空色の日記④

 午後8時半。

「……お待たせ」

「あ、操……」

 すっかり明かりの消えた校舎の前。固く閉ざされた門の正面に、彼は立っていた。

「急に俺のことを呼び出すなんて、一体どうしたんだよ。話したいことがあるって言ってたけど……」

「うん。……良かったら、ちょっとだけ歩かない?」

 照人の方を振り返りながら、僕は長く続く夜の歩道を指差す。

「まぁ……いいけど。ただ、あんまり長居はできないからな?」

「うん、分かってる」

 承諾してくれた照人の厚意に甘え、僕はゆっくりと歩き始めた。

 ……いざ2人で話すとなると、ちょっと緊張しちゃうな。

 プールに行ったり勉強会をしたりした時は、不審に思われるような行動をしないよう注意していたつもりだけど、2人きりになると一気に隙ができそうで怖い。

 でも、﨑森さんからいつ連絡が来るか分からないことを考えると、手短に話を済ませてしまった方がいいだろう。

 やるしかない。決意が鈍る前に。

「……﨑森さんとは、最近どう?」

「え」

 変に取り繕っても仕方がない。

 僕は、正面から本題に切り込むことにした。

「どうって……。別に、何もないぞ。あーでも、最近大分自然に話してくれるようになったなって思った。他の人達とも仲良くなれてるみたいだし……。ちょっと偉そうかもしれないけど、見てて安心するっていうか」

「そっか。確かに、それはそうかもね」

 照人の目から見てもそうなのなら、彼女は間違いなく成長できているのだろう。成長――というより、過去からようやく解き放たれた、と言った方が近いかもしれないが。

「ずっと、周りと接する時に線を引いてるなって思ってたから……。それがなくなったのは、俺としてもすごく嬉しい。これからも、もっと仲良くしてほしいって思うよ」

「そっか……」

 小学校の高学年にもなると、徐々に異性のことを意識するようになってきて、素直に感謝の気持ちを述べたりすることはだんだん難しくなってくる。それでも、照人はそういうのに囚われずにこういうことが言えるのだから、本当に大したものだと思う。

「……じゃあ、僕がいなくても、大丈夫かな」

「え……?」

 ぽつりと、言葉が漏れた。

 静かに俯く僕の横で、照人が呆気にとられているのが分かる。

「いなくても、って……。いや、そんなわけないだろ。﨑森さんが今みたいになれた1番のきっかけは、おそらくお前だろ? 俺は詳しいことは分からないけど、少なくとも操が彼女に何か影響を与えたんじゃないかって思ってる。なのに、操がいなくなってもいいわけないだろ」

「あー、それは、まぁ、うん。いなくなるのがいいってわけじゃないんだけど……」

 想像よりも強い返事が来て、少し動揺してしまう。否定してくれるのは嬉しかったが、僕の伝えたいことはそういうことじゃない。

「……? 何が言いたいんだ?」

「えっと……」

 まさか、親友に話をすることがこんなに難しいとは。

 付き合いが長いからこそ、お互いの考えていることは、多分誰よりも理解できる。それこそ、令那に匹敵するぐらいには。

 ただ、視野が狭くなりがちな令那と違い、照人はもっと柔軟で寛容だ。だから、相手の気持ちを探ることが抜群に上手い。

 伝えたいことを、1番良い形で相手に届けるにはどうしたらいいか――いつも以上に言葉選びに気を遣いながら、照人と向き合う。

「……照人は今、﨑森さんと仲良くしてるでしょ」

「あ、あぁ」

「それはきっと、照人自身の努力もあると思うし、僕の手助けも多少は影響があったのかもしれないけど……。1番は、彼女自身の心の変化だと思うんだ」

 これは、﨑森さんが、自分の力で過去を打ち破った結果だ。

 まずは、それを彼に伝えなければならない。

「﨑森さんは……僕の口からは、あまり詳しくは言えないけど……心の内に、重たい想いを抱えてる。それを吐き出せずにいて……でも今は、その気持ちと、徐々に向き合えてきてるんだと思う」

