるなど。断るのも仕方がないと、私は思う」
その彼に向かって、天から舞い降りたかのような一歩を踏み出す。
一瞬にして、彼の目が自分を意識したのがわかる。すかさず、ふわりと満面の笑みを浮かべた。両手を胸の前でかたく結ぶ。
神に、心からの感謝を。
「嬉しいですわ、お姫様だなんて」
地声より、すこしだけ高く声を出す。
小鳥のように愛らしく、せせらぎのように美しく。
「一番、得意ですのよ」
腕を伸ばして、固まる彼の頬を水仕事でただれた指先で掠めた。びくりと肩を跳ねさせ、彼は自分の左の腰辺りに手をやる。もちろんそこに、剣などぶら下がってないけれど。
間合いまで詰められたことに気づいた彼の喉仏がおおきく上下する。
「ほんとうに、いいのか?」
「構いませんわ」
私は、この世で一番の劇作家に愛された、この世で一番の名俳優。
「私の役目を教えてくださる? 私は王子を愛せばよろしいのかしら? それとも少し憎んでいる? 無関心でいたほうが良いこともあるのでしょうね。なんでも仰って。私はどんな役でも演じきってみせますの」
演じなくてはならない。
それ以外に、自我などない。
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