第二章 夏が来たから旅に出る

2025w27 遠くて近しい場所

 早すぎないか?

 と思わずには居られない梅雨明けに、今年の米や夏野菜等々は不作にならんだろうかと、何もできないくせに心配だけする日々。

 随分と暑い日が続く中、とあるきっかけで出かけることになった。


 昨秋〜初夏にかけてのハウス栽培を片付けた高知のシシトウ農家の友人一家が奈良に遊びにやってきて、奈良県南部の天川てんかわ村にある天河神社へ行きたいと言うので、天川村が好きで度々訪問している私が、案内役として同行することになったのだ。

 

 正確には天河大辨財天べんざいてん社と言って、音楽と芸能にまつわる弁財天を祀っており、毎年、神殿内の神前にある舞台で能が奉納される。


 歴史は古く、日本古代最大の戦乱とも言われる『壬申の乱』に臨む前、大海人皇子おおあまのみこが大和朝廷の守護神の故郷・吉野へ赴いて必勝祈願の琴を奏上したところ、音に乗って天女が現れ戦勝を祝福したと言う。

 この天女の正体は役行者が弥山みせん山頂(alt 1,895 m)に祀った弥山大神で、壬申の乱に勝利し天武天皇となったあかつきに、天女の加護に報いるために麓に造営した神殿を「天の安河の宮」としたのが、天河大辨財天社の始まりとされる。

 『天の安河』は天川村の地名の由来になったのだとか。


 天河大辨財天社の奥宮が祭祀される弥山みせんの名は仏教の世界観に由来し、関西最高峰の八経ヶ岳(alt 1,915 m、別名:仏教ヶ岳、八剣山)、修験道の開祖・役の行者が開いた修験道発祥の地である山上ヶ岳(alt 1,719 m、女人禁制)を含む一帯の山全体として、大峯山おおみねさんとされる。

 その大峯本宮が天河大辨財天社である。


 このようにローカルでは山岳信仰の修験道と仏教の結び付きは深い。


 さらに神仏習合により日本という国の信仰体系である神道(何しろ天武天皇は日本書紀の元になった国史の編纂を命じた)とも織り混ざり、弁財天はヒンドゥー教の聖なる河の女神が仏教に取り入れられた天部の一柱であるから、その眷属の龍や蛇、つまりは水の神、財運の神としての側面も想起される。


 何というか、私のように明確な信仰を持たない者からすると、「ご利益のパラレルワールドが幾重にも重なる、訳が分からんが凄い場所」ということで何となく納得する。


 少し前のエピソード「往く馬の谷とまち」で、奈良の地理的な話や修験道にまつわる話を少し出した。


◉往く馬の谷とまち

https://kakuyomu.jp/works/16818622172629050517/episodes/16818622175060829363


 奈良といえばシルクロードの終着の地として仏教のイメージが強いかも知れないが、それは単に、日本の義務教育課程の教科書で大仏建立を中心に奈良時代の仏教が紹介されるからであろう。


 仏教の極楽浄土信仰(生とは辛いもの、今精進すれば死後に極楽浄土へ行ける)を中心に説いて民を働かせ、聖職者は寺に籠って念仏を唱え、それを国政の形としていた。

 当然、険しい山岳を仏教の世界観に見立てて厳しい自然と向き合い、自然界の神秘性を目の当たりにする中で「真に大事なことは何か」を自らの内に悟ることを信条とする修験道とは考え方が違う。