「……」

「照人はきっと、そんな﨑森さんの心の支えになれると思うんだ。だから、彼女が……もし、折れそうになってしまっても……変わらず、彼女のことを支えてあげてほしいんだ」

「……はぁ……」

 言っていることがよく分からないとでも言うように、照人が顔を顰める。

「つまり、今と変わらず、彼女の友達として接してればいいってことか……?」

「うん。今のまま、この関係を大事にしてくれれば、それでいい」

 あまり深く追求しなくても、照人はきっと良い感じに解釈して行動に移してくれるはずだ。

 そんな都合のいいことを考えていると、照人が、「……でも」と口を挟んだ。

「でも?」

「いや、操の言いたかったことはとりあえず分かったんだが……。そもそも大前提としてお前は、﨑森さんが最初期に周囲に上手く馴染めていなかった原因を、詳しく知ってるってことなのか……?」

「……」

 やっぱり、そこを突いてくるか。

 照人の言葉を否定することはせず、彼の言葉に耳を傾ける。

「もし知らないんだとしたら、まぁ今まで通りに俺が彼女のことを見守り続けるよ。でも……﨑森さん自身が、そのことを操に打ち明けているんだとしたら……その役割は、俺じゃなくて操が担うのが筋なんじゃないか? 﨑森さんもそれを望んでると思うんだがな」

「……」

 照人の言っていることは正しい。

 彼女が結果的に変われたのは彼女自身の出した成果だが、彼女の心に変化を与えるきっかけを作ったのは僕だ。

 だとしたら、彼女が完全に心の闇を払拭するまで支えてあげるのが、本来の理想なのだけど。

 ……残念ながら、それはおそらく叶わない。時間は、残酷に過ぎていくものだから。

「……僕も、できるならそうしたい。でも……できないんだ。だから、照人に託したい」

「……どうして、って、聞いていいのか?」

「……」

 僕は、何も答えずに俯く。”聞いていいのか”と先に許可を取ろうとしてくれる優しさが、余計に胸に沁みて痛かった。

「……言いづらい事情みたいだな」

「……きっと、半年経てば、僕の言いたかったことが分かると思う。その頃には、きっと照人に、その役割が移っているはずだから」

 あるいはそれは、令那かもしれないけど――。いずれにせよ、この3人を結び付けておくことが重要だと僕は考えている。僕と、それぞれ違う立場で近しい位置にいた3人。それぞれが負う傷が深くても、3人のうち誰かが立ち上がれば、きっと他の2人に前を向かせることができる。

「なんか……不穏だな。転校とかそういうやつか……?あぁ、でもこれじゃあ詮索してるみたいでやだな……」

「……ごめんね。僕も、上手く言葉にできなくて……」

「謝るなよ。言いづらくても、俺のことを信頼して、言える範囲で話してくれたんだろ? だったら、それで十分だよ」

 ポン、と優しく肩を叩かれる。その温かな動作に、目の奥が熱くなっていくのを感じた。

「僕――照人と友達で良かった」

「おう……。なんだよ急に。照れるじゃんか」

「ふふっ。でも、これが本心だよ」

 僕の言葉に、照人は面食らったように何度も目を瞬かせていたけど、しばらくして柔らかい笑みを浮かべた。

「……俺も、お前と友達で良かったよ。これからもずっと……俺の親友でいてくれ」

「っ……」

 ――その言葉には……頷けない――

 そう思ったけど、否定することもできなくて、僕は言葉を発さずに、小さくはにかんでみせた。

 ――伝えたいことは、とりあえず伝えられたと思う。そんな達成感で、僕は自分の苦い感情を上塗りした。




 照人と別れてから家に戻ると、﨑森さんから着信があったことに気づいた。

 慌ててかけ直すと、彼女はすぐに電話に出てくれた。

『ちょうど良かった。今、積谷さんがお風呂に入ってるから。今ぐらいしか電話できないと思って……』

「良かった。じゃあ、令那のこと、見つけられたんだ」

 まさかここまで上手くいくとは思っていなかった。﨑森さんの報告に、僕は内心で密かにガッツポーズをきめる。

『……操くん。私は、積谷さんに、何をしてあげればいいかな……?』

 遠慮気味に放たれた言葉。﨑森さんらしい気遣いが、その声色に表れている。

「何をしてあげたらいい……か……」

 できれば、﨑森さん自身の真っ直ぐな言葉で、令那の頑なな心を動かしてほしいという想いがあった。でも、元々2人はそこまで接点があったわけじゃない。お互いのことをそこまで知らない中で、どこまで込み入った話ができるか……――

