第2話 春

「行きたくない……」 

「優那(ゆうな)、そんなに暗い顔しないの。生きてればいいことあるよ」

「いいこと、かー。今まで一度もなかったし、これからも起こるとは思えないけど……。そういうお母さんだって、いいことなんてなかったでしょ?」

「失礼な子ね。私にはあったよ」

「でもお母さん、男と付き合ったこともないんでしょ?なのにいいことなんてあったの?」

「それはね、ムフフ、あなたが生まれたこと!毎日あなたを見るだけで嬉しくなるんだから!」

「えー、照れる。でも元気出た。」


 私は玄関の鏡を見た。そこに映っているのは、いつも通り、とんでもなく不細工な女子。外を歩くだけで恥ずかしいから、登校するときにはいつも帽子をかぶっている。


 ギィ……


 ドアの建てつけが悪い。家を出てから振り返ってみると、朽ちかけたプレハブのような小さな建物が置いてある。これが私の家。

 私の家には「お父さん」っていうものがいないから、とても貧乏なんだ。母は休みの日もなく食品工場で働いている。

 風呂は、ガス代が高いから毎日は入れない。制服だって、ボロボロなのに使い続けてる。ボロボロなのは他にも理由があるんだけど……。


……


 私は学校に着くと、ドアを開けて騒がしい教室に入っていった。この空間に入っただけで、めまいがする。私は一番前の自分の席に近づくと、SNSを見ていた男子生徒のそばを通った。


「うおっ……!」


 その男子生徒は、わざとらしく驚くと尻餅をつくジェスチャーをしながら、両足と片手で体を支えた。その姿勢でにやけながら、周りの女子生徒を見た。


「行飛(ゆきと)、ビビりすぎ」

「えぐいて」

「それなー」


 私はいつものようにスルーして自分の席に座った。教室内の机は二つ並んでいるのだが、教壇(きょうだん)の前のこの席だけは、隣の席がない。私はホームルームが始まるまでの間、学校から貸し出されているタブレットで教科書を眺めていた。家には塾に行く金もないから、教科書を見るくらいしか勉強の方法がないのだ。でも……


 ポンッ


 背中に丸めた紙が当たった。誰かが邪魔するために投げてきたのだろう。この人たちは、不細工な私の成績がいいのが気に入らないのだ。それでも私は集中して勉強していた。


(集中、集中……)


「必死すぎ」

「陰キャきもいてー」

「草」


 後ろで話しているグループから笑い声が聞こえた。今度は頭に紙のボールが当たって手元に落ちてきた。私はそれを手で払って床に落とす。


「ポイ捨てはいかんでしょー」


 また後ろから声が聞こえる。


(集中、集中……)


 私は何度も心の中で唱えた。

 そうこうしていると、やっとホームルームが始まった。しかし生徒は騒ぎ続けている。


「今日は、転校生を紹介します。入っていいぞー」


 教師の発言は騒音にかき消されたが、転校生が入ってくると、静かになった。


「え、嘘……」

「マ!?」


 生徒からどよめきが聞こえる。


「ほら、名前書いて」

「はい……」


 転校生は電子黒板に名前を書いた。


「柴田宏(ひろし)です……よろしく」


 教室中が息をのむのがわかった。それ程までに、この衝撃は大きかった。多分、全員の人生で一番インパクトが強い出来事だろう。

 私にとって前の席は、後ろから物が飛んでくるから嫌だったが、この日はそれに感謝した。


(だって、目の前にいる……)


 今まで感じたことがない新鮮な、でもどこか懐かしい感情が、風の様に心の中を吹き抜けるのを感じた。

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