 奈良盆地を中心とした中央の仏教に対し、大峰山系、葛城山系、生駒山系を修行の場とした辺境の修験道はある意味で異端であったかも知れない。


 そして神代からの系譜を綴る国史を以て、統治者の正当性を確立するために編纂された日本書紀。

 その礎に関わるこのヒンドゥー教の聖なる河の女神は、二本腕の芸能・学問の神としての性質かおと、八本腕の鎮護国家の戦神としての性質かおがある。

 これは間違いなく、試練を乗り越えた大海人皇子と、国の頂点に立って国の礎を築いた天武天皇の二つの顔を意味しているのだろう。

 あえて外来の信仰を引き合いに出すことで様々な思想があることを仄めかし、日本固有の神道を以て様々な思想を束ねられるのだと示したのかも知れない。


 そして天武天皇の代から、それまでの『大王おおきみ』に代わる『天皇』の称号が生まれたという学説もあるらしい。


 これらの見地からも、天ノ川あまのかわのほとりにある天河大辨財天社に纏わる「はじまりの物語」は、いわゆる貴種流離譚と言えそうだ。

 物語を綴ろうとする立場からすれば、そんな眺め方こそより面白みが増してくる。




 さて、前置きが随分と長くなったが、天河大辨財天社の謂れをクドクドと書いておく気になったのは、「呼ばれなければ辿り着けない場所」という言葉だけがスピリチュアルっぽいことを好む人の間で一人歩きしているような感じがしたからである。


 実際、天川村は紀伊半島のど真ん中に位置しており、どこから切り込んでも遠いことがわかる。生駒市からはおよそ70km。仁和寺の法師が積年の思いで歩いた石清水八幡宮までの距離が20kmほどであることを鑑みると実に遠い。

 興味がおありの方はマップを参照していただければと思う。


 そして人の居る都から遠く離れた険しい山々の麓にあって、かつては里らしい里も無かったであろう彼の地には、余程のキッカケがなければ目指すことすらしないのではなかろうか。

 山深い場所は谷も深い。橋のない時代の積雪期や水害の多い時期には、目前にして渡ること叶わずということもあったかも知れない。


 それが今や某SNSでは「大阪から車で二時間で行ける秘境!」なんて紹介されていたりするので、何ともがっくりと肩が落ちてしまう。

 そんなものは秘境でも何でもない。車という文明の利器を乗り回す者たちが呼んでもないのに興味本位の観光でやってくるわけだから、今の時代においてはいつでも誰でも行ける場所である。


 だからこそ「呼ばれなければ辿り着けない場所」という言葉が、一人歩きをしているように感じるのだと思う。




 今回、参拝したのは6月30日、夏越なごし大祓おおはらえの神事の日である。

 日程の都合上、午後に催される行事には参加できなかったが、大安であり一粒万倍日であり、非常に縁起の良い日でもあったこともあり、そういったことに疎い私はさておき友人は大層喜んでいた。


 昨年の秋に私と再会し、シシトウ収穫の合間に話す中で、「そういえば奈良の天河大辨財天社に行ってみたい」と思っていたことを思い出したらしい。

 しかし家族がいるので単独での遠出も、近場以外への車の運転も難しい。何より秋から初夏にかけては高知でのシシトウの収穫で大忙しである。

 それが最近、親類が奈良に新居を構えたので、家族でお宅訪問を兼ねて奈良旅行をしようと相なったのだと言う。

 夏の間だけ規模を縮小した路地栽培に切り替えるので、不在の期間だけ親類に頼んでささやかな家族旅行をする。その行き先として、今年は奈良が選ばれたという訳だ。

 実にトントン拍子である。

 そんな風に気持ちと都合とタイミングが重ならないと、なかなか行くことができない。しかしひと度歯車が噛み合うと驚くほどあっさりと実現に向かう。その驚嘆から「呼ばれなければ辿り着けない場所」と言われるようになったのだろう。


 三兄弟の一人が受験生として学業成就を祈り、バスケットボールのクラブチームを主催する一家として戦神を讃え、シシトウ畑への恵みの雨を乞い、南海トラフに付随する水害からの救済を懇願する。

 最後に世界平和を祈り、氏名と年齢を記入した人形ひとがたで身体の不具合のある箇所を撫でて奉納する。

 そうやって今年半分の心身の穢れを落として、その地を後にした。


 日常の中でやりたいと思う小さなことですら叶わず、忙殺されている状況の中で己が置き去りになるのを我慢していたであろう友人が、一つの達成を以て少し晴れやかな顔で帰ってゆくのを見て、これも梅雨明けのようなものかなと思った。

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