 実際のところは、すでにこの段階で、﨑森さんは自らの家族の話などを令那にしていて、それなりに打ち解けた雰囲気だったみたいだけど、この時の僕はそんなことを知っているはずもなかったから、2人にどんな会話をしてほしいか必死に頭を働かせていた。

 僕が言いづらくて、﨑森さんからなら言えること。

「……令那に……前を、向かせてほしいかな」

『前を……?』

 僕の言葉に、﨑森さんが問い返してくる。

「うん。令那は多分、今、結構追い詰められちゃってると思うから。それも、僕だけじゃなくて、自分で自分を責めてるところもあるんだと思う。だから、令那が塞ぎ込んじゃわないように、背中を押してあげてほしいんだ」

『ん……。ちょっと、難しいかも……』

「そうだよね。でも僕は、﨑森さんならできると思ってるよ。令那は頑固だけど、相手の話はちゃんと聞いてくれる子だから。﨑森さんが話せば、きっと真剣に向き合ってくれると思う」

『そう、なのかな……』

「うん、きっとそうだよ。だから……後ろばかり向いてないで、ちゃんと前を向かなきゃって、思わせてあげてほしいな」

 自分でも、無茶なことを言っている自覚はある。

 でも、令那には、そのぐらい強い気持ちを贈った方が良いと思った。

 﨑森さんは、ずっと過去に囚われていた。だから、まずはその呪縛から解放してあげる必要があった。

 でも、令那が囚われているのは過去じゃなく、未来だ。思い描く未来のために、今の自分を縛り付けている。その綻びが、今露わになっているんだ。

 だったら、もう一度立ち上がってもらわなくちゃいけない。立ち上がって、力強く、いつも通りの堂々とした態度で歩いてもらわなくちゃいけない。そしてその隣に、僕ではなく、新しい仲間がいてくれれば、僕はそれで大満足だ。

 僕は、彼女の強さを信じている。だから、﨑森さんの時のように、優しい言葉はかけない。

「お願い、﨑森さん。……君の言葉で、令那のことを支えてあげて」

『…………分かった』

 長い沈黙の後、小さく吐き出された息に続いて、﨑森さんが頷いてくれたのが分かった。

「ありがとう。……っ」

『? どうかした……?』

「う、ううん、何でもない。令那、そろそろお風呂上がるんじゃない? 大丈夫?」

『あ、確かに、そろそろかも……。ごめん、電話、切っても大丈夫……?』

「うん、大丈夫。じゃあ、後はよろしくね」

『うん。……ありがとう、操くん』

「うん。こちらこそ、ありがとう」

 﨑森さんにお礼を告げ、電話を切る。……直後、僕はベッドに倒れ込んだ。

「っぅ……」

 早鐘を打つ心臓を服の上から押さえつけ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 またか……。

 この感じは、少し寝転がっていればだんだん落ち着いてくるパターンかな……。

 携帯を手放し、ベッドの上で仰向けになりながら、僕は瞳を閉じた。

 ……これでもう、やり残したことはなくなったかな……。

 令那にも、照人にも、僕からの遠回しなメッセージは伝えられた、と思う。その意味が本当に理解できるのはまだ先だろうけど、あの2人だったらきっと汲み取ってくれるはずだ。

 後は……。

「……」

 脳裏に浮かぶ、﨑森さんの笑顔。

 彼女に、伝えなきゃな……――。

 令那や照人とは、似て非なるメッセージ。彼女にも、前を向いてほしいという想いはもちろんある。これからも、今の明るさを保ったまま、輝く未来に向けて駆け抜けていってほしい。

 でも、彼女が、本当の意味でそれをするのは、きっとすごく難しい。なぜなら彼女は、一度闇に引きずり込まれてしまった人間だから。”他人”というものの恐怖を全身で味わってしまった人だから。

 だとしたら、彼女に伝えるべきことは……――

「……ふぅ」

 少し呼吸が整ってきた。

 僕はベッドから起き上がると、机の上に置いてあったペンを手に取った。

 度胸がないと言われれば、それまでかもしれないけど。

 長年愛用している日記帳の、最後のページ。まだ真っ白なそのページに、少しずつ文を書き込んでいく。

 これはきっと、僕の遺書になる。

 だったらこの本は、僕が残したい想いを綴るものにしよう。

 読んでもらえるかは分からない。普通に考えれば、自分の日記なんて、他人に見せたいとは思わないものだし。

 でも、僕は読んでもらいたい。僕が生きた証を、辿った軌跡を、誰かに覚えていてもらいたいから。

「――っ」

 筆が進むにつれ、想いが、感情が、どんどん溢れていく。

 令那に。照人に。夏茂さんに。記月くんに。積谷さん達夫婦に。安西さんに。クラスのみんなに。担任の先生に。病院の職員さんに。今は亡き両親に。――﨑森さんに。

 伝えたい。

 僕が、最期の瞬間まで綴る、この言葉を。


 その日からこの日記帳は、ただの”日記”ではなくなっていった。

  



 日記帳に、次々と文章が綴られていく。

 ある時は嬉しいこと。ある時は悲しいこと。

 日々の記録と共に、少しずつ、でも確かに、残される者達へのメッセージが紡がれていく。

 「落ち込まないで」「大丈夫だから」「君のいいところはいっぱい知ってる」「密かに尊敬してた」……。

 﨑森さんに対してだけじゃない。僕が今まで出会った全ての人に、この想いを送りたい。

 ……気がつけば、自分がいなくなった後に読んでもらうためのメッセージだけで、日記帳の中身が埋め尽くされていた。

 これは、いよいよ専用の手帳を買うべきか……?

 そうも思ったけど、日々の記録も、みんなへのメッセージも、全部等しく僕が綴る言葉だ。

 だったら、全部まとめて同じ書物に収めておきたい。

 本屋に出向き、かつて使っていた日記帳と同じ装丁のものを手に取りながら、想いを巡らせる。

 ……いつか、この日記を手放す時が来る、その時まで。

 もう少し……もう少しだけ、僕に、時間をください……。


 僕は願う。

 でも、その時は必ず来る。

 それが分かっていたから、僕は、ある程度覚悟を決めていた。


 そして。

 ついに、その日が来た。


 


 12月17日。


「……」

 冬の冷たい風が、窓を叩いている。

「操、そろそろ学校に行くわよ」

「……うん」

 ランドセルを背負った令那が、僕のことを呼びに来る。

 いつもと変わらない、朝の光景。

 ……いや、その考えは甘えだ。彼女が僕のことを呼びに来てくれて、元気に学校へ向かって、友達と言葉を交わす……それが当たり前のはず、ないのだから。

「操……?」

「っ、う……」

 突如生じた胸の痛みに、僕はその場に崩れ落ちた。

「! 操!」

 異変に気付いた令那が、素早く僕の元に駆け寄ってくる。

「ぅ……はぁ……」

「しっかりして、操! 操……!」

 令那が僕の肩を揺さぶってくる感触がある。

 しかし、それに反応している余裕はない。

「っ……。は、早く、誰かを呼ばないとっ……」

 声を震わせ、僕の体から手を離した令那が、僕から遠ざかっていく。おそらく、安西さんのことを呼びに行ってくれたのだろう。

 今までも、意識を失うような重い発作は何度かあった。でも、今日のは少し異質な感じがする。ごっそりと生気を持っていかれているような、強烈な怠さ。体を起こすどころか、目を開いていることすら億劫になってくるような……――

 霞んでいく視界の中、安西さんを連れた令那が部屋に入ってきたのが何となく分かった。

「ぁ…………」

 瞼が落ちていき、呼吸が浅くなっていく。

 ――意識が途切れる寸前、僕の目から、一筋の涙が零れた。




 ――ゆっくりと意識が浮上していく。

「……」

 何か言葉を発したいけれど、口を開くことができなかった。呼吸器が口元に取り付けられているらしい。

「積谷先生、目を覚まされました!」

「! 分かった、急いで対処する!」

 慌ただしい物音と共に、自分の体にいくつもの手が触れてくるのを感じる。

 しかし、その感覚も曖昧で、本当に触られているのか自信が持てないほど微かなものだった。

「これは……」

「どうしますか? 彼については、積谷先生が判断されるのでしょう」

「……」

 耳に届く、切迫感のある声。……長い沈黙の後、僕の口元から、そっと呼吸器が外された。

「……須上くん。……お別れの時間だ」

 



 僅かに広がっている視界の中――鮮明に捉えたのは、長年を共に過ごしてきた1人の少女だった。

「操……」

「れ……な……?」

 そっと見開かれた瞳に激情がせり上がっていくのを、確かに僕の目は捉えた。

「なん……で……」

「……」

「分かってた……はず、だったのにっ……」

 いつも澄ました顔で佇んでいる彼女が、見たこともないぐらい顔を歪めている。

 彼女と喧嘩した時とはまた少し違う、やるせなさの滲んだ苦悶の表情。

 ――意識が戻ってから、どのぐらい時間が経っただろうか。

 さっきまでの喧騒は消え去り、僕がいる場所――おそらく病室――には、僕と令那の2人だけが残されていた。

 お別れの時間……それはつまり、そういうことなのだろう。

「っ、操!!」

 鋭い声が突然部屋に響いて、視界に見覚えのある茶髪が映った。

「しょう、と……?」

「操、おい、しっかりしろよ操!!」

 掴みかからんとする彼の勢いを、令那が手で制した。

「積谷、お前……」

「もう……そういうことをしてる段階じゃ、ないのよ……」

「……」

 令那の言葉に、照人が息を呑む。逸っていた気持ちの行き場をなくしてしまったようだった。

「お……俺は……」

 よろよろと後退った照人が、力なくその場に座り込む。

 その姿をぼんやりと眺めながら、僕は今ここにいない人達のことを考えていた。

 積谷さんは、今別の部屋にいるのだろうか。この場を令那達に明け渡して、最期の挨拶をさせてあげようと思ったのかもしれない。

 夏茂さんや記月くんはどうしているだろう。僕が倒れてから時間がどのぐらい経ったのか分からないが、今は学校にいるのだろうか。照人がなぜここにいるのかは分からないが、もしかしたらすでに僕が倒れたことが広まっているのかもしれない。……だとしたら、余計な心配をかけちゃうな。

 それから……。

「……」

 脳裏に、今ではすっかり頼もしくなった﨑森さんの姿が浮かぶ。

 本当は、もっと一緒にいてあげたかった。いくら強くなったとはいえ、過去の傷を拭い切れたわけじゃない。彼女がちゃんと進んでいけるように、そばでずっと見守っていたかった。でも、それはもう叶わない。

「……れ……な……」

「! 何、操」

 僕の微かな声に気づいた令那が、そっと顔を近づけてくれる。

「ぼく、の……つくえ……」

「机……?」

「さがして……さいごの……めっせーじ……」

 最早囁くことしかできず、情けなさで涙を流したくなるが、重い体はそれすらも許してくれない。

「最期の……メッセージ……?」

「せ、積谷……?」

 照人の力の抜けた声が聞こえ――僕は、必死に照人に呼び掛けた。

「しょう、と……」

「み、操……」

「……ぼくの、しんゆうでいてくれて……ありがとうっ……」

「! っあ……」

 照人の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。

 それが彼の目から零れ落ちる前に、僕は令那に向き直った。

「あとは……よろしくね」

「操……」

「……ぼく、みんなのこと……――」


 ほんとうに、だいすきだよ。






 ――彼が私達の前から姿を消して、半年経った。

 彼が私達に遺した、大きな心の傷……いつか来るかもしれないと分かっていたその衝撃は、私の予想よりはるかに大きいものだった。

 それでも、おそらく早く立ち直った方なのだと思う。立ち直ったというより、受け入れる覚悟ができたという言い方の方が適切かもしれないが。

 意気消沈していた父も、徐々に気力を取り戻していき、今ではすっかり前と変わらない様子で仕事をしている。私も、落ち込む心を奮い立たせ、何とか学校に通い続けていた。

 乾いた目をこすり、寝転がっていたベッドから立ち上がる。体が異様に重かった。体調が悪いのか、はたまた精神的な問題か。あるいはその両方か。

 時計を眺め、そういえば今日は学校が休みだったな、などと考えながら、私は階下に降りてリビングに置いてある体温計を手に取った。そのままそれを脇に挟む。

 ……しばらくすると、体温計がピピっと軽快な音を立てた。取り出して液晶画面を覗くと、そこまで高くはないが熱があるようだった。

「……」

 熱があるということが分かっただけで、何となく気持ちが沈んでくる。

 学校にも塾にも行かない1日。退屈で、酷く無機質だと感じてしまう……。階段を上り、かつて彼が使っていた部屋を覗き込みながら、そんなことを考えてしまう。

 熱があるなら出かけることもできない。勉強も集中できないだろう。そもそも受験は終わって無事入学もできたのだから、そこまで根詰めて頑張る必要もないのだ。

 かといって、1日中寝ているのも抵抗がある――気晴らしに、部屋の掃除でもするか――リビングを出て階段を上がりながらそこまで考えて、ふと思い出したことがあった。

『ぼく、の……つくえ……』

 ――彼の、最期の言葉。

『さがして……さいごの……めっせーじ……』

 紛うことなき、彼の遺言。

 彼がいなくなってから、気持ちを落ち着かせるので精一杯で、どうにもその言葉の意味を深く考えることができていなかった。諸々の手続きに追われ、疲弊していたと言ってもいい。

 ……それでも、いくらか時を経た今では、少しだけ落ち着いて彼の言葉を振り返れる気がした。

 彼は、遺言で、”遺言を探せ”と言った。最期の力を振り絞り、私に何かを託した。

 階段を上り切った先、彼が長年使っていた部屋がある。

「ここに……」

 それが、あるの……?

 ゆっくりと、彼の部屋に足を踏み入れる。清潔感のある簡素なその部屋は、住人がいなくなったことで生活感がより一層薄くなっていた。

 これまでの時間で、彼のことを考えなかった日はない。当然、彼の散り際に言われたことも、日々頭の中で反芻していた。

 それでも探そうとしていなかったのは、私に現実を受け止める覚悟がなかったというのが大きい。誰もいないこの部屋を見たら、いよいよ受け止めざるをえなくなってしまう。それがただ怖かった。

 目の前で彼が息絶える瞬間を見ていたのにも関わらず、だ。

 ……でも、これでようやく向き合える。

「……」

 彼がいなくなってからの日々は、今までの私からは考えられないくらい怠惰なものだったが、それでも心の傷を癒したという意味では必要な時間だったと思う。

 未だに涙は枯れていないが、それでも私はこの期間でいくらか平静さを取り戻していた。

「確か……」

 彼は、”机”と言っていた。彼が使っていた勉強机を覗き込むと、デスクマットの下に、何やらカードが挟まれていた。

 それを手に取りめくると……1番上に、”令那へ”と書かれていた。

「!」

 驚きに一瞬手が強張るが、そのまま続いている文章を読み進める。

『これを読んでいるってことは、きっと僕の生はもう終わっちゃったんだね。令那は勝手に僕の部屋を覗いたりしないはずだから、こんな分かりやすいところにカードを隠してもへっちゃらってわけだ! ……さて、そんな令那に、僕からメッセージを託そうと思うんだ。もちろん、令那だけに宛ててるわけじゃなくて、他にも話したい人はいっぱいいるんだけどね。でも、こういう仕掛けに気づいてちゃんとメッセージを回収できるのは、同じ家に住んでいた令那だけだと思って。だから、ちょっと分かりにくいけど、こういう手段にしてみました。まずは、机についてる引き出しを開けてみて』

「引き出し……」

 指示通りに、机の横にある引き出しに目をやる。再びカードに視線を落とすと、続きはこう綴られていた。

『令那は知らなかったかもしれないけど、僕、昔からずっと日記書いてたんだ。引き出しの中に、僕の記録が全部入ってるはずだから、気持ちが落ち着いたら読んでみてほしい。誰に見せてもいいし、何人で読んでもいいよ。そこに、僕の伝えたいことを全部詰めたから、代表として令那に受け取ってほしいんだ。お願いね!』

「っ……」

 操らしい、真っ直ぐな文章。丁寧な筆致で綴られた文字に、胸が締め付けられる。

 ……代表、か。

 そんな大役、私が仰せつかっていいのだろうか。

 そんな風に思いながらも、彼の遺志をどうしても汲んであげたくて、私は机の引き出しに手を伸ばした。取っ手に触れてゆっくり手前に引くと、意外にも重い。

 ――そこには、幾重にも積み重なった本が入れられていた。

「これは……」

 1冊手に取り、パラパラとページを捲ってみる。文字を目で追うたび、彼の抱いていた感情が、胸に押し寄せてくるようだった。

 無我夢中でページを捲り続け、あっという間に1冊読み終え――次の日記帳に手を伸ばす。

 そこには、操の生きた日々の記録があった。彼の言葉で、彼自身の鮮やかな思い出が綴られていた。

 嬉しかったこと。悲しかったこと。楽しかったこと。苦しかったこと。

 彼の感情全てが、この日記帳に詰め込まれている気がして、だんだんと息が苦しくなってくる。

 それでも、文字を追うことをやめることができず――私は長い時間、ずっと彼の部屋で日記帳を読み続けていた。

「……」

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。はっとして時計を見ると、短針が天井を指していた。目覚めてから何もせずにこの部屋に来たから、かれこれ数時間は日記を読み続けていたことになる。

 ふと、脳裏に過ったのは、私と同じように、悲嘆に暮れ沈み込む友人達の姿だった。小際くんを筆頭に、皆、操を失ったという事実を受け止められずにいる。学校に来てはいるものの、彼らが浮かべる表情は以前に比べてとても暗い。

 それに――

 小際くんの変化ももちろん衝撃的だったが、それ以上に動揺していたのは、彼女だった。しかし、彼女は表向き取り乱していたわけではない。むしろ落ち着いていたぐらいだ。

 彼女は、私の言葉を頑なに信じようとしなかった。操はもう戻ってくることはないのに、まるで操がまだ生きているかのように振る舞い続けていた。そんな彼女の歪な心模様が、彼女の胸中を私に察させた。

 そして……ある日を境に、彼女は学校に来なくなった。卒業間近だということも厭わず、人前に一切姿を見せなくなった。ずっと部屋に引きこもり、虚ろな目をして空を見つめている。

「――」

 伝えなくちゃ。

 この本に書かれている言葉を、彼らに。

 操の日記帳は、途中までは純粋な日々の記録だったが、だんだんと彼の胸中の想いを綴るエッセイのようなものへと変化してきていた。彼自身が死期を悟った直後から、明確に文章に変化が表れている。

 そして、ついにその内容は、特定の人物達に宛てられたメッセージへと変わった。日記の様相が全くなくなったわけではないが、操と生前関わりがあったのであろう人物に対して、1人1人言葉が書かれている。その内容は千差万別で、中には私へのメッセージもあった。

「周りのことを信じて……か」

 自分以外にも信頼できる人を作ってほしいと、かつての彼は言っていた。死してなお、同じ言葉を繰り返す――それだけ伝えたかったことだったのだろう。だとしたら、私はその言葉を心に留めてこれから生きていかなければならない。

 他にも、小際くん達クラスメイトや、夏休みに遊んだ夏茂さん達、学校の先生、私の家族や、操の亡きご両親にまで、多方面にメッセージがしたためられていた。そのどれもに、操の優しさと愛情が詰め込まれているのを感じて、心が温かくなる。

 ――しかし、どれだけ読み進めても、﨑森さんに対するメッセージは見つからなかった。もしかしたら、かなり終盤の方に書いてあるのかもしれない。逸る気持ちを抑えながら、必死にページを捲っていく。

 ……しばらくして、ようやく到達した最終ページ。震える手で本を持ちながら、慎重に読み進めていく。

「――っ」

 視線が文字を追い、胸に様々な想いを運んでくる。……ここまでの日記とは明らかに異質な空気感が、そこには確かにあった。

「……見せ、なきゃ……」

 必ず、見せにいかなきゃ。

 どんなにこっちのことを無視し続けていたとしても、ちゃんと読ませなきゃいけない。

 この本はおそらく、彼女のために書かれた本なのだから……――

 

 私は、自分の体が熱を持っていることなどすっかり忘れて、素早く家を抜け出した。

 後のことなどどうでもいい。今はとにかく、彼女に会いたい。ううん、絶対に会うんだ。会って、ちゃんと話をする。

 夏のじっとりとした空気が肌を撫でる。彼と死別してから半年――初めて、世界が色づいたように私には感じた。

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